素粒子の標準理論を越える現象の探索を目的に神岡鉱山の地下1000mのトンネル内に大型水チェレンコフ検出器"KAMIOKANDE(神岡核子崩壊実験)"が建設され、素粒子物理学に関して多くの成果が得られている。この検出器により大気中の高エネルギーニュートリノの観測も精力的に行なわれ興味ある結果が得られた。大気中の高エネルギーニュートリノの殆んどは高エネルギー一次宇宙線(主に陽子)と大気中の原子核(酸素、窒素等)との核衝突で生成される荷電中間子やK中間子の崩壊によって作られる。そして、この過程で作られる粒子型ニュートリノと電子型ニュートリノの強度の比はほぼ2:1になることが知られている。しかし、これまでのKAMIOKANDEの実験結果は粒子型ニュートリーノの強度が期待値に比べて統計的に有意に少ないことを示している。この結果は、いわゆる"大気ニュートリノの異常性"と呼ばれ、その起源についていろいろな角度から検討が行なわれている。この実験結果の信頼度は大気ニュートリノが水チェレンコフ検出器中でつくる粒子及び電子の粒子識別能力の精度に大きく依存している。 本論文は、KAMIOKANDEと同型の1-ktonの水チェレンコフ検出器を製作し、これを高エネルギー物理研究所の加速器ビームに照射して電子及び粒子の識別能力等水チェレンコフ検出器の応答特性を研究し、これからKAMIOKANDEで観測されている大気ニュートリノの実験データに含まれる系統誤差の大きさを実験的に評価したものである。 本論文は8章からなり、第1章は大気ニュートリノ実験の概要およびKEK PS-E261a実験の目的、第2章はカミオカンデの概要、第3章は、実験装置の説明、第4章は、検出器の較正方法、第5章は、事象の選別手順、第6章は、実験結果、第7章は、実験結果についての議論、第8章は、結論について述べている。 大気ニュートリノの強度を計算値(モンテカルロ計算)と比較する場合、一次宇宙線及び計算の不確定性を相殺するため、次の式(1)で定義される2種類のニュートリノの強度の比を用いて行なわれている。 ここで、(/e)Dataは強度比の実験結果、(/e)MCは理論計算の期待値である。この比の値(R)は1となるはずであるが、実験結果は0.6となっている。この最も有力な解釈は大気を伝播中に粒子型ニュートリノが他のフレバー粒子に転換し、その結果として粒子型ニュートリノの欠損が起こっているとすることである。すなわち、ニュートリノが質量を持ち、その質量の固有状態が非縮退でかつ弱い相互作用の固有状態に有限の混合が存在する場合、異なったニュートリノのフレバー間での振動が起こると言われている。したがって、この実験結果が正しいと確認されると、これは標準理論を越える新しい現象の大きな発見となる。これまで行なわれた大気ニュートリノの実験によると、粒子型と電子型の比は、水チェレンコフ型検出器(KAMIOKANDE及びIMB)では統計的に有意な異常が観測されている。鉄カロリーメータ実験のSOUDAN-IIでも統計的に有意ではないが異常が見られている。しかし、他の鉄カロリーメータの実験(NUSEX及びFrejus)では異常が見られていないが、統計量が不十分である。今まで水チェレンコフ型検出器の応答特性(特に粒子識別性能)は主に計算機シミュレーションにより詳しく調べられているが、実際に電子または粒子を検出器に打ち込んでその識別能力を調べられたことが無く、これがチェレンコフ検出器の実験結果の問題点として指摘されていた。本実験の主な目的は水チェレンコフ型検出器の応答特性を実験的に調べることであり、その為にKAMIOKANDEと同じ構造と性能を持つ1-ktonの水チェレンコフ型検出器を製作し、これを高エネルギー物理研究所の12GeV陽子加速器からの電子及び粒子ビームに照射した。実験は1994年の3月と5月の2回に分て行なわれた。 第2章では、カミオカンデ実験の概要、検出器そして解析方法について述べている。特に、本実験で照射した粒子ビームのエネルギー(電子100MeV/c-1000MeV/c,粒子250MeV/c-1000MeV/c)は、Sub-GeVと呼ばれる大気ニュートリノ事象の観測が行なわれたエネルギー領域(電子100MeV/c-1330MeV/c,粒子200MeV/c-1500MeV/c)をほぼカバーしている。 第3章では、ビームライン及び検出器について述べられている。すなわち高エネルギー物理学研究所12GeV陽子加速器から、K6ビームラインをへて1-kton水チェレンコフ型検出器に粒子を打ち込むまでの概要とビームライン上に設置されたTOF(Time Of Flight)カウンター、トリガー・カウンター、ガス・チェレンコフ・カウンターについて、及び、1-kton水チェレンコフ型検出器のデータ収集システムについて述べている。また、ニュートリノ反応は、KAMIOKANDE検出器内のいろいろな場所で起こることを考慮して、粒子を3月は検出器内の4箇所から、そして5月は10箇所からビームを打ち込んだ。 第4章では、検出器の較正方法について述べている。すなわち、光電子増倍管の相対利得、絶対利得、及び時間と光量の補正方法、及び水の透過率の較正方法について述べている。 第5章では、実際に取得した事象の選別手順について述べている。地上実験であるために避けることの出来ない背景宇宙線粒子や、ビームの広がりにより検出器入射前にビームパイプ等途中の物質と相互作用した粒子の除去の方法、解析対象となる現象の選別条件、方法について述べている。 第6章では、実際のデータの解析結果を示している。本実験では、入射荷電粒子の種類と運動量が分かっているので、この実験データから、粒子の識別能力、エネルギー分解能、粒子発生点の決定精度についてモンテカルロ法に基づくKAMIOKANDEの解析手法について評価が行なわれている。モンテカルロ法に基づくKAMIOKANDEの解析手法が実験データを良く再現していることを示している。 第7章では、前章の結果を用いて大気ニュートリノ観測の系統誤差の大きさを見積っている。粒子識別能力について評価されているKAMIOKANDEの系統誤差の大きさは、実験条件の違いを考慮すると、この実験から期待されるものとほぼ一致することが確かめられた。さらに、本実験によって実験的に可能なその他の系統誤差についてもその大きさが見積もられている。本実験により得られた全体の系統誤差の大きさは3月のデータについては12%、5月については9%と評価され、KAMIOKANDEで観測された大気ニュートリノの異常性は検出器の系統誤差に因るものでないと結論している。最後に、この実験からこの系統誤差は光電子増倍管の光の検出に対する方向依存性を考慮することによりさらに小さく出来ることが指摘されている。 第8章では、この実験の結論を述べている。 以上のように、水チェレンコフ検出器KAMIOKANDEで観測された大気ニュートリノの異常現象は物理的過程によるものであることが本実験により確認され,これは素粒子物理学に大きく貢献するものである。したがって、審査員一同は本論文が理学博士の学位論文として合格であると判定した。なお、本論文の実験は、KEK PS-E261aの日本側グループの実験であるが論文提出者が主体となって解析を行なったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断した。また、共同研究者全員から論文内容の結果を学位論文として提出することについて了承を得ているものであることを確認した。 |