学位論文要旨



No 112258
著者(漢字) 曽根,雅紀
著者(英字)
著者(カナ) ソネ,マサキ
標題(和) 活動性が低下する変異によって同定されたショウジョウバエのhikaru colorin遺伝子の解析
標題(洋)
報告番号 112258
報告番号 甲12258
学位授与日 1996.10.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3124号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西郷,薫
 東京大学 教授 堀田,凱樹
 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 教授 榊,佳之
 国立精神神経センター 部長 鍋島,陽一
内容要旨

 脳・神経系の中でも、神経細胞と神経細胞、或いは神経細胞と筋肉との結合部であるシナプスは、極めて重要な構成要素であることがよく知られている。シナプスは、脳における情報処理の最も基本的な構成要素であるが、その特徴として、可塑性に富み、発生過程において、また成熟した脳・神経系においても、神経細胞の活動性或いは細胞間の情報伝達によって精密な調節を受け、その構造及び性質を大胆に変化させることが知られている。このシナプス可塑性は、例えば行動や学習・記憶といった高次の脳機能を担う基礎的なメカニズムであると思われる。従って、シナプスが受ける調節作用の分子メカニズムを明らかにすることは、高次の脳機能の基本原理を解明する上で非常に重要である。この論文では、シナプスに特異的に局在して、シナプスにおけるシグナル伝達系の構成要素として、シナプスが受ける調節作用において重要な機能を担っているであろうと思われる新たな分子、Hikaru colorin(HICL)の同定及び機能解析について報告する。

 脳・神経系がいかにして形成され、機能するのかを分子レベルで解明するための一つのアプローチとして、キイロショウジョウバエをモデル生物として用いて、成虫の行動に異常を示す変異を同定し、その原因遺伝子を単離して解析することを試みた。トランスポゾンP因子の挿入による885系統の変異体ライブラリの中から、成虫において活動性が著しく低下する変異体を同定し、更にこの変異体が強い光を当てると麻痺して痙攣したような症状を示すことから、この変異をhikaru colorin(略称はhicl)と名付けた。P因子の挿入によるアリルをhicl98-1と名付けた。hicl変異体は、雄が不稔であった。P因子を切除することによってhicl98-1の表現型が回復したので、P因子の挿入がhicl98-1における変異の原因であることがわかった。サザン解析と唾腺染色体に対するin situハイブリダイゼーション法とによって、hicl98-1においては1コピーのP因子が第三染色体左腕の64Eに挿入していることがわかった。

 P因子挿入部位付近のゲノムDNAをPCR法を応用して単離し、それを基に染色体歩行を行い、hicl遺伝子座の約70kbのゲノムDNAを単離した。成虫頭部のRNAに対するノーザン解析によって、P因子挿入部位の近傍に、10kb以上の長さの転写産物が存在することがわかった。この転写産物に相当するcDNAを成虫頭部のcDNAライブラリより単離したところ、得られたcDNAの解析から、異なった転写開始部位より始まり、3’末端側を共有する2種類の転写産物(タイプ1、2)が存在することがわかった。現在までに得られているcDNAの全長は、タイプ1が7.9kb、タイプ2が9.2kbである。P因子挿入部位は、タイプ1の転写産物の大きなイントロンの中にあり、タイプ2の転写産物の5’末端の44bp上流に位置していた。タイプ1のcDNAを神経細胞特異的なelavプロモーターの支配下において発現させた形質転換体においては、hicl変異体の活動性及び稔性の表現型に明らかな回復が見られた。このことから、同定された転写産物が確かにhicl変異の原因遺伝子であることが結論された。

 2種類のhicl遺伝子の共通部分をプローブとして用いたin situハイブリダイゼーションによって、hicl遺伝子は胚において中枢神経系特異的に発現していることがわかった。従って、hicl変異体における異常の原因は、中枢神経系にあることが示唆された。

 hicl遺伝子のcDNAの塩基配列を決定した結果、タイプ1、2のcDNAがそれぞれ2066、2046アミノ酸から成る蛋白質をコードしていることがわかった。タイプ2特異的な部分には、25アミノ酸を単位とする内部繰り返し構造と、システインが一定の間隔を置いて規則的に出てくる領域とがあった。更に、蛋白質データベースとのホモロジーサーチの結果、2種類のHICL蛋白質の共通部分と、Tlymphoma細胞に対して浸潤誘導活性を持つマウスのTiam-1蛋白質とが、部分的に高い相同性を持つことがわかった。HICLとTiam-1とは、2ヶ所の領域において高い相同性が見られた。第一の部分には、Pleckstrin Homology(PH)ドメインが含まれていた。第二の部分には、Dbl Homology(DH)ドメインと二つ目のPHドメインが含まれていた。DHドメインは、rho類似低分子量G蛋白質を不活性型のGDP結合型から活性型のGTP結台型に変換するグアニンヌクレオチド交換因子(GEF)の保存された触媒部位であることが知られている。実際に、Tiam-1の場合はrho類似蛋白質に対してGEF活性を持つことが生化学的に示されている。HICLとTiam-1とは、他にも、PEST配列の存在、PDZドメインの存在などの特徴を共有していた。

 予想される遺伝子産物のうちの一部を大腸菌で発現させ精製したものを抗原としてラットを免疫することによって、抗HICL抗体を作成した。2種類の独立な抗HICL抗体が得られた。このうちの一つ(AbI3)はタイプ2特異的な部分の一部を抗原として作成されたものであり、もう一つ(AbH3)は共通部分の一部から作成されたものである。AbI3を用いた染色の結果、後期胚の神経叢、幼虫の体壁筋の神経筋接合部、成虫脳の神経叢と、発生段階を通じてHICL蛋白質はシナプスに富む領域に特異的に局在することがわかった。少なくとも成虫脳の神経叢における局在は、AbH3でも同様に観察された。更に、成虫脳の視葉のlaminaと幼虫の神経筋接合部における免疫電顕によって、HICL蛋白質は、前シナプスの細胞質の細胞膜近傍の限定された領域に局在することがわかった。特に、HICL蛋白質の局在は、アクティブゾーンからやや離れた位置の、突起状の構造に多く見られた。このうち成虫脳における免疫電顕像は、AbH3でも同様に見られることが確認されている。

 次に、HICL蛋白質の機能ドメイン(PH、DHドメイン)を含む領域のみを神経細胞特異的に強制発現させる実験を行った。その結果、胚の運動ニューロンにおいて軸索の伸長の阻害を起こし致死になることが確認された。これは、ショウジョウバエの神経系においてrho類似蛋白質を構成的に活性化した系において観察されている現象と同様であり、HICL蛋白質がrho類似蛋白質の活性化因子であることを更に示唆するデータである。また、成虫まで生育する別の系統においては、幼虫の神経筋接合部において、シナプスの形態的な形成不全が観察された。従って、HICL蛋白質にはシナプスの形態を制御する活性があるものと思われる。

 以上のことから、HICL蛋白質はシナプスで特異的に機能するrho類似G蛋白質の活性化因子であることが強く示唆された。これは、rho類似蛋白質を介するシグナルカスケードがシナプスに存在することを示す、初めての結果である。rho類似蛋白質は、アクチン繊維の重合を調節することによって細胞の形態・運動性・接着活性などを制御することが知られている。細胞内の局在や強制発現実験の結果とも考え併せて、HICL蛋白質はシナプスの形態を調節する因子である可能性がある。また、PHドメインは蛋白質-蛋白質或いは蛋白質-脂質間の相互作用に関与し、PDZドメインは特殊化した細胞間結合部において蛋白質-蛋白質間の相互作用に関与していることが知られている。従ってHICL蛋白質は他の分子との相互作用によって調節を受けていることが示唆される。シナプスの形態は、周囲の環境からのシグナルや神経細胞の活動性に依存して変化することが知られている。また、rho類似蛋白質は細胞外からのシグナルによって活性化されることが知られている。従って、HICL蛋白質は、そのようなシグナルを下流のrho類以G蛋白質に伝えることによってシナプスの形態を調節している可能性がある。

審査要旨

 脳・神経系がいかにして形成され、機能するのかを解明するためのひとつのアプローチとして、脳・神経系で機能する遺伝子・分子を分子生物学的に同定し、その機能を調べる方法がある。本論文では、脳・神経系において重要な機能を担っているであろうと思われる新たな遺伝子hikaru colorin(hicl)の同定及びその遺伝子産物(HICL)の機能解析について詳細な検討を行った。

 hicl遺伝子は、ショウジョウバエにおいて、成虫の活動性が著しく低下するという表現型を示す変異を引き起こす原因遺伝子として単離された。この変異体は、トランスポゾンP因子の挿入による変異体ライブラリをスクリーニングすることによって得られた。P因子を切除することによって表現型の回復が見られたので、P因子の挿入が変異の原因であることが確認された。ゲノム上に1コピーのP因子が挿入していることを確認した上で、P因子挿入部位周辺のゲノムDNAを単離した。P因子挿入部位付近のノーザン解析によって、P因子挿入部位の近傍に長さ10kb以上の転写産物が存在することがわかった。cDNAライブラリをスクリーニングすることによって、この転写産物に相当するcDNAを単離したが、得られたcDNAの解析から、異なった転写開始部位より始まり、3’末端側を共有する2種類の転写産物(タイプ1、2)が存在することがわかった。P因子挿入部位はタイプ1の転写産物の大きなイントロンの中にあり、タイプ2の転写産物の5’末端の44bp上流に位置していた。タイプ1のcDNAを神経細胞特異的なelavプロモーターの支配下において発現させた形質転換体においては、hicl変異体の活動性及び稔性の表現型に明らかな回復が見られた。このことから、同定された転写産物が確かにhicl変異の原因遺伝子であることが結論された。

 in situハイブリダイゼーション法によって、hicl遺伝子は、胚において中枢神経系特異的に発現していることが示された。このことから、hicl変異体における行動異常の原因は、神経系にあることが示唆される。

 hicl遺伝子のcDNAの塩基配列を決定した結果、タイプ1、2のcDNAがそれぞれ2066、2046アミノ酸から成る蛋白質をコードしていることがわかった。タイプ2特異的な部分には、25アミノ酸を単位とする内部繰り返し構造と、システインが規則的に出てくる領域とがあった。更に、蛋白質データベースとのホモロジーサーチの結果、浸潤誘導活性を持つマウスのTiam-1蛋白質と、部分的に高い相同性を持つことがわかった。HICLとTiam-1とは、2ヶ所の領域において高い相同性がみられた。第一の部分には、Pleckstrin Homology(PH)ドメインが含まれていた。第二の部分には、Dbl Homology(DH)ドメインと二つ目のPHドメインが含まれていた。DHドメインは、rho類似低分子量G蛋白質に対するGDP-GTP交換因子の保存された触媒部位であることが知られている。HICLとTiam-1とは、他にも、PEST配列の存在、PDZドメインの存在などの特徴を共有していた。

 HICL蛋白質に対する抗体を用いた染色によって、HICL蛋白質は、胚の神経叢、幼虫の神経筋接合部、成虫脳の神経叢と、発生段階を通じてシナプスに富む領域に特異的に局在することがわかった。更に、成虫脳の視葉のlaminaと幼虫の神経筋接合部における免疫電顕によって、HICL蛋白質は、前シナプスの細胞質の細胞膜近傍の限定された領域に局在することがわかった。特に、HICL蛋白質の局在は、アクティブゾーンからやや離れた位置の、突起状の構造に多く見られた。少なくとも成虫脳における免疫電顕像は、2種類の独立な抗体で同様に見られることが確認されている。

 次に、HICL蛋白質の機能ドメイン(PH、DHドメイン)を含む領域のみを神経細胞特異的に強制的に過剰発現させる実験を行った。その結果、胚の運動ニーロンにおいて、軸索の伸長の阻害を起こし致死になることがわかった。これは、ショウジョウバエの神経系においてrho類似蛋白質を構成的に活性化した系において観察されている現象と類似しており、HICL蛋白質がrho類似蛋白質の活性化因子であることを更に支持するデータである。また、成虫まで生育する別の系統においては、幼虫の神経筋接合部において、シナプスの形態的な形成不全が観察された。

 以上のことから、HICL蛋白質はシナプスで特異的に機能するrho類似G蛋白質の活性化因子であることが強く示唆された。rho類似蛋白質は、アクチン繊維の重合を調節することによって細胞の形態・運動性・接着活性などを制御することが知られている。細胞内の局在や強制発現実験の結果とも考え併せて、HICL蛋白質はシナプスの形態を調節する因子である可能性がある。また、PHドメインは蛋白質-蛋白質或いは蛋白質-脂質間の相互作用に関与し、PDZドメインは特殊化した細胞間結合部において蛋白質-蛋白質間の相互作用に関与することが知られている。従って、HICL蛋白質はシナプスにおける細胞内のシグナル伝達系の構成要素であると思われる。シナプスの形態は、周囲の環境からのシグナルや、神経細胞の活動性に依存して変化することが知られているので、HICL蛋白質は、そのようなシグナルを下流のrho類似G蛋白質に伝えることによってシナプスの形態を調節している可能性がある。

 本論文で得られた結果は、rho類似G蛋白質のカスケードがシナプスに存在していることを示す初めての結果であり、シナプスが受ける調節作用の分子メカニズムを明らかにする上で、大きな寄与を与えるものである。

 尚、本論文は、星野幹雄、鈴木えみ子、中越英樹、西郷薫、鍋島陽一、浜千尋氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 以上の理由により、本論文提出者曽根雅紀は博士(理学)の学位を授与されるのに十分な資格があると認める。

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