私たち人間も含め生物は、非生物的構成要素ともども、生態系の中で協同的に生を営んでいる。生の基本的な機能単位は生態系であって、個々の生物個体ではない。生態系にあっては、その協同的構成性のゆえに、偏差・逸脱を打ち消そうとするネガティヴ・フィードバックが作用する(生態系の第一次的コントロール・システム)。しかし、それにもかかわらず、偏差・逸脱が増幅するならば、生態系は第二次的コントロール・システムへとシフトする。逸脱とともに協同的に進化し、新しい生態系を実現するか、さもなければ逸脱を起こしているものを破壊するかである。いわゆる環境問題は、私たちの現代社会がこの後者の道を歩んでいることを示唆している。一体なぜこのようなことになったのか。私たちは私たちの生の世界をどのようにして生きているのか。 すべて生を営むものは環境とか生態系のなかに受動的に嵌め込まれているのではない。生物は、「環境を発明する」 (H・フォン・フェルスター)。生物が生きているとき、生物において起こっていることはオペレーションに関しては自らの上へと閉じている「計算の無限回帰」という自己準拠的過程である。この過程において、生物は環境にかかわる記述を発明し、この発明された環境により行動へと促される。この行動が発明に対応しうるような環境の特性をとらえることに成功するとき、そこには生物の「生存能力」に呼応する行動的な統一体がうまれる。環境と生物との間に生まれるこのような行動的統一体は「環境世界」と呼ばれるものであり、観察者の目には環境から生物固有の能力に応じて選択的に切り出されたものと映るが、当該生物にとってはそれこそ自らの世界のすべてであり、それによって環境を、世界を覆い尽くす。人間も生物としてこのことを行う。自らが想像的・創造的に描き上げた環境についての「計算」(図式・モデル)をもって環境に向かい跳躍し、想像されたものをもってリアルなものたらしめながら生きていく。だが、人間と他の生物は次の点で際立った相違をみせる。人間以外の生物は「環境束縛的」でそもそもから確定的な自らの環境世界の中に埋没しているのに対して、人間は自らを環境という外界から引き剥がすことで人間となり、人間的な環境世界を形成しなけれけばならない存在だということ、自然・環境との未分化性から自らを引き剥がさねばならないということである。この人間の人間化、社会的環境世界の成立には三つの局面が考えらる。自然との未分化性にあった自己(弁証法的いえば即自)を否定すること、環境を否定し人間の環境世界へと変換すること(自然の否定)、これらのことを支える共同性である。 外界に対する人間の否定的・同化的志向を、「欲望」(A・コジェーヴ)と呼ぶことにすると、欲望は人間にも人間以外の生物にも共通のものであり、欲望そのものは人間を外界から、すなわち環境との未分化的連続性から引き離すものではないが、人間にあっては欲望が欲望に向かう(「欲望に向かう欲望」)という機制によって、環境との未分化的連続性に対する外部性が導入される。他者の欲望を否定・同化しようとする欲望と、自らの欲望を否定・同化しようとする欲望とが絡み合い、欲望のネットワークが生まれる(自己否定の協同性)。欲望のネットワークに組み込まれることにより、人々の欲望の流れは流路づけられ、成形化された人間関係を創出することになり、成形化された欲望の流れは成形化された対象の世界をつくりだす(環境から人間の環境世界へ)。 では、この欲望のネットワークによる欲望の流路づけとは、どのように作用しているのか。欲望のネットワークは象徴的システムとして作用する(レヴィ=ストロース)。世界は無限の差異からなっていると考えられる。無限の差異を包んだ世界は、要素と要素との間に無限の差異(無限の要素)が挿入されえ、要素同士の区別を呑み込んでいく連続性を特徴とする。象徴的システムは、このような差異=過剰な差異を排除し、特定の差異を離散的・区分的なものとして選択する(差異の差異化)、そしてこの差異化された差異がその他の差異を振るい落とした世界の上を覆っていく。また、差異の減少は、それらの差異の創造的な結合(差異の編制)への道を開く。象徴的システムは差異のシステムであり、人々やその他生物を含む物質的存在は、この差異のシステムを担う単位として、区分化された差異を差し示す指標=記号へと化せられる。記号としての物質的存在は、差異のシステムの規則に従って相互に結び付けられたり、あるいは隔てられ、成形化された関係を作りだすことになる。こうして、連続的世界は不連続的に組織されることになる(環境の社会的環境世界化)。これが象徴的システムの作用である。だが、象徴的システムとしての近親婚の禁止=女性の互酬的交換規則の分析も、トーテミズムの分析も、象徴的システムの作用がそれだけで作動するものではないこと、その作動には、同時に、象徴的システムによる記号化を越える「使用価値」の流れと、不連続的組織を実現している単位間の関係についての人々の想像的理解が伴っていること、を示している。象徴的システム=欲望のネットワークは、人々の想像的理解の共鳴により成り立つとともに、象徴的システムを越える世界との間にも共鳴を作りだすことで成立している。だが、これに加えて、象徴的システムそれ自体は不連続的組織化のためのコードとして不連続性を志向するものではあるが、その作用の結果として連続性への志向をも生み出すことをトーテミズムの研究は示している。離散的に区分された単位の間にみなぎる媒質的なものへの志向が、なぜ、どのようにして生み出されることになるのか。 トーテミズムや女性の婚姻規則がいわゆる未開社会における生産関係に関わるものであってみれば、この問題に対する鍵は生産という領域の中に求められねばならない。生産を理念型的に考察するならば(実践的生産)、生産とは、一方では、人間を主体の側に、自然を対象の側へと配備し、両者の間に道具による切断・不連続化をもたらすとともに、他方では、人々を生産過程のうちの要素的過程の担い手へと不連続的に配置していく過程であり、連続的・即自的な人間・自然関係の否定である(不連続性を志向した社会的環境世界の形成)。それは、自然の技術的合理的支配を志向し、自然支配的な関係として社会的環境世界を成就しようとするものである。だが、このような否定が、人間にとっては禁止という暴力的な姿をとらねばならいことから、逆説的な運動が始動する。禁止は禁止されたものという領域を、さらには禁止に対する違犯(バタイユ)という領域(否定の否定)を開示することになる。それは、生産が作りだす不連続的組織化の破壊の向こう側に現れる領域、人々の生を支えている生産を日常あるいは俗とするなら、その日常・俗を越えた聖なる領域として現れ出る。人間の社会は聖と俗という二つの領域を、不連続的組織化・自然の合理的支配関係からなる社会的環境世界への志向と不連続的組織化を越えた共同性・コミュニタス(V・ターナー)としての社会的環境世界への志向という二つの志向性をうちにはらむことになる。後者は、いわゆる未開社会にあっては、供犠・呪術・儀礼などといった非日常的領域において端的に現れるが、特に注目しなければならないのは、呪術を支えている「マナ」の観念である。マナは、象徴的システムが世界の中に作りだした亀裂、象徴的システムからは取りこぼされる世界の余白を担うことで象徴的システムの作用を支えるとともに、象徴的システムの内部で象徴的システムの限界を書き記す役割を果たすことになる。 このような人間社会あるいはその社会が環境との間に結び上げる社会的環境世界を人間以外の生物の環境世界と比較したとき、際立つ特徴が組織の「変化」の問題と「重層的決定性」の二点である。組織の変化は「ノイズからの秩序原理」と呼ばれる原理によって支配されている。ノイズとは、システム(象徴的システム)にとって解読しえない危険な攪乱因子である。人間はその社会的環境世界を通じてリアルな環境とのリアルな関係を生きるのだが、そこには両者の落差の故に常に矛盾がはらまれる。この矛盾が無視しえない攪乱要因として象徴的システムに侵入した場合、象徴的システムがそれを自らの構成要素として、有意味なものとして取り込むことに成功しうるように変化するとき、象徴的システムは新しい象徴的システムへと変化し、社会的環境世界も新たなものへと生まれ変わる。ただし、ノイズからの秩序は社会の作動の結果として生まれてくるものとしてのみ理解されるべきではない。社会の中心、あるいは社会的環境世界の中心にあるのが、確固たる核などではなく、ノイズからの秩序なのである。社会の不可能性というラクラウ、ムフの命題は、社会的環境世界がノイズの中でノイズに抗しながら、不断のヘゲモニー闘争を通じて、決して成功することなく縫合されてきたもの・つねにされつづけているものであることを示している。また、社会的環境世界は重層的に決定されている。それは、連続性への志向と不連続性への志向との狭間で、諸審級(言説)が相互を指示対象として指示し合うこと、それにより諸審級(言説)が相互に巻き込み・巻き込まれ合うところに成立する。重層的決定性は、連続性の志向を生産の中に組み込むことによって自然支配の言説の過熱・暴走を制御する役目を果たしうるが、しかし、神の模倣と自然支配の言説の場合のように、自然支配への運動を加速する場合も起こりうる。また、重層的決定が作りだす言説横断的関係はノイズの発生源ともなる。社会的環境世界は、ノイズの中で生まれ、自らノイズを生み出しながら展開する。 |