学位論文要旨



No 112241
著者(漢字) 任,東淳
著者(英字)
著者(カナ) イム,トンスン
標題(和) ラット肝実質細胞におけるスフィンゴシン1-リン酸の作用とそのシグナル伝達機構
標題(洋) Action and Signal Transduction of Sphingosine 1-phosphate in Rat Hepatocytes
報告番号 112241
報告番号 甲12241
学位授与日 1996.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第771号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 杉山,雄一
 東京大学 教授 井上,圭三
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
 東京大学 助教授 櫨木,修
内容要旨 <序論>

 スフィンゴ脂質の代謝産物の一つであるスフィンゴシン1-リン酸(S1P)は細胞増殖や細胞運動の活性を制御する事が知られている。Swiss3T3線維芽細胞においてS1PはIns1,4,5-P3と同様に細胞内Ca2+プール(おそらく新規Ca2+チャンネル)に直接作用しCa2+を動員すること、また、PDGFによって細胞内濃度が増加することから、S1PはPDGFの細胞内セカンドメッセンジャーとして機能している可能性が示唆されている。一方、S1Pは各種の細胞で百日咳毒素(PTX)感受性G蛋白質を介してホスホリパーゼC(PLC)活性化-Ca2+動員、K+チャンネルの活性化、アデニル酸シクラーゼの抑制などを引き起こすことも報告されている。直接的な証拠はないものの、これらのS1P作用は細胞膜受容体を介していることが示唆されている。このようにS1Pはファーストメッセンジャー、セカンドメッセンジャー両機能を有する極めてユニークな脂質性の生理活性物質である。しかし、その生理作用に関しては細胞増殖や細胞運動以外にはあまり検討されていない。そこで、私はラット肝実質細胞を用い、この細胞の主要な機能の1つであるグリコゲン代謝に対するS1Pの作用さらにそのシグナル伝達機構に関して検討した。

 また、ある種の細胞ではS1Pの作用が、S1Pと類似構造を持つリゾホスファチジン酸(LPA)の受容体を介しておこる可能性も指摘されており、LPAの作用も比較検討した。

<結果>(1)細胞内Ca2+濃度変化

 コラゲナーゼ潅流法により調製した分離直後のラット肝実質細胞におけるS1Pの細胞内Ca2+濃度に対する効果を調べた。S1Pによって細胞内Ca2+濃度は徐々に上昇し、約1分後にピークに達した。その後も上昇したCa2+濃度は少なくとも5分間は維持していた。一方、LPA投与下では細胞内Ca2+濃度は急速に上昇後、下降し、その後はピーク値の約50%値を維持するパターンを示した(図1a)。

図1 S1PおよびLPAによる細胞内カルシウム濃度上昇作用と初代培養の効果図2 S1Pによるホスホリラーゼ活性化、PLC活性化およびcAMP産生の培養による効果(○;分離直後、●;培養後、■;培養後PTX処理)

 ラット肝実質細胞を初代培養するとアドレナリン受容体アゴニスト、バソプレッシンなどのCa2+動員アゴニストによる細胞応答が減弱することが知られている。そこで24時間初代培養後の肝細胞におけるS1P、LPA応答を調べた。予想どおりLPAによるCa2+応答は減弱していたが、意外にも、S1Pによる応答は初代培養の前に比べてむしろ大きくなった(図1b)。ピーク値を比べてみると、LPAのCa2+応答が約半分くらい減少したのに対してS1PのCa2+応答は初代培養後約3倍にも増加していた(図1c)。

(2)ホスホリラーゼおよびPLCの活性変化

 肝細胞において細胞内Ca2+はホスホリラーゼ(グリコーゲン分解の律速酵素)活性の重要な制御因子の1つである。分離直後の肝細胞でホスホリラーゼ活性を測定したところS1PとLPAは濃度依存的に酵素を活性化した(図2のaとb、白丸)。S1PとLPAによるホスホリラーゼ活性化の時間経過はCa2+応答のパターンに類似していた。すなわち、LPAの一過性の上昇パターンに対し、S1Pによって酵素活性は比較的ゆっくりと上昇し、その値は持続的であった。24時間初代培養後の肝細胞ではCa2+応答と同様にS1Pによるホスホリラーゼ活性化は増強し、LPAによる酵素の活性化はやや減弱していた。

 Ca2+動員アゴニストが細胞内でCa2+を動員する際には、多くの場合、PLC-イノシトールリン酸(なかでもIns1,4,5-P3)産生系が活性化されている。そこで、3H-イノシトールで標識した細胞からの3H-イノシトールリン酸の産生を指標として、PLC活性を測定した。分離直後の肝細胞でS1PとLPAは有意にイノシトールリン酸産生を促した(図2のcとd)。またCa2+応答と同様に、S1Pによるイノシトールリン酸産生は初代培養することによって大幅に増加した。しかし、LPAによるイノシトールリン酸産生は初代培養前後においてほとんど変化しなかった。この結果はS1PとLPAは類似のシグナル伝達系を共有しているものの、その初期過程(おそらく受容体が)異なることを示唆している。また、G蛋白質の非選択的活性剤であるNaF応答も培養前後においてほとんど変化しなかった。これらS1P、LPA、NaFによるPLC活性化作用はPTXで細胞を処理してもほとんど影響をうけなかった。

(3)Ca2+動員におけるPLCの役割

 上述したように、細胞外に投与したS1PのCa2+動員に関しては2つの機構が提唱されている。すなわち、細胞内に入り、Ca2+プールに直接作用する場合とPLC活性化、IP3産生を介する場合である。初代培養によってS1PによるPLC活性化、Ca2+動員、ホスホリラーゼ活性化がいずれも増強されることから、肝細胞においては後者の機構(PLC活性化経路)が重要と考えられる。この点に関し、さらに検討を加えた。プロテインキナーゼC(PKC)の活性化剤であるPMAによってPLC活性(イノシトールリン酸産生)が阻害されるとCa2+応答も阻害された。また、イオノマイシンで細胞内Ca2+濃度を上昇させた時、PLCの活性化は起こらなかった。この結果はPLCが細胞内Ca2+濃度上昇に基づいて2次的に活性化されたためではないことを意味している。さらに、透過性肝細胞においてMn2+クエンチング法によりCa2+動員を間接的に評価したところS1PによってCa2+動員は観察されなかった。これらの結果はS1PによるCa2+動員がCa2+プールに対する直接作用というよりはPLC-イノシトールリン酸産生を介したものであることを支持している。

(4)cAMP産生阻害作用とPTX感受性G蛋白質の関与

 肝細胞ではcAMPによるホスホリラーゼの活性化経路も存在するが、S1PはcAMP産生に対しては抑制的であった。そこでS1Pのアデニル酸シクラーゼ活性に対する効果を評価するため、フォルスコリンおよびcAMP分解酵素(ホスホジエステラーゼ)阻害剤存在下でのcAMP産生を測定したところ、S1Pは分離直後および24時間初代培養後のいずれの肝細胞においても濃度依存的にその産生を阻害した(図2e)。この場合、PLC系とは異なり、S1Pのアデニル酸シクラーゼ抑制作用は初代培養によって影響をうけず、また百日咳毒素(PTX)処理により解除された。一方、LPAではアデニル酸シクラーゼ抑制作用は観察されなかった(図2f)。

(5)細胞密度の効果と再生肝でのS1P応答

 初代培養時におけるS1PのPLC-Ca2+応答の増強は肝細胞が増殖期に入るような低細胞密度で培養した時に観察された。細胞密度を高細胞密度に変えることで肝細胞は培養時にもかかわらず増殖期への移行が抑えられるが、この時、S1PのPLC-Ca2+応答の増強も抑えられた(図3)。このように、S1PのPLC-Ca2+応答の増強は肝細胞の細胞周期と協調していることが示唆された。そこで、この点をさらに確認するため、2/3部分肝切除により作った再生状態の肝臓から分離した細胞でのS1P応答を検討したところ、S1PのCa2+応答が正常肝細胞の応答より約2倍くらい増強していることが確認された。

図3 初代培養時における細胞密度のS1P応答に対する効果
<結論および考察>

 1)ラット肝細胞においてS1PはLPA受容体非依存的に二種の情報伝達経路すなわちPLC活性化-Ca2+動員-グリコゲンホスホリラーゼ活性化経路とアデニル酸シクラーゼ阻害経路を刺激することが明らかにされた。

 2)S1PによるPLC-Ca2+動員系は初代培養によって増強されるが、LPA、NaFに対する応答は減弱するかほとんど影響を受けないことから、初代培養時にはS1Pのシグナル伝達系の中でG蛋白質より上流の部分、おそらく受容体の機能変化(その数の増加または親和性の上昇)が供なっていると推定される。

 3)このようにPLC系は初代培養によって増強され、かつPTX非感受性であるのに対し、アデニル酸シクラーゼ系は初代培養によって影響を受けず、PTX感受性であることから、PLC系およびアデニル酸シクラーゼ系は異なった受容体-トランスジューサー系を介していると推定される。

 4)初代培養時におけるS1PのPLC-Ca2+系応答の増強は細胞周期と連動している、すなわち、静止期では弱く、一方、増殖期では強いことが示された。S1Pによるグリコゲン分解系は細胞増殖におけるエネルギー供給経路としての意義を有しているかもしれない。また、Swiss3T3線維芽細胞においてS1Pは細胞増殖促進活性を発揮するが、肝細胞の増殖期においてもS1PのPLC-Ca2+系がこの細胞増殖に関与していることが予想される。

審査要旨

 スフィンゴ脂質の代謝産物の一つであるスフィンゴシン1-リン酸(S1P)は、細胞の増殖や運動を調節することが知られているが、このS1Pは細胞内のCa2+貯蔵部位に直接作用してCa2+を放出させることから、細胞内シグナル分子として機能するものと考えられてきた。しかし最近になって、S1Pを細胞の外から加えても、細胞膜の受容体刺激を介するような細胞内初期応答、すなわち、百日咳毒素感受性のG蛋白質を介するホスホリパーゼC(PLC)の活性化、Ca2+動員、K+チャンネルの活性化、アデニル酸シクラーゼの抑制による細胞内cAMP生成の減少などが引き起こされるという知見が、種々の細胞において報告されている。これらの知見は、S1Pが細胞外及び細胞内の両方で機能する、極めてユニークな脂質性のシグナル分子である可能性を示唆している。

 「ラット肝実質細胞におけるスフィンゴシン1-リン酸の作用とそのシグナル伝達機構」と題する本論文では、ラットの肝細胞を用いて、S1Pが肝細胞の重要な機能の1つであるグリコーゲン分解の律速酵素、グリコーゲンホスホリラーゼを活性化することを見い出し、そのシグナル伝達経路を解析している。また、その伝達経路が細胞周期に依存して変動することを、初代培養や再生肝などのモデル系で検討している。

 スフィンゴシン1-リン酸(S1P)によるグリコーゲンホスホリラーゼの活性化とそのシグナル伝達経路の解析

 コラゲナーゼ潅流法により調製したラット肝実質細胞をS1Pで刺激すると、PLCの活性化、イノシトール1,4,5-三リン酸(IP3)の産生、細胞内Ca2+濃度の上昇を経て、グリコーゲンホスホリラーゼが活性化された。このS1Pの作用は、細胞を百日咳毒素によって処理しても阻害されず、細胞を低密度で初代培養すると増強された。S1Pと構造が類似し、G蛋白質関連型受容体を介してその情報を伝達すると考えられているリゾホスファチジン酸に対する応答、あるいは、G蛋白質を直接活性化するNaFに対する応答は、初代培養による影響を受けなかった。したがって、肝細胞の初代培養によるS1Pのシグナル伝達の増強は、G蛋白質より上流の経路、おそらくは受容体の機能変化(S1P受容体数の増加または親和性の上昇)を介するもの推定された。

 S1Pは一方でアデニル酸シクラーゼを抑制し、細胞内cAMP濃度を減少させたが、この作用は上記のPLC-Ca2+系の応答とは異なり、初代培養によっては影響を受けず、百日咳毒素処理によって完全に消失した。すなわち、S1Pがアデニル酸シクラーゼを阻害するシグナル伝達経路には、百日咳毒素に感受性のG蛋白質の介在が示唆された。また、初代培養による影響や百日咳毒素に対する感受性の差異から、S1PによるPLC-Ca2+応答系とアデニル酸シクラーゼ抑制系とは、異なった受容体-シグナル伝達系を介するものと推定された。

 細胞外に添加したS1PのCa2+動員に関しては、2つの機構が提唱されている。すなわち、細胞内に入ってCa2+プールに直接作用する経路とPLCの活性化によるIP3産生を介する経路である。初代培養によってS1PによるPLC活性化、Ca2+動員、ホスホリラーゼ活性化のいずれもが増強されたことは、肝細胞においてはPLC-Ca2+応答系が重要であることを示唆している。

 細胞周期に依存したS1PによるPLC-Ca2+応答系の増強

 初代培養時におけるS1PのPLC-Ca2+応答系の増強は、肝細胞が増殖期に入るような低細胞密度培養下で顕著に観察された。肝細胞は細胞密度を高い状態に変えることによって、培養状態にもかかわらず増殖期への移行が抑えられるが、この時、S1PのPLC-Ca2+応答系の増強も抑えられた。さらに、肝臓の部分(約2/3を)切除により作成した肝再生状態のラット個体から分離された細胞では、S1Pに対するPLC-Ca2+応答性が正常肝細胞に比べて約2倍に増強することが確認された。すなわち、S1PによるPLC-Ca2+応答系の増強は肝細胞の細胞周期に依存し、その増殖期で顕著に認められた。

 以上を要するに、本論文はラットの正常肝細胞において、その生理作用や作用機構が不明であったS1Pの作用を検討し、糖代謝への作用とそのシグナル伝達経路を明らかにし、脂質性の生理活性物質としてのS1Pの新たな生理的役割を見い出した。S1Pが2つの異なる受容体-シグナル伝達系を介して生理応答を惹起するという可能性の提示は、S1Pによる細胞応答の多様性を説明し、今後のS1Pシグナル伝達系研究の手がかりを提供している。また、細胞周期との関連性の検討は肝細胞にとどまらず、S1P-受容応答系(PLC-Ca2+系)の細胞生理学における役割の解明に大きな手がかりを提供しており、博士(薬学)の学位論文として十分な価値があるものと認められる。

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