内容要旨 | | 神奈川県丹沢山地では大面積にわたる森林の伐採と,それに引き続くニホンジカ(Cervus nippon)個体数の急増が1960年代に観察された。それ以来,シカとその生息環境である丹沢山地の森林をめぐり,生態学的なさまざまな問題がひきおこされてきた。なかでも最も重大な問題は,シカにとってきわめて重要な冬期の食物であるスズタケの分布が徐々に縮小し,現在では標高の高い地域に限れていることである。本研究はスズタケとミヤマクマザサが分布する高標高地域においてシカの個体数の季節的変化,ハビタット構造と利用,ホームレンジの広さやグループサイズとハビタットとの関係など,個体群の社会生態学的解析を行い,それをもとに丹沢山地のシカ個体群管理の方策を検討したものである。 調査は丹沢山地のなかで丹沢山(標高1567m)とりゅうがばんば山(標高1500m)とを結ぶ尾根筋を中心とした地域でおこなった。この調査域では,シカは春から秋にかけては30頭ほどの非移住性の個体が生息しているが,食物が少なくなる晩秋にはササを摂食するために多くの個体が集合してくる。しかし,真冬になると積雪による被覆と摂食によるバイオマスの低下により,ササは食物として利用しにくくなる。このためシカは標高の低いところへとふたたび散らばってゆき,落葉への依存度をたかめるとともに,樹皮をむいて食べはじめる。 調査域に1995年の冬にいたシカの個体数は120頭で,1994年の冬よりも30%多く,晩冬には大量の餓死が観察された。 調査域をシカの食物となる植物現存量をもとにハビタットタイプに分類したところ,5つに分けられた。すなわち食物(ササ,イネ科草本,広葉草本)の少ない灌木林,食物量は中程度であるは集中的に分布している壮齢林,林床には食物とならない植物がある壮齢林,食物のバイオマスが最も大きい開放地,食物も被覆もない崩壊地である。 直接観察で活動中の個体のハビタット利用を調べることにより,摂食のためのハビタット需要を明らかにすることができる。それによればこの調査域では基本的にシカは食物の多い開放地を選好し,林床に食物とならない植物しかない壮齢林は選好しなかった。しかし,秋には開放地を選好せず,この季節には落葉を食うために灌木林と壮齢林を選好した。 ラジオテレメトリーを装着した個体の観測にもとづいてハビタット利用を調べたところ,シカは崩壊地を利用しないことが確認された。これらの個体は,食物が豊富な時期は崩壊地以外のハビタットを食物存在量に対応するかたちで利用した。しかし,詳細にみるとハビタット利用は一日のうちでも時間によって変化した。主として朝と夕には開放地を,昼間には閉鎖したハビタットを主として利用した。 ハビタット利用のパターンはシカ密度によっても変化した。密度が上昇すると食物の少ないハビタットも高率に利用されるようになった。 この調査域は食物条件が好適であるため,シカのホームレンジはきわめて小さく,11.2〜20.2haであった。ホームレンジの広さの個体差には食物量は影響していない。しかし,ホームレンジの中に開放地が高い割合で含まれているような場合には小さくなる傾向があるとともに,ホームレンジの広さは密度によっても変化することが明らかになった。 グループサイズはシカ密度,グループ構成,季節,時間などによって変化した。また季節によって,グループサイズが違えばハビタットの利用に違いがあった。食物のバイオマスがその主要な理由である。 性比は,どの時期もオスよりもメスにかたよっていた。この理由として,(1)低標高域で行われている狩猟の対象はオスだけであること,(2)エネルギー要求が大きいオスの死亡率が高いこと,(3)性的隔離などがきいているものと考えられる。 これまでに主として低標高域で行われた丹沢山地の研究結果に,高標高域で行われた今回の研究結果を併せ,丹沢山地におけるシカの個体群管理のありかたを考察すれば以下のようなものとなろう。まず,シカの密度を低下させ植生に対する摂食圧を低下させることが重要である。同時に,オスのみではなくメスをも狩猟の対象にして性比のバランスを回復させること,フェンスの設置と樹木個体の保護策を講じることによって森林の更新をすすめて食物条件を長期的に安定化させることがなくてはならない。このようにして,過度の摂食圧に由来する植生の貧困化を防止し,また山地の崩壊を少なくすることが可能になる。低標高地域では草本類の回復をはかり,初冬にもシカがそこで生活できるようにすることにより,高標高地域のササに与えるきわめて強度な摂食の影響を軽減することが必要である。今後のシカの管理は,シカだけではなく生態系全体を考慮にいれた意思決定がなければならない。 |
審査要旨 | | 神奈川県丹沢山地ではニホンジカ(Cervus nippon)個体数の急増が1960代に観察された。それ以来,生態学的にさまざまな問題がひきおこされてきた。なかでも最も重大な問題は,シカにとってきわめて重要な冬期の食物であるスズタケの分布が徐々に縮少し,現在では標高の高い地域に限られていることである。本研究はスズタケとミヤマクマザサが分布する高標高地域においてシカの個体数の季節的変化,ハビタット構造と利用,ホームレンジの広さ,グループサイズとハビタットとの関係など,個体群の社会生態学的解析を行ったものである。 調査は丹沢山と竜ゲ馬場山とを結ぶ尾根筋を中心とした地域でおこなった。この調査域では,春から秋にかけては30頭ほどの非移住性の個体が生息しているが,食物が少なくなる晩秋にはササを摂食するために多くの個体が集合してくる。しかし,真冬になると積雪による被覆と摂食によるササの葉の減少により,食物としてササは利用しにくくなる。このためシカは標高の低いところへとふたたび散らばってゆき,落葉への依存度をたかめるとともに,樹皮をむいて食べはじめる。個体数が急増した1995年の冬にいたシカの個体数は120頭で,晩冬には大量の餓死が観察された。 シカの食物となる植物現存量をもとにハビタットタイプを5つに分類した。すなわち食物(ササ,イネ科草本,広葉草本)の少ない低木林,食物量は中程度であるが,集中的に分布している壮齢林,林床に食物のない壮齢林,食物の最も多い開放地,食物も被覆もない崩壊地である。 直接観察とラジオテレメトリー法によってハビタット利用を調べたところ,シカは食物の多い開放地を利用し,林床に食物のない壮齢林は利用しなかった。しかし秋には,落葉を食うために低木林と壮齢林を利用した。利用の対象とならなかった崩壊地以外のハビタットについては,食物存在量に対応するかたちで利用されていた。食物条件以外にハビタット利用に関わる要因として,時間と密度とグループサイズがあった。朝と夕には主として開放地を,昼間には主として閉鎖したハビタットを利用した。また,密度が上昇すると食物の少ないハビタットも高率に利用されるようになった。 この調査域は食物条件が好適であるため,ホームレンジはきわめて小さく,11.2〜20.2haであった。ホームレンジの広さは食物量,密度によって変化することが明らかになった。 グループサイズはシカ密度.グループ構成,季節,時間などによって変化した。 性比は,どの時期もオスよりもメスにかたよっていた。 丹沢山地の主として低標高域で行われた既往の研究結果に,高標高域で行われた今回の研究結果を併せ,丹沢山地におけるシカの個体群管理のありかたを考察すれば以下のようなものとなろう。まず,過度の摂食圧に由来する植生の貧困化を防止し,また山地の崩壊を少なくするためにシカの密度を低下させ,性比のバランスを回復させることが必要である。同時に,フェンスの設置と樹木個体の保護策を講じることによって森林の更新をすすめ,食物条件を長期的に安定化させることがなくてはならない。とくに低標高地域では草本類の回復をはかり,初冬にもシカがそこで生活できるようにすることが必要である。 本研究はこれまでほとんど手がつけられてこなかった高標高域のニホンジカの個体数の季節的変化,ハビタット構造と利用,ホームレンジの広さ,グループサイズとハビタットとの関係など,社会生態学的解析を行ったものである。このことにより,シカの個体群管理のありかたを考えるうえでも不可欠な高標高域での個体数の季節的変化,冬期の採食の実態などが,初めて明らかにされた。学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は,申請者に対し博士(農学)の学位を授与してしかるべきものと判断した。 |