学位論文要旨



No 112296
著者(漢字) 工,亜紀
著者(英字)
著者(カナ) タクミ,アキ
標題(和) 我が国の家庭犬の攻撃性の発達要因に関する研究
標題(洋)
報告番号 112296
報告番号 甲12296
学位授与日 1997.03.03
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1729号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 畜産獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 林,良博
 東京大学 教授 高橋,英司
 東京大学 教授 菅野,茂
 東京大学 助教授 森,裕司
内容要旨

 近年、我が国でも犬の飼育頭数が増えており、現在我が国に飼育される犬は数百万頭規模と見積もられている。これらのほとんどは、家族の一員として飼い主の精神生活をより豊かにすることを主な目的に飼育されている。これらの家庭犬に時として発生する各種の問題行動(Behaviour problem)が近年注目されている。犬の問題行動とは、飼い主が容認できない、あるいは、犬自身に傷害を与えるような行動と定義され、これらの中で、攻撃性が最も頻度が高いと考えられている。飼い主に対する攻撃性は、飼い主と犬の良好な関係を損ない、犬とともに生活する楽しみを減らしたり奪ったりする。また、犬の高い攻撃性が飼い主以外の人や動物に向けられた場合には、地域社会にとっての脅威ともなり、1980年代後半から1990年代初頭には英米を中心に大きな社会問題となった。日本においても、最近、飼い主に対する犬の攻撃性が各種メディアで盛んに取り上げられており、また、本学付属家畜病院における飼い主からの質問も多く、飼い主に対する攻撃性の問題を持つ犬は潜在的にかなり多数いるのではないかと推測される。また、犬による咬傷事故も毎年全国で多数報告されており、大多数は軽微な被害といえども、重傷および死亡事故も後を絶たない。このように、我が国においても、家庭犬の攻撃性は、現代社会の中で人と犬との良好な関係を模索する上で重要な研究課題と考えられるが、このテーマに関する科学的・実証的研究は過去にほとんど行われていない。

 本研究では、我が国の家庭犬の攻撃性の実態を把握し、攻撃性の発達に影響を与える要因を同定することを目的に、犬の飼い主を対象とした質問紙調査を行った。

 本調査のために2部構成の質問紙を作成した。第I部では、犬の攻撃性の発達に影響を与える可能性のある環境要因について情報を得ることを目的に、犬の入手先、飼育目的、入手時の犬の年齢、飼い主の家族構成、住居タイプ、犬を飼っている場所、散歩の回数と時間、食餌、飼い主や家族に対する犬の攻撃性の発達に影響すると一般にいわれている、飼い主の犬への対応の仕方(寝るとき犬の方が飼い主より頭や体の位置が高くなるか、飼い主と犬のどちらが先に食事をするか、飼い主が食事中に犬に食卓の食べ物を与えるか、犬と一緒にドアを通るとき飼い主と犬のどちらが先に通るか、犬が飼い主の行く手をふさいでいたらどかすかなど)、服従訓練の有無などについて質問した。第II部では、犬の攻撃性についてさらに2部に分けて尋ねた。前半では、飼い主や家族に対するDominance aggressionの起こりうる典型的な場合を10通り挙げ(犬が食べているとき近づく;犬の食器にさわる;食器を取り上げる:寝ているのを起こす;いる場所からどかす;くわえているものや前足の間こ持っているものを取り上げる;なでる:ブラシをかける;しっぽや背中など特定の場所をさわる;叱る)、それぞれの場合に犬が攻撃行動(うなる、歯をむく、咬むのいずれか)を示したことがあるかどうかを尋ねた。また、後半では、Dominance aggression以外の攻撃性の起こり得る7つの異なる状況を挙げ、言葉で表現された直線スケール上の両極端の間のどこかに○印を付ける(攻撃性の程度を示す)ことによって、飼い主に犬の攻撃性を評価させた。

 国内各地の個人の動物病院および大学付属家畜病院を通じて一般の犬の飼い主に配布した質問紙のうち約38.3%に当たる1491部が記入回収され、そのうち誤記入などを除いた1168部(全て異なる飼い主が記入したもの)について解析を行った。全1168頭中、純粋種は63犬種を含む897頭(76.8%)、雑種は262頭(22.4%)で、犬種不明は9頭であった。純粋種ではシーズー(118頭)の頻度が最も高く、次が柴犬(80頭)で、ゴールデンレトリーバーとマルチーズが同数(76頭)でこれに次いだ。犬種の用途による犬種グループ(シープドッグ、トイ・コンパニオン、テリア、スポーティング、ハウンド、ガーディング・ワーキング、日本犬種、雑種)別では、トイ・コンパニオングループが385頭で最も多く、次いで雑種が262頭、スポーティンググループが124頭の順で、ガーディング・ワーキンググループは最も少なく52頭であった。サイズ別では、大型犬(純粋大型犬種および成熟体重30kg以上の雑種)が167頭(14.5%)、中型犬(純粋中型犬種および成熟体重10kg以上30kg未満の雑種)が322頭(28.0%)、小型犬(純粋小型犬種および成熟体重10kg未満の雑種)が662頭(57.5%)であった。雑種犬はその80%が中型犬に分類された。サイズカテゴリー間には、犬種構成だけでなく攻撃性の発達に影響を与える可能性のある数多くの環境要因に関して有意差が認められたため、攻撃性と環境要因の関係の解析は各サイズカテゴリーごとに行うこととした。

 調査した犬1168頭のうち、61.0%におよぶ713頭が、前述の各場合のいずれかにDominance aggressionを示した。攻撃性を示したことのある犬の割合はサイズカテゴリー間で有意差があり、小型犬で最も高く69.5%、大型犬で最も低く35.3%で、中型犬でその中間(56.8%)であった。攻撃性を示した場合についてみると、最高が「くわえているものや、前足の間に持っているものを取り上げようとしたとき」の42.6%、最低が「なでたとき」の11.3%、と幅があった。また、攻撃性を示したことのある犬は、全てのDominance aggressionに共通して大型犬に有意に少なく、概して小型犬に有意に多かった。一方、それらの中で、餌を食べているときの飼い主や家族に対する攻撃性は、中型犬に有意に多いという結果であった。また、Dominance aggression以外の攻撃性については、遊ぶときの攻撃性と捕食性攻撃性以外の5つ全てについて、大型犬のスコアは中型犬、小型犬に比べて有意に低かった。

 トイ種においてDominance aggressionの頻度が高いことは最近の海外の研究で指摘されている。そこでは、トイ種の育種目的の1つが人との社会的相互作用に深く関わることであり、人への社会性を高める方向で選択交配されてきた結果、人との間に社会的対立も起こしやすくなっているためと考察されている。本研究の犬種グループ間の比較でも、トイ・コンパニオングループは、前述のDominance aggressionの起こり得る場合のうち8つで、攻撃性を示した事例が有意に多かったことは、その考えを支持するものと思われた。

 これらのDominance aggressionと飼い主の対応との関係の解析では、大型犬および中型犬においては有意な関係はほぼ皆無であったが、小型犬においては多くの有意な関係が認められた。すなわち、寝るとき犬の方が飼い主より頭や体の位置が高くなる、飼い主や家族の食事の前に犬に餌を与える、飼い主が食事中に犬に食卓の食べ物を与える、犬が飼い主の行く手をふさいでいてもどかさない、家庭において服従訓練をしていない、などと回答した飼い主の犬は、そうでない飼い主の犬に比べ、前述のDominance aggressionの起こりうる場合の多くで、飼い主や家族に対して攻撃性を示した事例が有意に多かった。

 一般的飼育環境と攻撃性の間の有意な関係は比較的少なく、そのほとんどは解釈が容易ではなかった。雌雄間の比較では、Dominance aggressionを示したことのある犬は雄犬に有意に多く、また、それ以外の攻撃性でも、多くの場合で、雄犬の方が雌犬よりも攻撃性が有意に高かった。性別と攻撃性に関するこれらの結果は、多くの従来の臨床的研究の結果と一致するものであった。

 犬を飼い始めた目的として「番犬として」を挙げた飼い主の犬は、知らない人が家に近づいてくるときの攻撃性が有意に高かった。屋外飼育の犬のみの解析でも、犬種をある程度限定しての解析でもこの有意差は保存されたことから、犬に番犬としての役割を期待する飼い主は、家に近づいてくる知らない人に対する犬の攻撃性を何らかの形で助長している可能性が示唆された。

 また、Dominance aggressionを示したことのある犬とない犬をそれ以外の攻撃性について比較したところ、全てのサイズカテゴリーで有意差が認められ、Dominance aggressionを示したことのある犬の方が、それ以外の攻撃性も有意に高いという、過去の研究では報告されたことのない結果が得られた。

 本研究の結果、従来科学的根拠を欠いたまま、犬のDominance aggressionの原因になるといわれてきた、犬に対する飼い主の対応や服従訓練が、実際にDominance aggressionの発達要因である可能性が示された。同時に、そのような要因の影響は、もっぱら小型犬において認められたことから、Dominance aggressionの発達には遺伝的要因と環境要因の相互作用が重要な役割を持つことが示唆された。また、特定の飼育目的と犬の攻撃性の間に関係が認められ、飼い主の態度が犬の攻撃性の発達要因になり得る証拠が得られた。

審査要旨

 近年、我が国でも犬の飼育頭数が増えており、現在我が国に飼育される犬は数百万頭と見積もられている。これらのほとんどは、家族の一員として飼い主の精神生活をより豊かにすることを主な目的に飼育されている。これらの家庭犬に時として発生する各種の問題行動(Behaviour problem)が近年注目されているが、中でも攻撃性が最も深刻であると思われる。家庭犬の攻撃性は、現代社会の中で人と犬との良好な関係を模索する上で重要な研究課題と考えられるが、このテーマに関する科学的・実証的研究は過去にほとんど行われていない。

 本研究では、我が国の家庭犬の攻撃性の実態を把握し、攻撃性の発達に影響を与える要因を同定することを目的に、犬の飼い主を対象としたII部構成の質問紙調査を行った。第I部では、犬の攻撃性の発達に影響を与える可能性のある環境要因について情報を得ることを目的に、犬の概要や飼育目的、入手先、一般的飼育環境の他、最も頻度が高いと考えられる飼い主や家族に対する犬のDominance aggression(優越性攻撃)の発達に影響すると一般にいわれている、飼い主の犬への対応の仕方、服従訓練の有無などについて尋ねた。第II部前半では、Dominance aggressionの起こりうる典型的な場合を10通り挙げ(犬が食べているとき近づく;犬の食器にさわる;食器を取り上げる;寝ているのを起こす;いる場所からどかす;くわえているものや前足の間に持っているものを取り上げる;なでる;ブラシをかける;しっぽや背中など特定の場所をさわる;叱る)、それぞれの場合に犬が攻撃性(うなる、歯をむく、咬むのいずれか)を示したことがあるか否か尋ねた。また、第II部後半では、7つの異なる状況での犬のDominance aggression以外の攻撃性の高さを評価させた。

 国内各地の犬の飼い主から得られた1,168部(飼い主は全て異なる)について解析をした。調査した犬のうち、純粋種は63犬種897頭、雑種は262頭であった。サイズカテゴリー別では、大型犬が167頭、中型犬が322頭、小型犬が662頭であった。攻撃性の発達に影響を与える可能性のある環境要因に関してはサイズカテゴリー間に多くの有意差が認められたため、これらの点の関係の解析は各サイズカテゴリーごとに行うこととした。

 その結果、713頭(61.0%)が、前述の10通りのいずれかに攻撃性を示した。この攻撃性にはサイズカテゴリー間で有意差があり、小型犬で最も多く、大型犬で最も少なく、中型犬でその中間であった。大型犬および中型犬においては、飼い主の対応や服従訓練とDominance aggressionとの間に有意な関係はほぼ皆無であった。しかし、小型犬においては、寝るとき犬の方が飼い主より頭や体の位置が高くなる、飼い主や家族の食事の前に犬に餌を与える、飼い主が食卓の食べ物を犬に与える、家庭で服従訓練をしていない、などと回答した飼い主の犬は、そうでない飼い主の犬に比べ、前述のDominance aggressionの起こりうる場合の多くで、攻撃性を示した事例が有意に多かった。

 最近の海外の研究で、トイ種における高いDominance aggressionの頻度は、トイ種の育種目的の1つが人との社会的相互作用に深く関わることであり、その結果、人との間に社会的対立も起こしやすいのではないかという報告がなされている。本研究でも、トイ・コンパニオングループは、この攻撃性を示した事例が有意に多かったこと、および、飼い主の対応とDominance aggressionの間の有意な関係が、トイ種を主体とする小型犬においてもっぱら認められたことは、その考えを支持するものと思われた。さらに、犬のDominance aggressionの原因になるといわれてきた、犬を優先したり甘やかしたりするような飼い主の対応や服従訓練の欠如が、実際にDominance aggressionの発達につながる可能性が示された。同時に、Dominance aggression以外の攻撃性は、Dominance aggressionを示す犬で有意に高いことも認められ、両者の発達には何らかの関連があることが示された。

 以上要するに、本研究は、従来明らかではなかった我が国の家庭に飼育される犬の問題行動の実態を把握し、その発達要因を解明したものであり、今後のこの分野の発展に多大な貢献を果たすものである。よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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