学位論文要旨



No 112238
著者(漢字) 朱,敦尧
著者(英字)
著者(カナ) ズウ,ドンヤオ
標題(和) 斜面における土壌水分移動と地表流出の発生に関する研究
標題(洋) Studies on Soil Water Flow and Runoff Genesis in Slope Under Rainfall
報告番号 112238
報告番号 甲12238
学位授与日 1996.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1723号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物・環境工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中野,政詩
 東京大学 教授 中村,良太
 東京大学 教授 佐藤,洋平
 東京大学 助教授 宮崎,毅
 東京大学 助教授 山路,永司
内容要旨

 降雨による土壌侵食は、世界的な問題であり、持続的農業に対する大きな脅威となっている。

 現代の土壌侵食モデルでは、降雨、浸潤、流出の過程は、湛水開始前の浸潤段階と、湛水開始後の地表流出段階に二分され、降雨フラックスは前者に影響を与え、土壌断面は前者と後者の両方に影響を与える。したがって、湛水開始時間tpを予測することは、土壌侵食の予測と防止にとって極めて重要である。

 本論文は、(1)湛水開始時間を予測する既往のモデルを数値解と比較し、最適な解法を決定する。降雨強度Rが土の飽和透水係数Ksよりも大きい場合の降雨による浸潤を、一次元鉛直浸透として解析する。(2)水分移動の屈折現象、地表流出の発生、及び土の浸潤能の、斜面の形態による違いを、数値的解法によって、詳細に考察する。(3)数値シミュレーションの結果を、Hele-Shawモデルを用いた室内実験によって検証する。

 (1)まず既往の湛水開始時間の解法を比較した。比較を行った理論は、Mein&Larson(M&L)の経験式、Kutilekの準解析解、Parlange&Smith(P&S)の近似的解析解、Broadbridge&White(B&W)の正確な解析解、そして数値解である。数値的解決には、一次元及び二次元Richards方程式の、マトリックポテンシャル表示を使用した。与えられた降雨量のもとで、初期条件を仮定して計算を行い、土壌表面におけるマトリックポテンシャルがゼロになるか、水浸入圧wよりも大きくなるまでに要する時間を、平地では湛水開始時間、斜面では地表流出発生時間とした。

 その結果、以下のことが明らかになった。

 1)数値解は、準解析解と極めて良好に一致した。準解析解は、土の物理的性質に依存しないために、最も信頼できる解である。したがって、数値シミュレーションは、tpを良好に予測出来ることが分かった。

 2)P&SとB&Wモデルは、降雨強度が飽和透水係数よりも極めて大きいときには、良好な予測結果が得られたが、前者が後者よりもわずかしか大きくないときには、予測結果と準解析解の間に、大きな差が生じる。このことは、水分特性曲線の体積含水率依存性の大きい土においては、P&SとB&Wモデルの両方が正確な解を与えるというB&Wの結論を否定するものである。P&Sモデルの、水分特性曲線の体積含水率依存性の大きい土と小さい土の2つの方程式は、降雨強度が非常に大きいときには等価である。

 3)M&Lモデルは、砂において最も悪いtpの予測結果が得られる。その原因は、モデルの浸潤前線中のサクションを定義することが困難なためである。数値解と準解析解以外のモデルは、土の性質に影響される。すなわち、水分特性曲線の体積含水率依存性の小さいYolo粘土において、体積含水率依存性の大きい砂よりも、良好な予測結果が得られる。

 湛水開始時間及び地表面流出開始時間に最も重要な影響を与える要因は、降雨強度である。平地においても斜面においても、湛水開始時間は、降雨強度の増加とともに指数関数的に減少する。その指数関数のべきの項は、土の性質に依存する。本研究の試料においては、べきの項は砂においては3、粘土においては2であった。この結果は、べきの項が2に非常に近い値となるというSmithの結論とは一致しない。

 土の初期体積含水率nと湛水開始時間との関係は、平地と斜面の両方において、直線関係が得られた。直線の傾きは、降雨強度が小さいほど大きくなった。

 土の初期体積含水率nが不均一の場合と、異なった種類の土が層状に重なる場合に、湛水開始時間がどのように影響されるかを調べた。その結果、初期条件としてnを地表から下向きに直線的に増加させて計算しても、湛水開始時間にはごくわずかにしか影響を与えないが、土が層状に重なった場合には、降雨強度と上層の土の厚さの両方が、tpと水分分布に影響を与える。斜面の土においては、降雨強度が小さい場合には、地表面流出開始時間は、傾斜角に大きく依存し、特に傾斜角30°から傾斜角増加と共にtpは急激に増加した。このことは、傾斜角30°が重要な基準となる角度であり、それよりも傾斜角が大きいときには、土の性質に関わらず傾斜角の影響を考慮に入れなければならないというPhillipの理論と一致する。傾斜角が30°以下で降雨強度が小さいときは、砂の地表流出発生時間は、傾斜角の増加とともに、はじめは減少するが、傾斜角20°から30°まではほとんど変化しない。この砂の特徴は、フラックスの変化と関係がある。

 (2)次に、土中水分フラックスを詳細に議論した。平地と斜面の両方で、砂のフラックスは浸潤前線で最大になる。この最大フラックスVmaxは、降雨進入強度よりも大きくなる。それは、浸潤前線においては、重力による圧力勾配よりもマトリックポテンシャルによる圧力勾配が支配的になるためである。時間とともに、浸潤前線におけるフラックスは大きくなる。粘土も砂とほとんど同じ性質を示すが、唯一異なる点は、粘土の透水係数が小さいために、降雨侵入フラックスよりも、最大フラックスが小さくなるという点である。

 地表では、フラックスの斜面と平行成分が最大となるために、水移動フラックスの屈折が最大になる。屈折の程度は次第に小さくなり、浸潤前線においては、フラックスは地表面と平行になる。フラックスの斜面と平行成分は、透水係数とsinに比例する。しかし、最もフラックスの屈折に大きな影響を与える要素は、降雨強度である。降雨強度が大きいと、地表における最大屈折角maxは小さくなる。

 そしてさらに、Vmax(粘土においては、浸潤前線におけるフラックスに比例する)とmaxの2つのパラメータが傾斜角によってどのように変わるかを評価した。Vmaxは、砂については大きな降雨強度の場合に、粘土については大小両方の降雨強度の場合に、傾斜が急になるとともに、小さくなった。このことから、雨が土に吸着すればするほど、湛水開始時間が遅れると考えることが出来る。なぜならば、そのように考えることは、傾斜が急になるとともに、湛水開始時間が大きくなると考えることと同じことであるからである。最も興味深いのは、砂においてはRがKsよりも少し大きいとき、Vmaxは傾斜角0°から20°までの間は増加し、その後20°から30°まで減少し、再び30°以降は増加することである。同じ条件下において、傾斜角に対する湛水開始時間をグラフにすると、全く同じ傾向の曲線が得られる。以上で、土の性質と地表の傾斜角が土壌水分移動に与える影響について明確な説明をすることが出来た。初期水分量は、Vmaxにはほとんど影響を与えず、maxには全く影響を与えない。

 (3)複雑な斜面における土壌水分移動のシミュレーションを行った。4通りの基本的な斜面形態、すなわち、平らな斜面、凹面、凸面、そしてサインカーブによってあらわされる凹凸面を使って、降雨浸透中の水文的過程をシミュレートし、浸潤能の違いを調べた。ここで、浸潤能の違いは、斜面の各点に雨水が衝突する際の接触角の変化によって引き起こされる。そのために、不規則なフラックスの境界条件を扱う有限要素法のプログラムを開発した。

 傾斜地における水分移動のためのRichards方程式を、全く仮定をもうけずに数値的に解いた結果は、実験事実によく適合し、砂と粘土の両方において、平坦な斜面上ではR>Ksの下で、等水圧線は地表面と平行になったが、ほかの複雑な斜面では、浸潤前線の後方の飽和に近い部分と遷移する部分において、等水圧線は地表面と厳密には平行にならない。浸潤前線は、下方へ平行移動する。湛水開始時間における浸潤前線の位置は、浸潤前線の前方における急激なサクション変化によって引き起こされる等圧線が密集している場所である。

 異なる傾斜角の湛水開始時間における水分分布は、浸潤前線の手前の飽和に近い場所で、明確な深さによる変化が見られる。この飽和に近い場所の深さはRと傾斜角、土の性質に影響される。湛水開始時間における浸潤前線の位置を示している。緩やかな傾斜では、凹凸面の斜面は凸面の傾斜のような挙動を示す。つまり、繊維層の深さと、上部の平坦部分の等水圧線が一致する。一方、傾斜が急なときには、凹凸面の斜面は凹面の傾斜に近い。浸潤前線の水圧分布は、それだけではなく、水分移動を示している。浸潤前線の手前では、水は等水圧線とほぼ垂直方向に流れ、流れの斜面水平方向成分のために、等水圧線は明らかに斜面の下方に向かっている。浸潤前線では、水分移動は遷移層と垂直方向である。

 複雑な斜面では、浸潤能は地表流出の発生と関係がある。湛水開始時間が大きな値を示すことは、地表流出の発生が遅れることを意味しており、したがって雨水が土壌により多く侵入する。他の条件が同じならば、浸潤能は、大きい方から順番に、凸面、凹凸面、凹面、平らな斜面、平面となる。

 (4)最後に実験を行い、シミュレーション結果と比較した。豊浦標準砂を用いて、平らな斜面と平面を4回ずつと、凹面と凸面を2回ずつの、合計12回の降雨実験を行った。湛水開始時間の測定結果とシミュレーション結果は良く一致した。平面においても、平らな斜面においても、シミュレーション、実験ともに、浸潤前線は砂の表面と平行に下方へ移動した。降雨開始2分後と、湛水開始時間において、浸潤前線の深さを測ったところ、いずれの実験においても、シミュレーション結果と極めてよく一致した。したがって、本研究の数値モデル、理論解析、そしてモデルから導き出された結論は信頼出来るものである。

審査要旨

 傾斜地では、降雨中に雨水の土中への浸透と地表を流れる地表流出とが発生する。両者の大小関係は土壌中の有効水分の回復、土壌侵食の発生、肥料の効率、下流水域の水質劣化などを左右し、作物生産と環境保全の向上に大きな影響を与えている。そのため、傾斜地の浸透と地表流出との相対関係を予測することが必要とされている。本論文は、土壌物理学の浸透論を適用して地表湛水発生時間を解析することで地表流出をとらえ、土壌の性質と傾斜角、地表の形状および降雨強度によるその差異を解明し、傾斜地の浸透と地表流出の特徴を明らかにしようとしたものである。

 論文は、8章から構成され、第1章は研究の背景、意義、目的を述べた総論である。

 第2章は、降雨中の地表湛水発生時間、傾斜地の土中水移動と地表流出の発生、そして地形によるそれらの差異について過去の研究を評価し、問題の所在を明らかにしている。

 第3章は、土中水移動基礎方程式の1次元解析および地表が傾斜している場合の2次元解析の際に適用する有限差分法ならびに有限要素法について述べている。

 第4章は、まず平坦地における浸透と地表湛水発生時間の予測法について解析し、1次元浸透論に基づく数値解と経験式および近似解、疑似解析解との優劣を砂と粘性土について比較している。その結果、地表湛水発生時間は降雨強度の増大につれて指数関数的に短くなる。また土壌の初期水分が大きくなるにつれて短くなる。数値解と比較しては、砂の場合、経験式は過大評価を与え、近似解はその示す範囲は適正であり、疑似解析解は最も適正な結果を与える。粘性土の場合では、経験式が適正な結果を与え、近似解、疑似解析解はともに過小評価を与えるが、その差は許容し得るものであることを明らかにした。

 第5章は、平面傾斜地の場合について、まず疑似解析解の傾斜地への適用のための改良をはかり、降雨強度が大きい場合に適正な結果を与えるものを導いた。しかし砂では傾斜角が大きい場合には適用性が弱く、粘性土では傾斜角にかかわらず適用可能であると述べている。次いで、2次元浸透論を適用した数値解の解析から地表湛水発生時間に及ぼす傾斜角の影響を調べている。その結果、地表湛水発生時間は、砂では降雨強度が小さいときは傾斜角が約25度の所で極小となり、傾斜角がそれより大きくても小さくても大きくなる。しかし、降雨強度が大きいときは傾斜角が小さいほど短く、大きくなるにつれて長くなる。粘性度の場合は、降雨強度にかかわりなく傾斜角が大きくなるにつれて地表湛水発生時間が大きくなる。また、水の浸透は、地表に平行に浸潤前線が進行していくが、浸透部のフラックスは砂ではほぼ鉛直方向に発生し、粘性土では地表に直交する方向に近い方向を取っている。最大フラックスの大きさは、傾斜角が大きくなると徐々に減少することなどを明らかにした。

 第6章は、傾斜地の斜面が凹地形、凸地形および両者の複合した地形について第5章と同様の解析をし、相互の特徴の比較をしている。その結果、地表湛水発生時間は、砂の場合、傾斜地の傾斜角が小さいときは平面傾斜地で最も短く、凹地形、複合地形、凸地形そして平坦地の順に長くなる。傾斜角が大きいと平坦地が2番目に短くなり、あとは同様の順に並んで大きくなる。粘性度の場合では、傾斜角に関係せずに平坦地が最も短く、ついで平面傾斜地、凹地形、複合地形、凸地形の順に長くなる。また浸潤前線はほぼ地表に平行となることも明らかにした。そしてこの理由は、土壌の浸透性の大小と水フラックスの2次元挙動の強弱性によるものであると結論づけた。

 第7章は、標準砂を試料として使い、土中圧力測定装置を備えた長さ198cm、高さ99cm、奥行き3cmのヘルショウ型土壌槽を用い、飽和透水係数の約2倍の2.5×10-2cm/sに相当する降雨強度の人工降雨を与えたときの各地表形状における水の土中への浸潤と地表湛水発生時間を繰り返し測定し、上記の諸結論を実験的に確認し、2次元浸透論の数値解析に基づく傾斜地における水の浸透と地表流出の予測は適切であると結論づけている。

 第8章は、以上を取りまとめた結論である。

 以上要するに、本論文は、傾斜地における2次元浸透現象について土壌物理学的な手法による数値解析とヘルショウモデル実験をおこない、地表流出発生に関する予測方法を明らかにするとともに、複雑な自然地形形状における地表流出発生の特徴と水の浸透形態を明らかにし、傾斜地の雨水有効利用、土壌侵食防止、自然環境保全対策などの学術に有用な知見を与えたものであり、環境地水学、農地環境工学、水利環境工学の学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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