小論では、まず序論において、従来、ともすれば清代初期から中葉を中心とする清代思想史研究が、立ち遅れてきた原因として、主に戦後の日本における中国近世思想史に関する先行研究を検証しつつ、それらが相似た研究上の視角を暗黙裡の前提として共有していることを示唆した。すなわち、「個人」の析出や「自由」「欲望」の拡充などを評価基準としてきた従来の傾向は、それなりの歴史的な意義を有するものの、同時に不可避的に一定の先入見や偏向を結果してきたことを批判的に論及した。続いて、特に明代中葉以降の社会的な流動化現象に対応して、新たな政治的・イデオロギー的な「秩序」化が模索されたことを若干の思想史的な見通しとして示した。 小論は、ほぼ以上のような問題意識と前時代までの見通しの上に立ち、具体的には、清代初期の朱子学者・呂留良の思想を検討の対象とする。 さて、清初の朱子学者・呂留良(号は晩村、また晩邨;浙江省崇徳県人;1629〔明・崇禎2〕〜1683〔清・康煕22〕)は、その没後、四十五年たった雍正6〔1728〕年、湖南の人・曾靜(1679〜1736)が起こした大逆事件がもとで、死屍を暴かれ、一族にも累が及んだことでよく知られている。序論では更に、思想史上、彼を検討する際の視角を整理し、そのいくつか仮説的に提示した。私見では、清朝の思想統制、いわゆる「文字の獄」に対する一面的な見方や、曾靜事件を通じて生じた後世の先入見が、彼の思想の全体像を過不足なく把握することを阻んできたことは否めないように思われる。従って、まず第一点として、雍正期を中心とする清朝政権の政治過程やその思想統制の具体的経緯を再検証し、旧説に一定の再考と修正を加える必要に注意を喚起した。第二に、呂留良の思想は、これまでとかく等閑視しされがちであったその朱子学者としての側面を中心に再評価されるべきであり、同時にそれは、清初の朱子学の復興や黄宗義、顧炎武、王夫之らをも含む当時の士人たちの新たな「秩序」化の志向の一環として捉えられるべきことを提起した。その他、君臣関係論や封建・郡県論などの具体的政治論に即して、同時代的な位相のなかに位置づけられるべきことを提言した。 第一章では、これを受けて、呂留良の生平と曾靜事件を軸とした康煕・雍正朝の思想統制策を概述した。従来、雍正朝最大の疑獄事件とされる同事件のイデオロギー的論点は、呂留良の中華主義(華夷思想)にあったとされてきたが、小論では、「礼」を基調とする彼の中華主義は、むしろ文化主義的な色彩の強いものであったこと、その処断に当たっては、当時の政治過程におけるさまざまな偶発的要因にも左右されたことを論証した。 第二章では、彼の朱子学の有した意義に焦点を当てて論述した。彼の朱子学全体を貫く根本的な動機として、何よりも客観的な「理」の「定在」性の復が目指されていたことを指摘し、更に「礼」の遵守などを通じて「天」にもとづく(「本天」)ことの重要性が繰り返し説かれていたことの意味をその「秩序」志向と関連づけて考察した。 第三章では、呂留良の政治・社会構想を概観し、その君臣論、封建論、農本主義を中心とする具体的な所論を、黄宗義、顧炎武、王夫之、顔元ら同時代の他の思想家の議論と比較・対象しつつ位置づけることを試みた。 総じて、呂留良の思想は、客観的な「定理」の超越的規範性によってこそ、現実への先鋭な批判力を保持したが、同時に現実の「勢」に根ざした具体的な変革への展望を欠くきらいがあったとも総括出来よう。結論では、更に清代中葉への若干の思想史的な見通しを示唆した。すなわち、一方で戴震らのように「理」が次第に平板化・水平化されていく趨勢を概述し、他方、そうした不定型さを補うものとして、「礼教」による規制が着目され出したことにも注目して、そうしたやや長い視座での思想史の流れにおいても、呂留良の思想が過渡期としての特異な位置を占め得るものとの見通しを示した。 |