学位論文要旨



No 112294
著者(漢字) ジュマリ,アラム
著者(英字) Djumali,Alam
著者(カナ) ジュマリ,アラム
標題(和) 宗教組織におけえるカリスマの構造と過程 : 日本の新宗教とインドネシアのスーフィズム集団を比較して
標題(洋)
報告番号 112294
報告番号 甲12294
学位授与日 1997.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第93号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 見田,宗介
 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 教授 関本,照夫
 東京大学 教授 山下,晋司
 東京大学 助教授 瀬地山,角
内容要旨 背景

 本論文は、宗教集団においてみられるカリスマ的指導の仕組みを、日本の新宗教とインドネシアのイスラム神秘主義(スーフィズム)集団を通して比較し、両者においてみられる「カリスマ関係」という現象の、組織的、社会的、文化的要素を解明しようと試みるものである。こうした試みの根底には、カリスマ的指導ないしカリスマ関係というものは、ウェーバー社会学の解釈から生まれたこれまでの学説が主張するように、ひたすら指導者の独創性や光輝ある人格に依拠するのではなく、それを受容する帰依者や大衆の集団構造、また特定の文化に内在するカリスマ的観念に、より根源的な要因が含まれていると考えるのである。とりわけ筆者が注目したいことは、カリスマ的従属関係の成立過程と、その成立と存続を可能にする、集団・組織の構造およびそうした構造の背後にある文化的な価値体系である。

 宗教現象を単に「指導者のカリスマ」という観点から分析する試みは、日本の宗教研究において、「教祖研究」というジャンルとしてすでに定着している。一方、宗教集団の組織研究は、教祖研究のようにさほど定着してはいないが、日本の宗教研究のなかではとりわけ森岡清美の仕事によって、教団組織の基本形態や発展段階が日本の伝統的な家制度と結びつけられて分析され、理論的な枠組みがすでに完成している。しかしこうした研究図式のなか、宗教指導者のカリスマを集団構造に結びつけて分析するという試みは、いまだほとんどなされていない。また、日本の宗教集団にみられるカリスマ的構造を他の社会のそれと比較して分析するという研究もほとんどなされていない。本論文は、宗教集団においてみられるカリスマ的現象を、人物、組織、文化の多方面から、比較社会学的・宗教社会学的なアプローチを用いて分析し、「カリスマ的宗教組織」の包括的な理解を目指すものとして、カリスマ論または宗教社会学にとっての新たな視角を止揚することが期待される。

研究方法

 本論文における研究は参与観察を主な研究方法として用いている。そのほか、関連する文献や二次資料によって補われている。ここでいう参与観察とは、研究者が信者として教団の行事や活動に一定期間実際に参加することを意味する。

 ケーススタダディーとして選んだ教団は、日本の新宗教の事例として、真如苑と創価学会を取り上げ、インドネシアのスーフィズム集団の事例として、西ジャワ州に位置するスルヤラヤ教団を取り上げている。創価学会と真如苑は、信者の規模からみればそれぞれ第一位と第四位に位置する教団だが、さらに両者ともに日本の新宗教諸教団のなかで、カリスマ性に濃く彩られた教団として際立っている。また両者は互いに対照的な性格をもっており、日本のカリスマ的新宗教集団を代表する二教団といえる。すなわち一方の真如苑は、呪術的な要素を強く抱いており、他方の創価学会は、世俗的・社会運動的な性格を示している。スルヤラヤを選んだ理由は、この教団が現在インドネシアにおける最大のスーフィズム集団であるということと、リーダー(シャイフ)のカリスマ性が教団内のみならず、さまざまな社会活動を通して全国にまで影響を及ぼしているという点を考慮したからである。

 本論文ではこれらの教団をカリスマ的宗教集団の恰好な事例として取り上げているが、それらを一般化してすべての新宗教やスーフィズムにまで適用するものとみなすのではない。あくまでも個々の教団と相互の比較に焦点を当て、その範囲においてみられるカリスマ的宗教集団の原理というものを見出して抽象化し、カリスマ論ないし宗教社会学におけるモデルとして提起することを目的としている。

理論編の概要

 本論文の理論編(第一章)はウェーバーのカリスマ概念を根底から理解することからはじまり、その上で、これまで蓄積されたさまざまなカリスマ研究の成果をまとめ、本論文の構想として展開している。

 ウェーバーのカリスマ論の考察からは、およそ以下の点が掘り起こされた。すなわち、(1)社会変革の突破口としてのカリスマ、(2)カリスマ的預言者と社会層の利害関心との関連、(3)非日常性・非合理性から日常性・合理性への橋渡しをするカリスマ現象、(4)「預言者・呪術師の個人的カリスマ」対「神秘家の集団的・身分制的カリスマ」、(5)カリスマの証と有効性、(6)カリスマ関係における帰依者の信仰と情緒的行為、(7)カリスマの日常化、に関する論点である。

 カリスマ研究の考察からは、まずカリスマ概念の適用範囲(宗教・非宗教的領域)について論じた。概念の再検討と再構成に当たっては、まずShilsの「制度的・世俗的カリスマ」と「中心概念」に焦点を当てた。シルズによると、カリスマは日常社会における多様な制度、階層、職務、組織等に内在し、ある人物をこの世の最も中心的な部分と交流している者とみなす観念に拠るものだとした。またGeertzもカリスマの本質を世俗的・日常的なものに還元し、カリスマを「ことの核心」に接近している象徴ないし兆しであると論じた。こうした論点を補うかたちで、Willner & Willnerは、カリスマの実体より「関係」の側面を強調し、カリスマ的指導者が大衆を引き付けるためにしばしば用いる、中心的な象徴や神話などからなる「文化的操作」の重要性を強調した。こうした論点はさまざまなカリスマ研究者が後に展開する「カリスマを演じるための手段」と密接しており、とりわけ近代においてはマスメディアの役割が重要な意味をもつという見方が有力である。一方、同じように制度的・日常的なカリスマ論を展開したEtzioniは、組織のなかで起こるカリスマ関係に焦点を当て、権力行使と参加動機の観点から分類法を提起した。

 こうれらの論点はカリスマを構造的な側面から分析したものだが、そのほかに、カリスマのプロセスを強調した理論的視点がある。Rothのカリスマ論はカリスマを社会史学ないし発展論の立場から掘り起こそうとした古典的な理論である。それ以来、カリスマ現象は構造ではなく、一つの過程とみる考え方が定着した。Tuckerは、カリスマを運動として論じ、その発展段階を図式化した。一方、カリスマ化過程を、心理学ないし社会心理学的な観点から説明する理論も発展した。Barnesはカリスマ化過程を「脱疎外化」の過程として論じた。またLipsはカリスマ化過程を「自己スティグマ化」という概念で説明しようとした。そのほか、カリスマ化過程をめぐる理論的視点には、WilsonやBergerが提起した、「カリスマ現象の誕生と文化的に規定された諸観念との関係」という側面がある。

 ウェーバーとポスト・ウェーバーのカリスマ論を踏まえ、本論文ではカリスマを、「カリスマ化過程を経て、カリスマ的構造を形作る、一定の社会関係」と位置づけ、いくつかの論点を提起した。カリスマ的構造に関しては、(1)指導者の中心性に対する信仰、(2)中心概念と神に関わる諸観念・教義の関係、(3)社会的・文化的に構成される中心概念およびその象徴、(4)カリスマの象徴と人々の利害や苦悩との関係、(5)カリスマの演出とカリスマ的空間・磁場、(5)カリスマの象徴的操作とプロパガンダ技術、(7)カリスマ的組織における中堅幹部・管理者の役割、(8)カリスマ的組織におけるカリスマの分節化、(9)カリスマ的組織における参加の動機と吸引力、という論点を提起した。また、カリスマ化過程に関しては、(1)カリスマ構築過程としての運動と組織化、(2)カリスマの誕生と社会変動の関係、(3)カリスマ化過程の同心円型の発展、(4)カリスマ関係と社会的周縁性、(5)カリスマ関係と社会的逸脱性、(6)カリスマ化過程の社会的・文化的要素、という論点を提起した。

実例編の概要

 本論文の実例編に当たる第三章(創価学会と真如苑)と第四章(スルヤラヤ)は、理論編で提起した論点を骨格として記述・分析を展開しながら、カリスマ現象にかかわる新事実を掘り起こしている。第三章ではまず日本の新宗教に独特の諸特徴、位置づけ、組織モデル、聖・俗関係を整理し、それがどのようにカリスマ的構造と関係するのかを考察した。創価学会と真如苑のカリスマ的構造に関して特筆するべきことは二つある。一つは、中心の拠り所である。創価学会は運動そのものを組織の中心的な力としている。具体的には日々の活動や座談会等が指導者の中心性を披露する場となっている。一方の真如苑は、教義に盛り込まれて信者に浸透している霊能力を組織の核心としている。具体的には、そうした霊能力を伝授する資格や機会が指導者の中心性を披露する場となっている。いま一つは、カリスマ関係を保つための手段となる組織の分節化である。創価学会がヨコ線を基軸とした地域共同体を重視しているに対し、真如苑はタテ線を基軸とした親子関係を重視している。両教団のカリスマ化過程も、それぞれの中心性を養う過程であり、教祖・最高指導者、中堅幹部、末端信者の関係はそうした中心性を軸として展開されている。

 一方、スルヤラヤのカリスマの構造と過程に関しては、三つの際立った点がみられた。第一に、タリーカ集団のなかで成立しているカリスマ関係は、スーフィズム教義で語られるシャイフないしムルシッドの「カリスマ的概念」(奇跡、恩寵など)と指導者の位置づけ概念に多分に左右されているという点である。第二に、カリスマ的構造における、シャイフとムリッド(弟子)の直接的な関係である。すなわち修行上・瞑想上の接触である。第三に、カリスマ化過程のなかで、集団が銀河系型の集団膨張を果たすという点である。

 最後に、カリスマ化過程の総合的な考察として、カリスマ的宗教組織の社会的・文化的要素を探求した。ここでは、創価学会、真如苑、スルヤラヤにおいてみられたカリスマの構造と過程を当地域の当時の社会状況に関連するものと分析し、またより広くは、それぞれの教団が属する文化的な諸観念に根を下ろすものとみた。

審査要旨

 本論文は,宗教組織における「カリスマ」の構造と過程について,現代日本の2つの巨大な新宗教と,現代インドネシアの代表的なスーフィズム集団との重厚な事例研究を行い,これを対比して理論的な考察をも行ったものである。

 本論文は4つの章から成っている。第1章は,理論編であり,ウェーバーの宗教社会学に端を発する「カリスマ」の概念について,詳細な学説史的な検討と,この上に立つ,理論的な再構成を行っている。その要点は,「カリスマ」という現象を,指導者の「人格特性」としてとらえる従来の一般的な理解を批判的に再考し,この現象を,社会的な「関係」の現象としてとらえ返し,具体的には,「カリスマ」を存立せしめる帰依者や大衆の集団構造,およびその背後にある文化的な価値体系,信念体系により根源的な要因を見出すというものである。

 第2章,第3章は,この理論装置を用いての,日本,および,インドネシアの活発な大宗教集団の詳細な事例研究である。

 まず第2章では,現代日本の,最大の新宗教集団として創価学会,および,これとは種々の意味で対照的な,もう1つの巨大な新宗教集団として真如苑が,取り上げられる。これらについて筆者は,それぞれの教団の成立過程,カリスマ的な組織の構造,カリスマの継承と存続の機制を調査し,日々の活動や座談会等が指導者の中心性を披露する場となるという仕方で,「運動そのものを組織の中心的な力とする」創価学会と,「霊能力」を伝授する資格や機会が指導者の中心性を披露する場となるという仕方で,教義に盛り込まれて信者に浸透する「霊能力」を組織の核心とする真如苑との対照性,および,地域共同体的な「横」の関係を基軸とする創価学会と,疑似的な「親子」間の「縦」の関係にも大きな役割を与える真如苑との対照性を見出し,両教団のカリスマ化過程が,このように対照的な,教祖・最高指導者/中堅幹部/一般信者の関係の内で展開されている様相を分析している。

 第3章は,現代のインドネシアの代表的な,かつ活動的な宗教集団である,ポンドック・プサントレン・スルヤラヤ(以下スルヤラヤと略称)について,この教団の成立過程,「師匠」,「主宰者」と訳される「シャイフ」,「ムルシッド」と,「弟子」,「従者」と訳される「ムリッド」,「イクワーン」との関係におけるカリスマ的構造,「カリスマ的空間」の仕組み,「ムルシッド」のカリスマ的な正当性とその存続の機制が分析される。ここから第1に,この教団の中で成立しているカリスマ的関係が,スーフィズムの教義で語られている「シャイフ」「ムルシッド」のカリスマ的な概念(奇跡,恩寵などをめぐる諸信念)と,指導者の位置づけをめぐる観念に基礎を置くこと,第2に,「シャイフ」と「ムリッド」間の,修行,瞑想における「直接的な接触」の関係によるカリスマ的な構造の再生産と展開の機制,第3に,このようなカリスマ化過程をとおして,この集団が「銀河系型」の集団膨張を果たしてゆくダイナミズムが明らかにされる。

 第4章では,第2章,第3章,および両者の対比をふまえて,カリスマ化過程の総合的な考察として,カリスマ的な宗教組織の,マクロな社会的,文化的要因が探究される。ここでは,創価学会,真如苑,およびスルヤラヤにおいてみられるカリスマ現象の構造と過程が,日本およびインドネシアの,時代的な社会構造の文脈の中において分析され,また,それぞれの地域の文化的な諸観念の内に根を下ろすものとして把握されている。

 本論文の最大の功績は,3つの宗教集団の構造とダイナミズムについての,きわめて重厚な事例研究としてのその実質にある。とくに,インドネシアのスルヤラヤについての研究は,たんに日本には知られていないということではなく,この地域の文化に関する専門家の目から見ても,国際的にオリジナルな,第1級の調査研究といえる。日本の2つの新宗教集団については,このスルヤラヤの研究と比較するならば,日本の宗教学の専門家の目から見る時に,仏教,シャーマニズム等,その文化的伝統についての理解の深さにはなお望むべきものがあり,また,このこととも関連して,宗教としての固有の内面的なダイナミズムへの肉薄にも幾らかは物足りないものがあり,結果として,インドネシアの宗教集団をめぐる考察の「深さ」と対比すると,日本の宗教集団についての考察は,やや「外在的」な要因への「還元」による説明に偏しているように感じられる。しかし筆者の問題関心が,基本的に宗教「集団」と「組織」における,関係の構造とダイナミズムにあることを考慮に入れれば,充分にすぐれた事例研究であるということができる。筆者は,インドネシアの教団についても,日本の教団についても,対象に密着した「参与観察」の方法により,得難い具体的な事実を多く見出しながら,同時に冷静に客観的な記述と分析を行っている。

 また本論文の副次的な功績として,第1章理論編における,「カリスマ」のコンセプトをめぐる詳細な学説史的な検討と,これに立脚した,社会的,文化的な「関係」の現象としてのカリスマの,概念の理論的な再構築を挙げることができる。このカリスマの概念の理論的な再構築は,第2章以下の実際の事例研究において,(その都度に明示されていないという記述上のまずさ,あるいは謙虚さはあるが,)実質上,相当によく活かされている。さらに,筆者による,カリスマの概念のこの理論的再構成は,将来の,さまざまな分野における事例研究に,応用の可能なものであると考えられる。

 これらに対して,この論文の問題点として審査委員会において討議に付された事項は,第1に,その豊饒な事例分析をふまえた上での,理論的な「結論」というべきものが,それとして,まとまった形では,記述されていないということである。第4章は,内容的には,全体の理論的な意味での結論というよりも,第2,3章では論じえなかったマクロな要因についての補充と,やや簡単にすぎるかとおもわれる「対比」にすぎない。第2に,前述のくりかえしとなるが,インドネシアの宗教集団の考察の重厚さと対する時,日本の宗教集団の考察においては,「宗教」としての固有の内在的なダイナミズムと,その背後にある,宗教的な文化の伝統についての理解において,更になお望むべきところがあるということである。また副次的には,ギアツに対する批判の内に,失当と思われる部分のあること,すぐれたフィールド・ワークを行っていながら,調査の具体的な方法や情報のソース等についての直接的なフィールド・ノートを,かなりの部分省略した記述になっていること,等が指摘された。

 このような問題点はあるが,(1)「理論的な結論がまとまった部分としては明示されていない」ことについては,筆者の企図が,最初に理論的装置を磨いた上での,事例の調査研究自体にあったと考えられること,従って筆者なりの「結論」は,第2,3章のそれぞれの箇所において,その都度記述してあるものとして理解することも可能であること。(2)日本の宗教集団についての,文化的な伝統の理解と内面的なダイナミズムの把握においてなお望むべきもののあることについては,前述のように,本論の問題関心が,基本的には,宗教「集団」と「組織」における,関係の構造とダイナミズムにあるということ。(3)ギアツ批判の内に不適切と思われる部分のあることについては,審査委員もなお納得しえないが,本論の全体の構成の中では,きわめて部分的な問題であり,論文全体の評価を大きく変更するような欠点ではないこと。(4)調査の具体的な方法や情報のソース等についての直接的なフィールド・ノートについては,とくに「参与観察」における,いわば「調査の倫理」上差し支えない範囲において,今後刊行時等の機会に,補充する用意のあること。これらのことを考慮に入れるならば,これも前述のとおり,(1)事例研究としてきわめて重厚な具体的内実に富んでいること,特に,インドネシアの部分に関しては,国際的な水準においてオリジナルな,第1級の研究ということができるということ。(2)カリスマのコンセプトの理論的な考察と再構成は,実証研究において実質的によく活かされており,更に,今後の他の多くの実証研究にもよく活用しうる一般性をもっていること,この2つの大きな貢献を積極的な理由として,本論文は,博士(学術)学位を授与されることに値する論文であると結論する。

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