本論文は、17世紀から19世紀のイランにおける地方権力のあり方の分析を通じて、イラン史の再構成を目指すものである。 これまでの研究では、17世紀以降のイラン史は衰退と継続の2面から説明されてきた。サファヴィー朝の衰退と滅亡、戦乱の相次ぐ18世紀、ガージャール朝の弱体と西欧への従属が衰退の側面であり、18世紀に成立した4つの政権がいずれも部族出身であって、遊牧部族がその軍事力によって王朝を建設するという中世以来のパターンの繰り返しであるというのが継続の側面である。しかし、これらは支配王朝のみに着目した議論であり、また、国家構造・社会構造の本格的な検討を行っていない表面的なものである。本論文では、当時各地方を実質的に支配したとされる地方権力に着目し、ヤズド、オルーミーエ、シーラーズという3地域の最有力家系を取り上げ、これらの地方権力の性格、台頭の過程、権力基盤、国家との関係を考察することにより、当時の社会構造の一端を明らかにした。 第1章のヤズドの事例では、モハンマド・タギー・ハーンという元来財務官であった人物が、母方がサファヴィー朝の銃兵隊長の家系であったため、ナーデル・シャー死後の戦乱のなかで銃兵を率いて頭角を表し、「余所者」からヤズドを守る守護者の役割を果たすことで、この地方の支配者となったことが明らかとなった。彼の功績により、政治的安定を得たヤズドは目覚ましい繁栄を遂げた。また、モハンマド・タギー・ハーンは多くのカナートや商業施設等多くの建設事業やワクフを行い、この地方の開発につとめた。しかし、ガージャール朝成立後も、彼の息子達がヤズド知事としてこの地方に君臨したが、次第にその存在意義を失い、知事職を奪われた。 第2章ではオルーミーエのアフシャール部を取り上げた。キジルバシュの一員としてサファヴィー朝の成立に貢献した彼らは、シャー・アッバースによって、この地方に移住させられ、対オスマン国境の警備とクルド系諸族の平定にあたった。17世紀中はアフガニスタンのファラーの知事も務めるなど、全国的な活動もしていたが、次第にオルーミーエ地方との関係を深めていくことになる。18世紀の戦乱のなかで、地方権力としてアゼルバイジャンの諸勢力と覇権を争った。そのなかで、別の部族を取り込み、また、地縁によってクルド系の諸族をも動員した。また、部族でありながら官僚やウラマーをも輩出し、多面的にオルーミーエを支配した。ガージャール朝の成立後、オルーミーエの知事職を失うが、新たに創設された西欧式の新軍サルバーズのオルーミーエ連隊長の地位をアフシャール部出身者が占めることにより、栄達の道を確保し、この地方に影響力を保った。 第3章ではシーラーズのハーシェミーエ家を取り上げた。シーラーズはザンド朝の首都がおかれたため、半独立の地方権力は形成されにくかった。しかし、シーラーズのキャラーンタルであったハーシェミーエ家のハーッジー・エブラーヒームは兄弟が率いる銃兵の軍事力により、ザンド朝の王位継承に介入することで台頭し、ついにはザンド朝君主からシーラーズを奪うことに成功した。ガージャール朝に服属した後、ハーッジー・エブラーヒームは宰相に任命されるなど一族は要職を占めるが、彼の失脚により、一族はシーラーズのキャラーンタル職まで失ってしまう。1811-2年に再びキャラーンタル職を獲得したハーシェミーエ家は、自分たちの地方住民への影響力によって、ガージャール朝の国家統合に協力することで、その権力を伸長し、19世紀後半には部族や郡部に徴税を通じて支配を拡大していった。 以上の3つの事例から、次のような結論を導いた。第一に18世紀に各地に現れた地方権力はある程度共通の性格を持っており、それは軍と官僚機構、場合によってはウラマー勢力をも掌握した点、地方社会と密接かつ強固な関係を持っていた点で、特徴づけられる。サファヴィー朝以前とは異なって、小銃の普及によりイラン系の官僚であろうと銃兵を率いて地方の防衛にあたり、トルコ系の部族であっても官僚やウラマーを輩出するという事態が現出したのである。第2にガージャール朝の成立後もこれらの地方権力は存続するが、その性格は大きく変化した。地方での統治権を失った彼らは、ガージャール朝に官僚として仕官し、あるいは軍制改革で誕生した新軍で活躍し、あるいは拡大するガージャール朝支配の最前線で徴税官を務めることでその地位を保った。ガージャール朝による国家統合や近代化に巧みに対応して、それぞれが活躍の場を発見していったのである。従来の弱体な王朝権力と地方権力の優勢という枠組みは、統合と支配を強めていく王朝権力に地方権力が巧みに食い込んでいくという形に訂正されるべきであろう。 |