審査要旨 | | 本論文は,宗教組織における「カリスマ」の構造と過程について,現代日本の2つの巨大な新宗教と,現代インドネシアの代表的なスーフィズム集団との重厚な事例研究を行い,これを対比して理論的な考察をも行ったものである。 本論文は4つの章から成っている。第1章は,理論編であり,ウェーバーの宗教社会学に端を発する「カリスマ」の概念について,詳細な学説史的な検討と,この上に立つ,理論的な再構成を行っている。その要点は,「カリスマ」という現象を,指導者の「人格特性」としてとらえる従来の一般的な理解を批判的に再考し,この現象を,社会的な「関係」の現象としてとらえ返し,具体的には,「カリスマ」を存立せしめる帰依者や大衆の集団構造,およびその背後にある文化的な価値体系,信念体系により根源的な要因を見出すというものである。 第2章,第3章は,この理論装置を用いての,日本,および,インドネシアの活発な大宗教集団の詳細な事例研究である。 まず第2章では,現代日本の,最大の新宗教集団として創価学会,および,これとは種々の意味で対照的な,もう1つの巨大な新宗教集団として真如苑が,取り上げられる。これらについて筆者は,それぞれの教団の成立過程,カリスマ的な組織の構造,カリスマの継承と存続の機制を調査し,日々の活動や座談会等が指導者の中心性を披露する場となるという仕方で,「運動そのものを組織の中心的な力とする」創価学会と,「霊能力」を伝授する資格や機会が指導者の中心性を披露する場となるという仕方で,教義に盛り込まれて信者に浸透する「霊能力」を組織の核心とする真如苑との対照性,および,地域共同体的な「横」の関係を基軸とする創価学会と,疑似的な「親子」間の「縦」の関係にも大きな役割を与える真如苑との対照性を見出し,両教団のカリスマ化過程が,このように対照的な,教祖・最高指導者/中堅幹部/一般信者の関係の内で展開されている様相を分析している。 第3章は,現代のインドネシアの代表的な,かつ活動的な宗教集団である,ポンドック・プサントレン・スルヤラヤ(以下スルヤラヤと略称)について,この教団の成立過程,「師匠」,「主宰者」と訳される「シャイフ」,「ムルシッド」と,「弟子」,「従者」と訳される「ムリッド」,「イクワーン」との関係におけるカリスマ的構造,「カリスマ的空間」の仕組み,「ムルシッド」のカリスマ的な正当性とその存続の機制が分析される。ここから第1に,この教団の中で成立しているカリスマ的関係が,スーフィズムの教義で語られている「シャイフ」「ムルシッド」のカリスマ的な概念(奇跡,恩寵などをめぐる諸信念)と,指導者の位置づけをめぐる観念に基礎を置くこと,第2に,「シャイフ」と「ムリッド」間の,修行,瞑想における「直接的な接触」の関係によるカリスマ的な構造の再生産と展開の機制,第3に,このようなカリスマ化過程をとおして,この集団が「銀河系型」の集団膨張を果たしてゆくダイナミズムが明らかにされる。 第4章では,第2章,第3章,および両者の対比をふまえて,カリスマ化過程の総合的な考察として,カリスマ的な宗教組織の,マクロな社会的,文化的要因が探究される。ここでは,創価学会,真如苑,およびスルヤラヤにおいてみられるカリスマ現象の構造と過程が,日本およびインドネシアの,時代的な社会構造の文脈の中において分析され,また,それぞれの地域の文化的な諸観念の内に根を下ろすものとして把握されている。 本論文の最大の功績は,3つの宗教集団の構造とダイナミズムについての,きわめて重厚な事例研究としてのその実質にある。とくに,インドネシアのスルヤラヤについての研究は,たんに日本には知られていないということではなく,この地域の文化に関する専門家の目から見ても,国際的にオリジナルな,第1級の調査研究といえる。日本の2つの新宗教集団については,このスルヤラヤの研究と比較するならば,日本の宗教学の専門家の目から見る時に,仏教,シャーマニズム等,その文化的伝統についての理解の深さにはなお望むべきものがあり,また,このこととも関連して,宗教としての固有の内面的なダイナミズムへの肉薄にも幾らかは物足りないものがあり,結果として,インドネシアの宗教集団をめぐる考察の「深さ」と対比すると,日本の宗教集団についての考察は,やや「外在的」な要因への「還元」による説明に偏しているように感じられる。しかし筆者の問題関心が,基本的に宗教「集団」と「組織」における,関係の構造とダイナミズムにあることを考慮に入れれば,充分にすぐれた事例研究であるということができる。筆者は,インドネシアの教団についても,日本の教団についても,対象に密着した「参与観察」の方法により,得難い具体的な事実を多く見出しながら,同時に冷静に客観的な記述と分析を行っている。 また本論文の副次的な功績として,第1章理論編における,「カリスマ」のコンセプトをめぐる詳細な学説史的な検討と,これに立脚した,社会的,文化的な「関係」の現象としてのカリスマの,概念の理論的な再構築を挙げることができる。このカリスマの概念の理論的な再構築は,第2章以下の実際の事例研究において,(その都度に明示されていないという記述上のまずさ,あるいは謙虚さはあるが,)実質上,相当によく活かされている。さらに,筆者による,カリスマの概念のこの理論的再構成は,将来の,さまざまな分野における事例研究に,応用の可能なものであると考えられる。 これらに対して,この論文の問題点として審査委員会において討議に付された事項は,第1に,その豊饒な事例分析をふまえた上での,理論的な「結論」というべきものが,それとして,まとまった形では,記述されていないということである。第4章は,内容的には,全体の理論的な意味での結論というよりも,第2,3章では論じえなかったマクロな要因についての補充と,やや簡単にすぎるかとおもわれる「対比」にすぎない。第2に,前述のくりかえしとなるが,インドネシアの宗教集団の考察の重厚さと対する時,日本の宗教集団の考察においては,「宗教」としての固有の内在的なダイナミズムと,その背後にある,宗教的な文化の伝統についての理解において,更になお望むべきところがあるということである。また副次的には,ギアツに対する批判の内に,失当と思われる部分のあること,すぐれたフィールド・ワークを行っていながら,調査の具体的な方法や情報のソース等についての直接的なフィールド・ノートを,かなりの部分省略した記述になっていること,等が指摘された。 このような問題点はあるが,(1)「理論的な結論がまとまった部分としては明示されていない」ことについては,筆者の企図が,最初に理論的装置を磨いた上での,事例の調査研究自体にあったと考えられること,従って筆者なりの「結論」は,第2,3章のそれぞれの箇所において,その都度記述してあるものとして理解することも可能であること。(2)日本の宗教集団についての,文化的な伝統の理解と内面的なダイナミズムの把握においてなお望むべきもののあることについては,前述のように,本論の問題関心が,基本的には,宗教「集団」と「組織」における,関係の構造とダイナミズムにあるということ。(3)ギアツ批判の内に不適切と思われる部分のあることについては,審査委員もなお納得しえないが,本論の全体の構成の中では,きわめて部分的な問題であり,論文全体の評価を大きく変更するような欠点ではないこと。(4)調査の具体的な方法や情報のソース等についての直接的なフィールド・ノートについては,とくに「参与観察」における,いわば「調査の倫理」上差し支えない範囲において,今後刊行時等の機会に,補充する用意のあること。これらのことを考慮に入れるならば,これも前述のとおり,(1)事例研究としてきわめて重厚な具体的内実に富んでいること,特に,インドネシアの部分に関しては,国際的な水準においてオリジナルな,第1級の研究ということができるということ。(2)カリスマのコンセプトの理論的な考察と再構成は,実証研究において実質的によく活かされており,更に,今後の他の多くの実証研究にもよく活用しうる一般性をもっていること,この2つの大きな貢献を積極的な理由として,本論文は,博士(学術)学位を授与されることに値する論文であると結論する。 |