内容要旨 | | 本研究は,フィリピンの公立学校における宗教教育制度をめぐる論争とその結果としての法令変更の過程とを,国家建設との関わりに着目しつつ跡づけることで,フィリピン史に新たな知見を提供するとともに,宗教教育の問題が近代国家建設との関わりのなかでもつ意味を考察することを目的としている。周知のようにフィリピンは多言語・多宗教国家であり,しかも地域的要因や階層的要因などが複雑に絡み合う多元的な社会である。それだけに,政治的にも社会的にも公教育に期待される役割は潜在的にきわめて大きいといえる。しかし一方で,その役割は絶えず矛盾と対立を孕み,政治的・社会的に争点化することになる。公立学校における宗教教育の問題は,そうした矛盾と対立が集約的に表出する場であり,その調整と解決の歴史は,そのままフィリピンにおける公教育の歴史であり,国民国家としてのフィリピンの歴史であったといっても過言ではない。 まず第1章で,フィリピンの事例の位置づけを行った。多くの発展途上国では,フィリピンと同じく伝統的諸制度の解体と民族的多様性を超越した共同体の形成が課題であり,公教育に多くが期待されてきた。しかしこの課題遂行は伝統的社会の抵抗や民族集団からの反発をともない,宗教教育の問題はそれらが集約的に表出する場となると考えられる。また近年西欧では移民労働者の流入・定住化に起因する文化葛藤や社会の不安定化への対応が課題となり,公教育の役割が期待される一方,この問題をめぐる矛盾と対立がもっぱら学校での宗教の扱いをめぐり争点化されている。このため本研究を1つのステップとし,宗教教育の問題を考察するための普遍的な示唆の抽出を目指すことが肝要と考えられる。 次いでフィリピン史を概観した。300余年のスペイン統治(16世紀後半〜19世紀末)がカトリックによる精神的支配を支柱とした結果,宗教はフィリピン社会の伝統的価値観や階層構造,地位的分断を固定化する要因となった。これに対し今世紀前半にフィリピンを統治したアメリカは,近代国家建設の端緒をひらき,公立学校をその手段と位置づけて普及させた。しかし本国の政治変動の結果アメリカの努力が未達成の内に政治的独立(1946年)が実現したため近代国家建設の努力はフィリピン人自身の手に引き継がれることになった。 第2章ではアメリカ人による宗教教育制度制定と,フィリピン社会の対応を検討した。今世紀初めの公立学校開設時,アメリカ人たちは,そこでの宗教教育のあり方をめぐり2つの矛盾する方向からの要求に直面した。すなわち近代国家建設の阻害要因である宗教教育は,公立学校から排除しておくことが望ましいと考えられる一方,宗教教育を全く行わない公立学校では,敬虔なフィリピン人やフィリピン社会に強い影響力をもつカトリック教会からの反発にあい,その目的遂行に支障を来すおそれがあるとも考えられたのである。こうした矛盾する方向からの要求を同時に満たす解決策としてアメリカ人が考案したのが,限定的な宗教教育を例外として認める任意選択制という形態であった。宗教教育を公立学校の内で行うことで公立学校がフィリピン社会から拒絶されることが回避でき,またこの宗教教育を限定的なものにとどめることで公立学校の目的遂行が阻害されることも回避できるとアメリカ人は期待したのである。こうしたアメリカ人の考えに従い,宗教教育は正科よりも下位に位置づけられ,時間割当などの面で厳格な条件を付されたうえで,公立学校の内で許可されることになった。 しかしアメリカ人の期待に反し,フィリピンの公立学校では,任意選択制によって回避を図った上の2つの問題の両方が経験された。公立学校開設の当初,カトリック教会は宗教教育が正科でないことに反発し,公立学校普及阻止の活動を展開し一定の成果をあげた。 その後カトリック教会は方針を転換し,1930年代前半までには任意選択制の制度を積極的に利用するようになった。これにより,公立学校普及の大きな障害であった宗教的な反発が取り除かれることになった。この時期,任意選択制はようやくアメリカ人の期待したような機能を果たしたのである。 しかし第3章で明らかにするように,この状態は長くは続かず,宗教教育による公立学校の目的遂行の阻害という,もう一つの問題が表面化することになる。自治政府発足(1935年)にともない宗教教育制度のあり方を決定する権限がフィリピン人の手に渡ってから1950年代にかけて,カトリック教会によって宗教教育の拡充を求める運動が繰り返し展開された。教会は,アメリカ人が課した宗教教育に対する厳しい制約に不満を抱いており,この制約を緩和するような法令変更を望んだのである。教会は,多数の信徒を動員して有権者集団として議会や大統領に働きかけ,宗教教育に関する法令変更を要求したほか,教育長官人事への介入も試みた。これは教育長官に教会の側に立つ人物が就けば,その長官が宗教教育を拡充する施策を行うことが期待されたためであった。さらに教会は,自分たちの希望に沿った長官指名を約束した候補を大統領に当選させるべく,国政選挙にまで介入した。多数の有権者の投票行動を左右し得た教会の意向は公選議員や大統領にとり無視できないものであったため,上のような教会の活動は一定の成果をあげた。1930年代後半にこそ,政権基盤が強固であったケソン大統領によって教会の要求が拒絶されたが,独立(1946年)後の1953年には政権基盤が脆弱であったキリノ大統領が教会からの政治的働きかけに抗しきれず,それまで認められていなかった就業時間内への宗教教育の割当を許可するなどの細則変更を行った。さらに教会の支持を得て当選したマグサイサイ大統領が教会の代弁者を教育長官に指名し,この長官によって1955年に宗教教育を推進する省令が発せられた。こうした宗教教育制度の展開過程は,教会の立法・行政への影響力の大きさと,この教会の意向に反した施策の実行がいかに困難であったかを示すものであった。 こうした法令変更の結果,宗教教育制度のあり方は,アメリカ人が最初に定めたものと大きく異なることになった。任意選択制の形態は維持されたが,時間割当などの面で宗教教育に課されていた制約は緩和され,その地位は正科により近くなった。アメリカ人が宗教教育を限定的なものにとどめた意図は,公立学校を通じた近代国家建設が宗教教育よって阻害されることの回避にあった。宗教教育は近代国家建設と矛盾する方向性のものであったから,これに一定の制約を課すことは,公立学校の目的遂行に不可欠な条件であった。しかし1950年代に法令が変更されて宗教教育の地位が向上し正科との分離が不明瞭になった結果,宗教教育制度のあり方は上の条件を逸脱するものとなり,公立学校はその目的と矛盾する要因を内に抱えることになったと考えられる。こうして任意選択制は,再びアメリカ人の期待したような機能を果たすことができなくなったのである。 これ以降,現在までの期間を第4章で取り上げた。1960年代には,宗教教育拡充を求めて間断なく繰り返されていた教会の運動が途絶えた。これは1950年代の法令変更後の宗教教育制度のあり方が,より一層の改善を求める運動へと教会を駆り立てるものではなくなっていたためと考えられる。ことにマルコス政権期(1965〜86年)には,教会と敵対し,かつ強権的手法も用いて強固な政治基盤を築いた同政権が教会の希望する施策を行うことが期待できなかったため,教会は社会教育に司牧活動の重点を移行させた。このように1960年代以降は,教会は宗教教育制度の拡充を恒常的な課題とはしなくなっていた。しかしこの期間にも,一層の法令変更を追求する教会の試みが全くみられなかったわけではなく,1965年には,それまで禁止されていた公立学校の教員による宗教教育を認めることを定めた法案が,教会の働きかけで議会に上程された。しかし今回の試みにおいては,前章でみたときと異なり,最終的な目標は宗教教育拡充ではなかった。今回の教会の運動は,新興宗派に改宗によって信徒を奪われることを防ぐための司牧強化を目的としており,宗教教育の法令変更は,そのための手段として追求されたにすぎなかった。その一方で,こうした運動がみられたことは,教会が,宗教教育制度への取組そのものを課題としなくなった後も,別な目的達成のための手段として宗教教育制度の法令変更を追求する可能性があることを示している。ことに教会は1965年以降も引き続き新興宗派対策を課題としており,それが再度,教会の運動に結びつく可能性があると考えられる。このことから,宗教教育制度は今日なお展開の可能性をはらんでいるということができる。予想される法令変更は教会の希望に沿ったものであり,宗教教育を量的に拡大しその地位をより正科に近づけることで,公立学校を通じた近代国家建設の進展を一層遅らせるものとなると考えられる。 フィリピンの公立学校は,近代国家建設の役割を期待されてきたが,実際には有効なインパクトを与えてこなかったと指摘されている。総ての説明を宗教教育のみに求めることはできないが,この問題が公立学校の機能を阻害してきた主要要因であることは否定できないと思われる。公立学校に期待された役割には宗教の影響力低下も含まれていたが,現実には当の宗教の介入によってこれが阻害されてきた。ここにフィリピンの近代国家建設のジレンマがある。今後も依然影響力を保持する教会からの干渉と,宗教教育を内包する公立学校のもとで漸進的な近代国家建設の歩みを進めるほかに選択肢は残されていない。 |