脳・神経系がいかにして形成され、機能するのかを解明するためのひとつのアプローチとして、脳・神経系で機能する遺伝子・分子を分子生物学的に同定し、その機能を調べる方法がある。本論文では、脳・神経系において重要な機能を担っているであろうと思われる新たな遺伝子hikaru colorin(hicl)の同定及びその遺伝子産物(HICL)の機能解析について詳細な検討を行った。 hicl遺伝子は、ショウジョウバエにおいて、成虫の活動性が著しく低下するという表現型を示す変異を引き起こす原因遺伝子として単離された。この変異体は、トランスポゾンP因子の挿入による変異体ライブラリをスクリーニングすることによって得られた。P因子を切除することによって表現型の回復が見られたので、P因子の挿入が変異の原因であることが確認された。ゲノム上に1コピーのP因子が挿入していることを確認した上で、P因子挿入部位周辺のゲノムDNAを単離した。P因子挿入部位付近のノーザン解析によって、P因子挿入部位の近傍に長さ10kb以上の転写産物が存在することがわかった。cDNAライブラリをスクリーニングすることによって、この転写産物に相当するcDNAを単離したが、得られたcDNAの解析から、異なった転写開始部位より始まり、3’末端側を共有する2種類の転写産物(タイプ1、2)が存在することがわかった。P因子挿入部位はタイプ1の転写産物の大きなイントロンの中にあり、タイプ2の転写産物の5’末端の44bp上流に位置していた。タイプ1のcDNAを神経細胞特異的なelavプロモーターの支配下において発現させた形質転換体においては、hicl変異体の活動性及び稔性の表現型に明らかな回復が見られた。このことから、同定された転写産物が確かにhicl変異の原因遺伝子であることが結論された。 in situハイブリダイゼーション法によって、hicl遺伝子は、胚において中枢神経系特異的に発現していることが示された。このことから、hicl変異体における行動異常の原因は、神経系にあることが示唆される。 hicl遺伝子のcDNAの塩基配列を決定した結果、タイプ1、2のcDNAがそれぞれ2066、2046アミノ酸から成る蛋白質をコードしていることがわかった。タイプ2特異的な部分には、25アミノ酸を単位とする内部繰り返し構造と、システインが規則的に出てくる領域とがあった。更に、蛋白質データベースとのホモロジーサーチの結果、浸潤誘導活性を持つマウスのTiam-1蛋白質と、部分的に高い相同性を持つことがわかった。HICLとTiam-1とは、2ヶ所の領域において高い相同性がみられた。第一の部分には、Pleckstrin Homology(PH)ドメインが含まれていた。第二の部分には、Dbl Homology(DH)ドメインと二つ目のPHドメインが含まれていた。DHドメインは、rho類似低分子量G蛋白質に対するGDP-GTP交換因子の保存された触媒部位であることが知られている。HICLとTiam-1とは、他にも、PEST配列の存在、PDZドメインの存在などの特徴を共有していた。 HICL蛋白質に対する抗体を用いた染色によって、HICL蛋白質は、胚の神経叢、幼虫の神経筋接合部、成虫脳の神経叢と、発生段階を通じてシナプスに富む領域に特異的に局在することがわかった。更に、成虫脳の視葉のlaminaと幼虫の神経筋接合部における免疫電顕によって、HICL蛋白質は、前シナプスの細胞質の細胞膜近傍の限定された領域に局在することがわかった。特に、HICL蛋白質の局在は、アクティブゾーンからやや離れた位置の、突起状の構造に多く見られた。少なくとも成虫脳における免疫電顕像は、2種類の独立な抗体で同様に見られることが確認されている。 次に、HICL蛋白質の機能ドメイン(PH、DHドメイン)を含む領域のみを神経細胞特異的に強制的に過剰発現させる実験を行った。その結果、胚の運動ニーロンにおいて、軸索の伸長の阻害を起こし致死になることがわかった。これは、ショウジョウバエの神経系においてrho類似蛋白質を構成的に活性化した系において観察されている現象と類似しており、HICL蛋白質がrho類似蛋白質の活性化因子であることを更に支持するデータである。また、成虫まで生育する別の系統においては、幼虫の神経筋接合部において、シナプスの形態的な形成不全が観察された。 以上のことから、HICL蛋白質はシナプスで特異的に機能するrho類似G蛋白質の活性化因子であることが強く示唆された。rho類似蛋白質は、アクチン繊維の重合を調節することによって細胞の形態・運動性・接着活性などを制御することが知られている。細胞内の局在や強制発現実験の結果とも考え併せて、HICL蛋白質はシナプスの形態を調節する因子である可能性がある。また、PHドメインは蛋白質-蛋白質或いは蛋白質-脂質間の相互作用に関与し、PDZドメインは特殊化した細胞間結合部において蛋白質-蛋白質間の相互作用に関与することが知られている。従って、HICL蛋白質はシナプスにおける細胞内のシグナル伝達系の構成要素であると思われる。シナプスの形態は、周囲の環境からのシグナルや、神経細胞の活動性に依存して変化することが知られているので、HICL蛋白質は、そのようなシグナルを下流のrho類似G蛋白質に伝えることによってシナプスの形態を調節している可能性がある。 本論文で得られた結果は、rho類似G蛋白質のカスケードがシナプスに存在していることを示す初めての結果であり、シナプスが受ける調節作用の分子メカニズムを明らかにする上で、大きな寄与を与えるものである。 尚、本論文は、星野幹雄、鈴木えみ子、中越英樹、西郷薫、鍋島陽一、浜千尋氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 以上の理由により、本論文提出者曽根雅紀は博士(理学)の学位を授与されるのに十分な資格があると認める。 |