学位論文要旨



No 112283
著者(漢字) 政二,慶
著者(英字)
著者(カナ) マサニ,ケイ
標題(和) スピードを規定された歩行中の歩行周期にみられる微小変動の解析
標題(洋)
報告番号 112283
報告番号 甲12283
学位授与日 1997.02.05
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第52号
研究科 教育学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮下,充正
 東京大学 教授 武藤,芳照
 東京大学 教授 土方,苑子
 東京大学 助教授 佐々木,正人
 東京大学 講師 山本,義春
内容要旨

 歩行は、人間にとって最も身近な身体運動であろう。生涯に渡って健康なからだで不自由なく歩き続けることを望まないものはいない。このためにも、歩行の仕組みを理解することは、極めて意義深い研究であるといえる。

 通常、人間が同じ運動を繰り返した場合、その体肢の動きには変動が伴う。歩行運動は比較的再現性よく繰り返される運動であるが、それでも、例えば歩行周期を測ると数%の微小な変動がみられる。このような微小な変動は、通常は誤差として扱われる。しかしながら、近年になって、この変動が単なる誤差とは言い切れないことがわかってきた。すなわち、単なる誤差であれば、毎回発生する変動の間には相関がないと考えられ、この仮定が平均操作を行う前提ともなる。ところが、歩行周期を連続的に測定してやると、その微小な変動の間に数100歩に渡って相関がみられることがわかったのである。このような長期相関のある変動は、これまでの歩行の制御機構に関する理解のみでは説明が付かず、この機序を解明することで歩行の制御機構に関する新たな発見があることが期待される。

 これまでの歩行の制御に関する理解は、以下のようなものである。歩行に必要な周期的な神経指令は、脊髄内の神経群が回路状に組み合わさることで、自律的に生成していると考えられている。この神経群を概念としてCentral Pattem Generator, CPGと呼ぶ。CPGは脳幹からの指令により駆動され、その出力が筋に伝えられて運動が発現する。さらに、体肢の運動の結果は感覚神経系を介して、CPGなどにフィードバックされ、CPGの出力を調節する。すなわち、体肢の運動は中枢神経系からの命令に従って発現し、その結果をフィードバックすることで中枢神経系の命令が補助的に調節されるという図式である。

 ところが、この図式では歩行運動の柔軟性を説明しきれないのではないかという疑問が生じる。そこで、近年になって、ここ20年来の自己組織理論の研究を背景に、歩行の制御系を脊髄内の神経群を中心とした自律分散制御系と捉えることで、歩行の柔軟性を説明するという概念が提唱された。ここでは、体肢の軌跡は中枢神経系の指令に従順に従うのでなく、外界と密接に相互作用することによってはじめて、決定されると考えられるのである。

 長期相関のある歩行周期の微小な変動は、従来の歩行制御の概念では説明が付かない。しかし、新しい歩行運動の制御の概念では、ある1歩の微小な変動が、次の1歩の大きさに密接に関係してくることになり、その影響は長期に渡って残存することが推測される。そこで、本論文では、歩行周期にみられる微小変動を説明する仮説として第1に挙げられるこの概念を、検討することを目的とする。

 本論文の主な内容は、以下の通りである。

 1)長期相関のある変動を定量的に扱うために、フラクタルの概念を用いた。フラクタルとは、観測スケールを変えても変動の分布型が変わらないという自己相似性をもつ変動を指す。フラクタル解析を用いると、このような変動の自己相似性を定量化し、また、内在する時間的な性質を定量化することができる。本論文では、フラクタル解析の1つとして信頼性の高いCGSA法を用いた。CGSA法により、変動内にしめるフラクタル成分の割合(%Fractal)、および時間相関の割合(スペクトル指数)を定量的に求めることができる。変動がフラクタル的である場合(%Fractalが十分に大きい場合)、スペクトル指数が大きいほど変動は強い時間相関をもつ。

 2)これまで報告されている歩行周期にみられる長期相関のある変動は、地上での歩行のみであった。地上での歩行では、速度を規定できないし、ストライド長が変動しているのかすらわからない。また、「意志」のような上位中枢の関与が大きく、制御系を単純な自律分散系とみなすこともできにくい。そこで、まず速度を規定した歩行、すなわちトレッドミル歩行において同じように時間相関のある変動が観察されるか否かを検討した。健常者8名にトレッドミル歩行を課し、1024歩についてフラクタル解析を適用した。その結果、%Fractalは90%程度と高い値を示し、この変動がフラクタルの性質を有することが示された。さらにスペクトル指数は0.73±0.16と、地上歩行と変わらない、強い相関のある変動であることがわかった。

 以上から、速度を規定した場合でも歩行周期の変動が長期の相関をもつことがわかり、この変動は動作自体が相関をもって変動しているから発生していることが明らかとなった。

 3)CPGの出力の総和は、表面筋電図の積分値を用いて推測することができる。そこで、CPG出力自体が相関をもって変動し、歩行周期の変動を作り出しているのか、これ以外の要因によるのかを検討するために、筋電図積分値(以降、筋放電量)の変動にフラクタル解析を適用した。健常な5名の男子にトレッドミル歩行を課し、その間の両下肢12筋から表面筋電図を導出し、この変動にフラクタル解析を適用した。その結果、%Fractalは90%以上であり、変動がやはりフラクタルの性質を有することがわかった。また、スペクトル指数は0.35±0.18であり、やや弱いが歩行周期と同様に長期相関のある変動であることがわかった。また、筋放電量が歩行周期と定量的な関係にあることを確認するために、人工ニューラルネットワークANNを用いてこの間の関係を抽出した。ANNは近年盛んになってきた方法で、ノンパラメトリックな非線形回帰法である。ANNにより両者の間の定量的な関係を求めることができた。

 以上より、歩行周期の相関のある変動は、CPG出力が相関をもって変動することに起因していることが示唆された。

 4)もし、環境とCPGの密な相互作用の性質として、相関のある変動が生み出されているのならば、連続したステップに対するCPG出力の間には定量的な関係があることが推測される。そこで、前項と同様にANNを用いて、この関係を抽出することを試みた。その結果、意味のあるANNが決定でき、この定量的な関係が示唆された。そこで、このANNを用いて、これを繰り返すことで連続したCPG出力をシミュレートした。さらにCPG出力と歩行周期の間を定量的に関係づける前項のANNを用いて、歩行周期をシミュレートした。その結果、実測されるような長期相関のある変動は生みだせなかった。

 しかし、このもとになったANNには体肢の運動の結果の情報であるステップ周期の情報が入っていない。そこで、これを加えた上で、再度、検討を行った。その結果、やはり、長期相関のある変動は生みだし得なかった。

 以上から、2つのシミュレーションにより密な相互作用から長期相関のある変動が生みだされる仮説を検討したが、実際に観測される変動は再現できなかった。つまり、このような下位の機構から長期相関がある変動は発生しないことを示唆する結果であった。

 5)以上から、歩行周期の長期相関のある微小変動を生み出す機序として、第1に考えられてた仮説である、柔軟な歩行を形成している自律分散制御機構の大域的な性質としての発生過程は、否定された。CPG出力は相関をもって変動していたので、身体内部機構に要因が存在することは間違いない。考えうる仮説としては、より上位の中枢の働き、つまり、歩行の「意志」や「意欲」による歩幅の調節の過程が挙げられる。

審査要旨

 本論文の対象である歩行は古くから研究されてきた。それは、動物の四足歩行や人間の二足歩行の外観にもとづく叙述的な分析から始まり、除脳ネコなどを用いた神経系の役割についての帰納的分析が行われ、脊髄にあると仮定される"中枢パターン生成器"からの周期的出力によって主に、末梢からフィードバックされる情報によって補助的に、調節されるという定説を生むに至った。そして、最近のコンピューターの発達により力学的モデルが検討され、多様な床面を柔軟に適応して歩けるのは、歩行にかかわる神経群が入力される情報に基づいて自己組織的に調節し合っているからだという仮説が報告された。

 このような歩行研究の流れの中で、本論文は人間が実際に歩くときにみられる周期性の微小変動(ゆらぎ)を実験的に検討したものである。そのため長時間にわたって周期性をできるだけ一定に保つように電動式トレッドミルを利用している。トレッドミルは自然歩行と呼ばれるそれぞれの個人が普通に歩くスピードに設定し、歩行中の左右の足のかかとの着地時刻と下肢の左右それぞれ6つの筋肉から電気的活動量(筋電図)を記録した。

 歩行中の連続した1024歩についてフラクタル解析した結果、8名の被検者全員に歩行周期(右足着地から右足着地までの時間)の変動には長期にわたって自己組織系の特徴であるフラクタルゆらぎがみられること、ステップ周期(右足着地から左足着地あるいは左から右までの時間)のゆらぎが歩行周期のゆらぎと同調していること、そして、ステップ周期の変動と筋電図の変動との間に高い単相関がみられたのは大腿二頭筋、腓腹筋、ヒラメ筋の3つであることを明らかにした。

 次に、人工ニューラルネットワークという手法を用いて、歩行周期と強い関わりを見せる3つの筋肉の連続する左右の脚の筋電図から、ある程度信頼できる写像(右足の筋電図から予測される左足の筋電図)が得られた。さらに、左右の筋電図から十分精度よく歩行周期が予測できることを示した。しかし、順次求められた500個の写像の変動には、実データにみられた程の長期のフラクタルゆらぎがみられなかったとしている。

 本論文の対象が意識にもとづいて発現し、意識にもとづいて何時でも変えることができるものでありながら、無意識下でも遂行の継続が可能であるというきわめて複雑な機構によって調節されている歩行であった。そして、提出者は新しいデータ処理方法を活用し、歩行周期にみられる微小変動は単なる誤差ではなく、神経系と筋骨格系との相互作用によってつくりだされるものという仮説に立って実験を進め、上述したようにきわめて示唆に富む結果を提示している。

 本論文で述べられている仮説にもとづく実験の組み立て、データの処理は論理的で、得られた結果は十分信頼できるものである。以上のことから、本諭文は博士(教育学)に価すると判断された。

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