学位論文要旨



No 112297
著者(漢字) 酒井,敦
著者(英字)
著者(カナ) サカイ,アツシ
標題(和) 水チェレンコフ検出器の特性の研究及び大気ニュートリノ異常について
標題(洋) Study on the Properties of a Water Cerenkov Detector and the Atmospheric Neutrino Anomaly
報告番号 112297
報告番号 甲12297
学位授与日 1997.03.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3134号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 湯田,利典
 東京大学 教授 小林,富雄
 東京大学 教授 杉本,章一郎
 東京大学 助教授 坪野,公夫
 東京大学 助教授 蓑輪,眞
内容要旨

 大気ニュートリノはミューニュートリノと電子ニュートリノの総称であり、その殆んどは地球に入射する高エネルギー一次宇宙線(主に陽子)と大気中の原子核(酸素、窒素等)との核相互作用で発生する荷電中間子やK中間子の崩壊過程で生成される。この大気ニュートリノの存在は1960年代に予言されたが、その検出の難しさから1971年に初めて実験的に確認された。1980年代になると、素粒子の大統一理論が予言する核子の崩壊現象の探索を目指して地下に大型検出器が建設され、もっぱら核子崩壊現象のバックグラウンドの研究として大気ニュートリノの研究が行なわれるようになった。これにともなって大気ニュートリノの詳しい計算が多くの研究者により行なわれている。いずれの計算も大気中のミューニュートリノと電子ニュートリノの比の値は約2:1であると予言している。そして、この比の値は理論計算に用いる核相互作用、一次宇宙線の組成、強度を変えても5%程度しか変化しないことが確かめられている。従って、この実験値が理論計算の予測と大きく異なる場合は、他の物理過程を考える必要がある。1988年にKAMIOKANDEグループにより、この比の値が理論計算より有意に小さいことが報告された。その後、水チェレンコフ検出器を用いたIMB-3実験でも同じ結果が報告されている。他方、鉄カロリメータを用いたNUSEXやFrejusグループは理論値にほぼ等しい結果を報告している。もしKAMIOKANDEの結果が正しいとすると一つの有力な解釈はニュートリノが有限の質量を持ち、ミューニュートリノの一部が異なるフレバーをもつ別のニュートリノに途中で転換(ニュートリノ振動)しているとすることである。これはニュートリノの質量をゼロと予言する現在の素粒子の標準理論の枠内では説明不可能であり、これが確認されると標準理論を越える新しい現象の発見となる。このため、大気ニュートリノの研究は新しい理論の展開を示唆する可能性を持った重要な研究であり、いろいろな角度から研究が進められている。

 KAMIOKANDEの水チェレンコフ型検出器は荷電粒子が水中で発生するチェレンコフ光を光電子増倍管で検出しそのリング状パターンから粒子の検出、識別を行なっている。ニュートリノの荷電カレント反応がレプトンの種類を保存する性質を利用してニュートリノの種類を識別することができる。例えば、KAMIOKANDEで使用されているモンテカルロコードを用いると1リングのイベントの内荷電カレント反応起源の割合は94%以上である。神岡の水チェレンコフ観測装置では、この性質を用いて同じ世代数の荷電レプトン(電子及びミュー粒子)の1リングイベントを解析し、ニュートリノ種類の識別を行なっている。それに対して、鉄等のカロリーメータを使った実験では、高エネルギー実験の伝統的な方法である電磁シャワーの発達の違いによって粒子を識別している。ここで問題となるのは実験結果が理論値から有意にずれていると主張する2つのグループ(KAMIOKANDE,IMB-3)は、水チェレンコフ型検出器を用いて測定を行なっているが、同検出器の基本性能である粒子の識別はモンテカルロ計算に基づいて行なわれているのみで、実際に種類と運動量の分かった粒子を検出器に打ち込んでその粒子識別能力等応答特性を実験的に調べていないことであった。そこで、水チェレンコフ検出器における粒子識別法を実験的に検証するため、本研究計画を立案し実施した。

 実験の概要は以下の通りである。つくばにある高エネルギー物理学研究所にKAMIOKANDEを縮小し、かつこれと同性能を持つ1000トンの水チェレンコフ型検出器を設置した。この検出器に対して、同研究所の12GeV陽子加速器からのビームを標的に当てて、最終的にミュー粒子及び電子を発生させた。ビームライン上の電磁石により粒子の運動量を選択し、TOF(time-of-flight)カウンターにより飛行時間を計測して粒子の種類を同定した。この方法で種類と運動量の分かった粒子を水チェレンコフ型検出器に入射してチェレンコフ光を発生させて検出器の応答性能を調べた。なお各ビームの運動量は、電子に対して100MeV/cから1000MeV/cまで、ミュー粒子に対しては250MeV/cから1000MeV/cまで変化させた。この運動量領域は、KAMIOKANDEで観測されているSub-GeVと呼ばれる大気ニュートリノの運動量領域(電子の運動量が100MeV/cから1330MeV/cまで、ミュー粒子の運動量が200MeV/cから1500MeV/cまで)をカバーしている。また、ニュートリノは水チェレンコフ型検出器内の様々の場所で反応することを考慮して、検出器内でビームを異なる10箇所から入射させた。

 本実験は、1994年3月及び5月に行なわれた。3月のランで取得されたデータに対しては、KAMIOKANDEで用いられている解析手法をそのまま適用して粒子識別能力の検定を行ないモンテカルロの期待値とほぼ一致する結果を得た。5月のデータに関しては水中の光の散乱がKAMIOKANDEのモンテカルロの期待値に比べて大きかったため、光の散乱量を実際のデータと合うように調整したのち解析を行なった。その結果、粒子識別に対する系統誤差の大きさはKAMIOKANDEの見積値(4%)より、少し大きい値(5%)を得た。この違いは水の純度の違いだけでは説明出来なかったが、モンテカルロ計算は実際のデータを良く再現することが確かめられた。従って、水の条件を同じにすれば粒子の識別能力はKAMIOKANDEと同じ結果が得られることが確かめられた。

 加速器実験では、粒子の種類と運動量が分かっているため水チェレンコフ型検出器について粒子のエネルギーの決定精度、エネルギー分解能及び事象発生点決定精度についても詳しいデータを得ることができる。これら検出器の分解能は大気ニュートリノ観測における系統誤差を調べるために重要である。まず、1GeV/cの電子ビームを用いて絶対エネルギーの較正を行なった。この結果をKAMIOKANDEで使われている突き抜けミュー粒子によるエネルギーの較正法から期待値される値と比較することにより、KAMIOKANDEのエネルギー決定に対する系統誤差の評価値1%は適切であることが分かった。また、電子及びミュー粒子の各々に対するエネルギーの決定精度についても調べ、KAMIOKANDEではどちらかの粒子だけ系統的にエネルギーを高く見積もっていることはないことが確認された。

 次に、エネルギー決定の分解能について検討を行なった。実験はモンテカルロ計算に比べて悪い結果を与えたが、その違いの大気ニュートリノの実験結果に与える影響は無視できるほど小さいことが確認された。

 最後に、事象発生点分布であるが、この実験で得られた系統誤差は神岡で用いている誤差の範囲内に収まらなかったものの(良い場合1%、悪い場合8%)、光電子増倍管における時間応答性能の不均一性を丁寧に評価し直すことにより、KAMIOKANDEで見積もっている系統誤差(1%)は達成できると考えられる。

 以上の検証により、荷電粒子に対する水チェレンコフ検出器の応答特性については我々の期待どうりの結果を得ることが出来た。これらの結果を総合すると、KAMIOKANDEのモンテカルロ計算に基づいて得られた系統誤差の大きさは大筋で正しいことが実験的に確認された。これから、KAMIOKANDEの実験データが示唆するミューニュートリノ欠損の原因は水チェレンコフ検出器の応答特性に起因するものではないと結論することが出来る。

 また本実験の解析から、水チェレンコフ検出器に対して以下の2点を考慮する必要があることが分かった。

 ・5月のデータの解析により、水の透過長及び散乱量のモニターは、水チェレンコフ型検出器において重要である。

 ・系統誤差を減少するためには、光電子増倍管の光の検出に対する方向依存性を考慮する必要がある。

審査要旨

 素粒子の標準理論を越える現象の探索を目的に神岡鉱山の地下1000mのトンネル内に大型水チェレンコフ検出器"KAMIOKANDE(神岡核子崩壊実験)"が建設され、素粒子物理学に関して多くの成果が得られている。この検出器により大気中の高エネルギーニュートリノの観測も精力的に行なわれ興味ある結果が得られた。大気中の高エネルギーニュートリノの殆んどは高エネルギー一次宇宙線(主に陽子)と大気中の原子核(酸素、窒素等)との核衝突で生成される荷電中間子やK中間子の崩壊によって作られる。そして、この過程で作られる粒子型ニュートリノと電子型ニュートリノの強度の比はほぼ2:1になることが知られている。しかし、これまでのKAMIOKANDEの実験結果は粒子型ニュートリーノの強度が期待値に比べて統計的に有意に少ないことを示している。この結果は、いわゆる"大気ニュートリノの異常性"と呼ばれ、その起源についていろいろな角度から検討が行なわれている。この実験結果の信頼度は大気ニュートリノが水チェレンコフ検出器中でつくる粒子及び電子の粒子識別能力の精度に大きく依存している。

 本論文は、KAMIOKANDEと同型の1-ktonの水チェレンコフ検出器を製作し、これを高エネルギー物理研究所の加速器ビームに照射して電子及び粒子の識別能力等水チェレンコフ検出器の応答特性を研究し、これからKAMIOKANDEで観測されている大気ニュートリノの実験データに含まれる系統誤差の大きさを実験的に評価したものである。

 本論文は8章からなり、第1章は大気ニュートリノ実験の概要およびKEK PS-E261a実験の目的、第2章はカミオカンデの概要、第3章は、実験装置の説明、第4章は、検出器の較正方法、第5章は、事象の選別手順、第6章は、実験結果、第7章は、実験結果についての議論、第8章は、結論について述べている。

 大気ニュートリノの強度を計算値(モンテカルロ計算)と比較する場合、一次宇宙線及び計算の不確定性を相殺するため、次の式(1)で定義される2種類のニュートリノの強度の比を用いて行なわれている。

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 ここで、(/e)Dataは強度比の実験結果、(/e)MCは理論計算の期待値である。この比の値(R)は1となるはずであるが、実験結果は0.6となっている。この最も有力な解釈は大気を伝播中に粒子型ニュートリノが他のフレバー粒子に転換し、その結果として粒子型ニュートリノの欠損が起こっているとすることである。すなわち、ニュートリノが質量を持ち、その質量の固有状態が非縮退でかつ弱い相互作用の固有状態に有限の混合が存在する場合、異なったニュートリノのフレバー間での振動が起こると言われている。したがって、この実験結果が正しいと確認されると、これは標準理論を越える新しい現象の大きな発見となる。これまで行なわれた大気ニュートリノの実験によると、粒子型と電子型の比は、水チェレンコフ型検出器(KAMIOKANDE及びIMB)では統計的に有意な異常が観測されている。鉄カロリーメータ実験のSOUDAN-IIでも統計的に有意ではないが異常が見られている。しかし、他の鉄カロリーメータの実験(NUSEX及びFrejus)では異常が見られていないが、統計量が不十分である。今まで水チェレンコフ型検出器の応答特性(特に粒子識別性能)は主に計算機シミュレーションにより詳しく調べられているが、実際に電子または粒子を検出器に打ち込んでその識別能力を調べられたことが無く、これがチェレンコフ検出器の実験結果の問題点として指摘されていた。本実験の主な目的は水チェレンコフ型検出器の応答特性を実験的に調べることであり、その為にKAMIOKANDEと同じ構造と性能を持つ1-ktonの水チェレンコフ型検出器を製作し、これを高エネルギー物理研究所の12GeV陽子加速器からの電子及び粒子ビームに照射した。実験は1994年の3月と5月の2回に分て行なわれた。

 第2章では、カミオカンデ実験の概要、検出器そして解析方法について述べている。特に、本実験で照射した粒子ビームのエネルギー(電子100MeV/c-1000MeV/c,粒子250MeV/c-1000MeV/c)は、Sub-GeVと呼ばれる大気ニュートリノ事象の観測が行なわれたエネルギー領域(電子100MeV/c-1330MeV/c,粒子200MeV/c-1500MeV/c)をほぼカバーしている。

 第3章では、ビームライン及び検出器について述べられている。すなわち高エネルギー物理学研究所12GeV陽子加速器から、K6ビームラインをへて1-kton水チェレンコフ型検出器に粒子を打ち込むまでの概要とビームライン上に設置されたTOF(Time Of Flight)カウンター、トリガー・カウンター、ガス・チェレンコフ・カウンターについて、及び、1-kton水チェレンコフ型検出器のデータ収集システムについて述べている。また、ニュートリノ反応は、KAMIOKANDE検出器内のいろいろな場所で起こることを考慮して、粒子を3月は検出器内の4箇所から、そして5月は10箇所からビームを打ち込んだ。

 第4章では、検出器の較正方法について述べている。すなわち、光電子増倍管の相対利得、絶対利得、及び時間と光量の補正方法、及び水の透過率の較正方法について述べている。

 第5章では、実際に取得した事象の選別手順について述べている。地上実験であるために避けることの出来ない背景宇宙線粒子や、ビームの広がりにより検出器入射前にビームパイプ等途中の物質と相互作用した粒子の除去の方法、解析対象となる現象の選別条件、方法について述べている。

 第6章では、実際のデータの解析結果を示している。本実験では、入射荷電粒子の種類と運動量が分かっているので、この実験データから、粒子の識別能力、エネルギー分解能、粒子発生点の決定精度についてモンテカルロ法に基づくKAMIOKANDEの解析手法について評価が行なわれている。モンテカルロ法に基づくKAMIOKANDEの解析手法が実験データを良く再現していることを示している。

 第7章では、前章の結果を用いて大気ニュートリノ観測の系統誤差の大きさを見積っている。粒子識別能力について評価されているKAMIOKANDEの系統誤差の大きさは、実験条件の違いを考慮すると、この実験から期待されるものとほぼ一致することが確かめられた。さらに、本実験によって実験的に可能なその他の系統誤差についてもその大きさが見積もられている。本実験により得られた全体の系統誤差の大きさは3月のデータについては12%、5月については9%と評価され、KAMIOKANDEで観測された大気ニュートリノの異常性は検出器の系統誤差に因るものでないと結論している。最後に、この実験からこの系統誤差は光電子増倍管の光の検出に対する方向依存性を考慮することによりさらに小さく出来ることが指摘されている。

 第8章では、この実験の結論を述べている。

 以上のように、水チェレンコフ検出器KAMIOKANDEで観測された大気ニュートリノの異常現象は物理的過程によるものであることが本実験により確認され,これは素粒子物理学に大きく貢献するものである。したがって、審査員一同は本論文が理学博士の学位論文として合格であると判定した。なお、本論文の実験は、KEK PS-E261aの日本側グループの実験であるが論文提出者が主体となって解析を行なったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断した。また、共同研究者全員から論文内容の結果を学位論文として提出することについて了承を得ているものであることを確認した。

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