学位論文要旨



No 112290
著者(漢字) 佐甲,博之
著者(英字)
著者(カナ) サコウ,ヒロユキ
標題(和) 11.7AGeV/CにおけるAu+Au衝突からの反陽子生成
標題(洋) Antiproton Production in Au+Au Collisions at 11.7AGeV/C
報告番号 112290
報告番号 甲12290
学位授与日 1997.02.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3133号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石原,正泰
 東京大学 助教授 福田,共和
 東京大学 助教授 相原,博昭
 東京大学 教授 赤石,義紀
 東京大学 教授 矢崎,紘一
内容要旨

 AGSエネルギー領域(核子あたり10-20GeV/cでの)原子核・原子核衝突からの反陽子生成の研究は以下の点で非常に重要である。まず、このエネルギー領域は反陽子の生成閾値に近いため、核子-核子衝突でエネルギーを失った核子のほとんどは二度と反陽子を生成できない。従って、このエネルギー領域での原子核-原子核衝突での反陽子生成はハドロンの多段階励起過程やクォークグルーオンプラズマなどの協同課程の存在に敏感であると考えられる。一方Au+Auの中心衝突において、バリオン密度は通常の原子核密度の約10倍に達すると予測されているが、反陽子の核子による吸収効果はバリオン密度と密接な関係があるため、高バリオン密度を反陽子を用いて評価することが期待される。

 重イオン衝突実験で観測される反陽子の収量は、反陽子の初期生成及び核子による吸収の競合の結果であるが、その二つの効果を抽出することは未解決の課題である。この論文では、以下のような観測を通じてそれらの探求を試みる。

 1.反陽子の収量の衝突系の大きさや衝突径数への依存性。

 2.横質量スペクトルの形の衝突径数への依存性。

 3.ラピディティー分布の形の衝突径数への依存性。

 現在までにAGSで行われた実験の結果、核子あたり14.6GeV/cでのp+A、Si+A衝突からの反陽子の収量は入射原子核中の「傷付いた」核子数(Nproj)にほぼ比例することがわかっている。

 アメリカ合衆国のブルックヘブン国立研究所(BNL)のAlternative Gradient Synchrotron(AGS)で行われたE866実験は、核子あたり11.7GeV/cのAuビームとAu標的との衝突で生成した粒子の生成の研究を目的とした実験である。我々はE866実験において、Au+Au衝突で生成した反陽子を測定した。この反陽子測定はAGSエネルギー領域のAu+Au衝突の実験で、横質量の広い範囲に及ぶものとしては世界最初のものである。

 図1はE866の実験装置を上方から見た図である。E866実験装置は、2つのスペクトロメーターからなる。我々はこのうち図の下方にある、前方スペクトロメーターで得られたデータを用いた。前方スペクトロメーターは、2つのダイポールマグネット(FM1、FM2)、2つの複合荷電粒子飛跡検出装置(FT1+TPC1+FT2、FT3+TPC2+FT4)、1台の飛行時間測定器(FTOF)からなる。

 筆者は、E866実験において前方スペクトロメーターに設置されたTPC2の設計と製作、TPC1とTPC2のテスト、本実験においてはTPC1とTPC2のオペレーションを担当した。データー解析においては志垣賢太氏とともに前方スペクトロメーターにおける飛跡再構成のプログラムを開発した。またこの論文で使われた1500万イベントのデータについてTPCのパラメータの較正を行い、2ヶ月にわたるデータ解析の準備と総指揮を行った。

 我々は1994年10-11月に行われた実験において、前方スペクトロメーターの角度が6-24度の範囲で、1500万個の事象を収集し、データ解析の結果、総計800個の反陽子を得た。我々はインクルーシブ事象において、またいくつかの衝突径数の範囲で区切った場合について反陽子の生成断面積を求めた。図2はインクルーシブ事象での反陽子の横質量スペクトルを示す。

 求めたAu+Au衝突での断面積を様々な衝突系、セントラリティーについて系統的に比較した。第一に、反陽子の収量の入射原子核の「傷付いた」核子数(Nproj)に対する依存性を調べた。反陽子のビームエネルギー補正を加えたdN/dyはp+A、Si+A衝突についてほぼ比例し、原点を通る直線(破線)にのるが、Au+Au衝突でのdN/dyはその直線のわずか30-60%に過ぎない(図3参照)。

 第二に、Au+Au衝突での各粒子のdN/dyの比、/-、p/-,K-/-,K+/-,+/-をNprojの関数として比較した。/-が減少するのに対し、p/-,K-/-,K+/-は増加し、+/-はほぼ一定である(図4参照)。

 これらの二つの観測結果はいずれも、AGSエネルギー領域においてAu+Au衝突系での反陽子の吸収効果がp+A、Si+A衝突系に比べて強いことを示唆するものである。

 次にカスケード模型、RQMDの計算結果をデータと比較した。RQMDでは、反陽子は、ハドロンの多段階励起過程から初期生成され、その後自由N消滅断面積により核子に吸収される。RQMDはp+A,Si+A,Au+Auまでの反陽子の収量の大局的な傾向を再現した。

 最後に反陽子の収量からA+A衝突でのバリオン密度を「静的吸収長模型」を用いて探求した。この模型はRQMDの初期生成、自由N消滅断面積を用いた吸収長を仮定する。まず、RQMDを用いて様々な衝突系におけるバリオン密度を計算した。Si+Al、Si+Auの中心衝突での最大バリオン密度は通常原子核の約5倍、Au+AU衝突では周辺衝突(セントラリティー50-100%)で約3倍、中心衝突(セントラリテイー0-10%)で約8倍であった。A+A衝突においては、相対運動量の違いにより、「反応参加核子(反応に関与した核子)」による吸収断面積は「傍観者核子(反応に関与しない核子)」による吸収断面積よりも約3倍大きい。したがって模型では反応参加核子による吸収のみを考慮した。反応参加核子の平均密度をとし、体積は球を縦方向に/だけ圧縮した回転楕円体であると仮定する。反応参加核子による吸収長(通常原子核の密度において約0.65fm)は反応参加核子の大きさ(球と仮定したときAu+Auの中心衝突で約8fm)よりはるかに小さいので、静的吸収長模型は、反応参加核子の体積の表面付近で生成された反陽子のみが吸収されずに生き残るという描像を予言するが、これはRQMDの計算結果と一致する。RQMDの初期収量はNpart(反応参加核子数)に比例するが、それを取り入れた我々の模型は反陽子の最終収量がに比例するという実験結果を再現した。実験データとの比較を行った結果、反応参加核子の体積での平均のバリオン密度に対する表面付近でのバリオン密度の比が衝突系にかかわらず、3〜4の範囲で一定であるという結果が得られた。

図1:E866スペクトロメーターを示す。図の上方にある大立体角のスペクトロメーターはヘンリーヒギンズスペクトロメーター、下方の小立体角のスペクトロメーターは前方スペクトロメーターである。図2:インクルーシブ事象におけるy=0.8〜2.2のそれぞれのラピディティーでの反陽子の横質量スペクトルを示す。図を見易くするため、それぞれのスペクトルに対し、10n(n=0,1,2,...)のファクターを掛けた。核子-核子の重心系ラピディティー1.6に関して対称なラピディティーについては同じファクターを用いた。図3:p+A、Si+A(14.6AGeV/c)、Au+Au(11.7AGeV/c)衝突での、反陽子のdN/dyをNprojの関数として示した.Au+Au衝突のデータについてはエネルギー補正(×2.1)を行った。ラピディティーの範囲は、p+AとSi+A衝突については1.1<y<1.7、Au+Au衝突については1.0<y<1.6である。p+A,Si+A衝突ではdN/dyはNprojにほぼ比例し原点を通る直線(破線)にのるが、Au+Au衝突ではdN/dyはその直線の30-60%に過ぎない。図4:dN/dyの比,p/-,/-,K±/-,+/-をNprojの関数として示した。ラピディティーの範囲は1.2から2.0である.データ点の誤差は統計誤差である。/-が減少するのに対し、p/-,K-/-,K+/-は増加し、+/-はほぼ一定である。
審査要旨

 本論文は9章からなり、第1章は序説、第2章から第7章にわたっては、実験装置とデータの収集、解析、第8章では実験結果についての議論、第9章では結論が、それぞれ、述べられている。

 数10AGeV/c領域の重イオン衝突においては、バリオン密度が通常核の5-10倍に達する原子核状態が形成され、そこにクォーク・グルーオン・プラズマ(QGP)が実現する可能性が指摘されている。この論文はQGPの生成とその診断の方途を探る立場から、11.7AGeV/cにおけるAuとAuの原子核衝突で発生する反陽子の収量特性を観測、分析し、重イオン衝突系での反陽子の発生と吸収の機構を論じたものである。QGPの生成に当たっては、その要件として超高密度の原子核状態の実現が前提とされるため、衝突時に形成される原子核状態の密度診断法を確立することが重要となる。重イオン衝突においては反応が多段階的に進行するが、反陽子は生成しきい値が特に高いため、反応過程の初期段階に限って生成が可能と考えられる。一方、高密度状態はそれに続く中間段階で形成され、これらの反陽子に対しては吸収体として作用すると想定される。このため初期段階での反陽子生成率と実際に放出される反陽子の収量の比較から得られる吸収率は、高密度状態のバリオン密度に関する良い指標を与えるものと期待されてきた。

 実験は米国ブルックヘブン国立研究所の高エネルギー・シンクロトロンAGSを用いて行われ、前方スペクトロメーターと称する荷電粒子分析装置を用いてAu+Au衝突で発生する諸粒子の運動量分布が前方の6-24度の広い領域で測定された。観測された1500万個の事象から様々な弁別を施し総計約800個の反陽子事象が抽出され、それらをもとに反陽子の横質量分布やそのラピディティー、セントラリティー(衝突係数の指標)への依存性が求められた。前方スペクトロメーターは2つの2重極電磁石、付随する飛跡検出装置および飛行時間測定器から構成された、放出荷電粒子の同定と運動量を分析するための装置で、セントラリティーを求めるためには、0度に置かれたカロリメーターが補助的に用いられた。前方スペクトロメーターの開発にあたって、論文提出者は飛跡検出装置の構成要素であるタイム・プロジェクション・チェインバー(TPC)の設計、制作を担当し、さらに飛跡飛跡再構成のための解析コードを開発した。TPCは多重に発生する粒子の飛跡の弁別力に優れ、多重度が極めて高いAu+Au反応を精度よく観測する上で決定的な役割を果たした。

 本論文に関わる実験データの解析、分析は論文提出者がほぼ独力で行った。10AGeV/c領域の重イオン衝突における反陽子生成の研究は、これまでp+A、Si+A系でなされている。本実験の特色は、こうした研究を重い原子核の反応系まで拡張した点にあり、これにより反応の支配的パラメターである衝突系の大きさが広い範囲でカバーされ、反陽子発生現象の諸物理量に対する系統的依存性がはじめて明解になると期待される。高エネルギー重イオン衝突で形成される原子核状態の記述では、反応に直接参加した核子の数(Nw)が主要なパラメターとなるが、Au+Au反応の観測によりその範囲が一挙に10倍近く拡大した意義は特に大きい。

 実験結果は、主に、1)反陽子の収量の衝突系の大きさや衝突係数への依存性、2)横質量スペクトルの形の衝突係数への依存性、3)ラピディティー分布の形の衝突係数への依存性、について分析され、さらに、高エネルギー重イオン反応を記述する理論コードRQMDの結果と比較された。実験と理論の結果は全ての側面にわたって良い一致を示し、RQMDの妥当性を強く支持している。RQMDによれば、反陽子の生成は主として励起したバリオンの崩壊に由来するものであり、また、中間的に形成される原子核状態は極めて高いバリオン密度に達し反陽子の大半を吸収することになる。

 さらに、主要な成果として、Si+Aのデータを含む広い領域にわたって反陽子の収量がNw2/3のみに依存する関係式で普遍的に表わされることを見い出している。論文提出者は、強い吸収効果のため表面に生成された反陽子のみが吸収をまぬがれ放出されるとの仮定に基ずく幾何学的モデルを提案し、この現象を旨く説明することに成功した。

 結論として、この論文は10AGeV/c領域の重イオン衝突における反陽子生成、吸収機構の解明に大きな寄与を為す優れた研究である評価し、博士論文として合格であると判断した。なお、本論文は多数の研究者との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断した。

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