学位論文要旨



No 112309
著者(漢字) 陳,肇斌
著者(英字)
著者(カナ) チェン,ザオビン
標題(和) 東アジア国際政治における日本の中国政策 : 「二つの中国」と「政経分離」
標題(洋)
報告番号 112309
報告番号 甲12309
学位授与日 1997.03.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第136号
研究科 法学政治学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三谷,太一郎
 東京大学 教授 板野,潤治
 東京大学 教授 渡辺,浩
 東京大学 教授 五十嵐,武士
 東京大学 教授 塩川,伸明
内容要旨

 日本の中国政策形成のイニシアティヴをとった吉田茂は、時には欧米の主要国に対して中国との経済交流の必要性を説きながら、時には日中貿易に対する過大な期待を戒めた。また、吉田は、早くから蒋介石に対して大陸反攻に反対する意思を伝えていたが、「中共を相手とせず」と読み取ることのできる「吉田書簡」をダレス宛に書き送った。これまで、吉田に関する研究は数多くなされ、吉田の中国認識および中国問題への対応はかなりの程度明らかにされてきた。しかし、既存の研究は、中国に対する吉田の一見相矛盾した言動を貫く内在的論理を解明することができず、戦後日本の中国政策の全体像を明らかにするに至っていない。

 本稿は、戦後日本の中国政策を英米を含めた東アジア国際政治の文脈の中で検討することによって、日本政府が、アメリカとの協調の枠内で独自の中国政策を持っていたことを明らかにする。アメリカは、「一つの中国」の立場に立って国民政府を支持し、北京政府を封じ込める政策をとったが、それに対して、日本は「二つの中国」(ないし「一つの中国、一つの台湾」)の立場に立って、国民政府を台湾の政府として承認したままで、中国の政府としての北京政府と外交関係を持つことを最終目標としていた。そして、そのための手段として「政経分離」の方法による日中貿易の推進を目指した。その際、日本政府は北京政府と直接に交渉するのではなく、北京政府を承認したイギリス政府とともに、アメリカを説得して日英米の共同の中国政策を形成しようと努めた。

 「政経分離」の方法は、国家間の経済関係を政治的な対立をさしおいて維持・発展させる戦略であるという理解が普通である。確かに、日本政府が「政経分離」の方法で北京政府との関係を打開しようとしたのも経済利益を図る目的からであった。しかし、日本の中国政策における「政経分離」の方法には、経済的な側面のほかに、政治的な側面もあった。そこで、本稿は特に「政経分離」の方法の背後にあった具体的な政治的意図に着目する。吉田は、少なくとも短期的には、中国貿易自体よりも中ソ分断の手段として、「政経分離」の方法を重視していた。吉田が中国貿易についてある場合には肯定し、他の場合には否定したのは、吉田の「政経分離」が政治戦略であったことの現れである。すなわち、吉田は、北京政府の支配下にある中国大陸との貿易に過大な期待を持つことはできないが、中ソを分断する手段として中国貿易は重要であると考えていたのである。そして、北京政府をソ連から引き離してはじめて、中国貿易はそれ自体として日本にとって重要な意味を持つようになると認識していたのである。また、吉田は、「二つの中国」の立場から「政経分離」の方法によって「二つの中国」の局面を固定化することをねらった。

 本稿は、このような吉田の中国政策は、吉田個人にとどまるものではなく、日本政府の中国政策であり、吉田内閣以降も鳩山内閣、さらに岸内閣へと継承されたと考える。鳩山内閣は日ソ国交回復に専念したために、対中関係に取り組むことがほとんどできなかった。そこで、吉田内閣以後の日本政府の中国政策を取りあげるにあたって、特に岸内閣に焦点を当てることにする。ただし、吉田内閣と岸内閣とでは、それぞれ置かれていた国際的・国内的環境が異なっており、中国政策における方法や強調点は必ずしも同一ではなかった。しかし、「二つの中国」の立場に立って「政経分離」の方法で中国問題に対処するという基本的路線において、吉田内閣と岸内閣の中国政策は共通していたのである。

 本稿は日本の中国政策を、さらに以下の二点に留意しながら論じる。第一に、戦前と戦後の日本政府の中国認識の連続性である。吉田は中国政策において「勘」、すなわち外交感覚を強調したが、これは戦前のチャイナ・サービスの経験に負うところが大きかった。そして、吉田はこの「勘」に基づいて、「二つの中国」の方針を作り上げたのである。

 第二に、英米間の中国政策に関する不一致である。北京政府を封じ込めるというアメリカの中国政策とは違って、イギリスは中国大陸における経済的利益の維持および中ソ分断の実現という目的のために、北京政府を成立後まもなく中国を代表する政府として承認していた。吉田は、中国について自らと近似する政策を持つイギリスがアメリカに対して影響力を行使することを期待した。しかし、アジア・太平洋地域におけるイギリスの力は戦前と比べて著しく衰退していた。そこで、イギリスはアメリカの中国政策に妥協せざるを得ず、吉田の期待には応えられなかったのである。

 第一章「日本の中国政策の形成の背景」は、対日講和における中国代表政府問題をめぐる英米間の対立の中で、吉田が講和条約の締結を最優先にしながらも、イギリスの対米影響力に期待して、国民政府を中国の代表政府として日本に選択させようとするアメリカに抵抗した過程を検討し、日本の中国政策の形成の背景を明らかにする。吉田は講和条約の成立を最優先にしたために、アメリカに自らの中国政策を強く主張できなかった。日本政府は自力ではアメリカの方針と相違する政策を実現することができなかったのである。そこで吉田は、イギリスの対米影響力に期待をかけた。しかし、英米間で「モリソン・ダレス了解」が成立した結果、中国代表政府の選択の問題は日本の「自主決定」に委ねられた。「自主決定」を委ねられた日本政府は、北京政府と講和しないことをアメリカに約束することによって、アメリカの不安を緩和する一方で、他方で国民政府との条約を、中国の代表政府との講和条約ではなく台湾の政府との条約にすり替えようと試みた。北京政府と講和しないという保証をアメリカに対して与えることによって、北京政府との関係打開の余地を残すという日本の中国政策の逆説性は、この時期にすでに現れていたのである。また、「吉田書簡」の成立過程において日本がアメリカに抵抗したのは、中国の代表政府としての国民政府と講和条約を結ぶということについてであり、台湾の政府としての国民政府と条約を結ぶということについてではなかった。つまり、日本政府は、台湾の政府としての国民政府と外交関係をもちながら、北京政府との関係樹立の余地を残そうとした。このように、日本政府の「二つの中国」という路線は、対日講和の過程において形成されたのである。

 第二章「日本の中国政策の『試み』」では、日華条約の締結によって日本は、北京政府との関係樹立の「余地」を理論上残しながらも、現実には北京政府との関係を断絶することになったこと、しかしその後も吉田は、「吉田構想」を実現すべく熱心に英米に働きかけたことを明らかにする。吉田は北京政府との関係の打開に積極的であったが、吉田書簡Bおよび日華条約の締結によって、日本と北京政府との関係は事実上断絶した。そこで吉田は北京政府との関係を打開するために、日本の中国政策についてイギリスとアメリカの支持を得ることを試みた。1954年秋、吉田は、日英米の共同の中国政策を形成することを目的として、シンガポールに日英米三国の協商機関を設置することをイギリスとアメリカに提案した。しかし、イギリスは対米協調を重視して、吉田の提案に冷淡な反応を示した。また、アメリカも吉田の提案に支持を与えなかった。それは、アメリカが北京政府を封じ込める戦略をもっていたこと、アメリカの要求する大規模な再軍備に吉田が消極的であったこと、吉田内閣の国内の支持基盤が脆弱であったことなどによるものであった。

 第三章「日本の中国政策の展開と挫折」では、「二つの中国」の立場に立って「政経分離」の方法で対中関係を打開するという吉田の方針を継承した岸内閣の中国政策が、内在的な限界によって挫折する過程を扱う。岸内閣は、吉田がアメリカの支持を得られなかったことを教訓として、再軍備と「反共反中」に積極的な姿勢を見せて、アメリカの信頼を取り付けた。そして、このような岸の努力が効を奏して、アメリカは第四次日中民間貿易協定の交渉と調印を黙認した。しかし、日本政府の「二つの中国」の方針は、動機はそれぞれ異なるが「一つの中国」の立場を共有していたアメリカ、国民政府、北京政府の政策と真っ向から対立するものであったがゆえに、内在的な限界があった。特に、国民政府が国交断絶をもって第四次日中民間貿易協定に反対したとき、国民政府との関係を維持しながら、北京政府との関係を樹立するという日本政府の「二つの中国」の方針は内在的限界を露わにしたのである。しかも、アメリカおよび国民政府との関係の現状維持を前提として北京政府との関係を改善しようとしたために、まず第一にアメリカと国民政府の信頼を取り付けるという岸内閣の方針が、北京政府を強く刺激したのであり、手段が目的を阻害するという点においても内在的な限界をはらんでいた。かくして、1958年5月の長崎国旗事件を契機として日中関係樹立への動きが中断し、岸内閣の中国政策は挫折したのである。確かに日本政府は、「二つの中国」の立場に立って「政経分離」の方法で中国問題に対処するという路線を、1972年の日中国交回復まで放棄したわけではなかった。しかし、岸内閣の挫折によって、この路線の実現可能性がないことは明らかになったのである。

審査要旨

 本論文は、対日講和条約成立の過程において、日本が対米協調を原則としながら、米国の中国政策とは異なる独自の中国政策をいかに形成し、1950年代を通してそれをいかに展開しようとしたか、そしてそれがいかにして挫折したかを、主として日本、中国、米国及び英国の原資料に基づいて追究した最初の本格的な実証的研究の成果である。著者によれば、従来の研究は、第三次吉田内閣に始まる1950年代の日本政府の中国政策が米国の中国政策と同じように、国民政府を中国の正統政府とする「一つの中国」という立場に立っていたという仮説を前提としていた。それに対して、本論文は、第三次吉田内閣が原型を与えた日本の中国政策は、元来「二つの中国」の立場に立つものであったのであり、少なくともそれが破綻する1950年代末の岸内閣まで一貫するものであったという仮説を提示する。そして「二つの中国」を実現する手段として、日本政府は「政経分離」方針を採り、北京政府との貿易の拡大を図ったと理解する。したがって本論文が注目するのは「政経分離」の経済的側面よりも政治的側面であり、著者によれば、吉田が意図した政治戦略としての「政経分離」の目的は、日本と北京政府との経済関係を密接化することによって北京政府とソ連とを分断し、外交関係を確立する前提条件を整備することにあったのである。

 第一章「対日講和:日本の中国政策の形成の背景」は、サンフランシスコ講和条約成立の過程において、中国代表政府を国民政府とすべきか、北京政府とすべきかをめぐって、自由主義陣営内部にも前者を支持する米国と後者を主張する英国との間で対立が生じ、その間にあって日本(吉田政権)が中国代表政府としての国民政府との講和を回避するために、英国の対米影響力に期待し、米英両国に対して、米英共同の中国政策の形成の必要を説きながら、日本の中国政策を「二つの中国」政策に収斂させていく過程を明らかにしている。

 吉田茂首相が対日講和交渉の過程で米国側と初めて中国問題について議論したのは、1951年1月にダレス国務省顧問によって組織された使節団が来日した際であるが、吉田はダレスとの会談において、中国義勇軍の参戦によって朝鮮戦争が新しい段階を迎えていたにもかかわらず、あえて中国との貿易の長期的効用と必然性を指摘し、それがソ連と中国との分断をもたらす可能性を語った。それは北京政府の軍事的脅威を否定し、ダレスの要請する日本再軍備に抵抗する意思表示でもあった。吉田はダレス離日後1951年2月16日付でダレス宛書簡を準備し、中ソ分断による中国の自由主義陣営への組み入れを説き、そのために日本が中ソの間に「竹のカーテン」を張る役割を果たし得ることを強調したが,講和への影響を考慮し、結局書簡はダレスには送られなかった。著者はこの吉田書簡を、後述する中国政策に関する他の二つの吉田書簡に対して、吉田書簡Aと呼び、それが吉田書簡Cと共に、ダレスによって準備された吉田書簡Bに対して吉田の本来の中国政策の基本的立場を表現したものと評価している。

 香港の維持と通商関係の確保のために北京政府を承認していた英国は北京政府の講和会議参加を主張し、中国義勇軍の朝鮮戦争への参戦以後、北京政府を講和会議から排除するために国際工作を進める米国と激しく対立したが、英国のモリソン外相とダレスとの間の「モリソン・ダレス了解」(1951年6月19日)によって中国代表政府問題は独立を回復した日本政府の自由意思に委ねられることとなった。しかし日本政府の「自由意思」は、もちろん米英両国(就中米国)の圧力の下にあった。

 日本は米英対立の間にあって、対米講和交渉の過程で北京政府と講和しないことを保証するに止め、国民政府を中国代表政府としてではなく、台湾の政府としてこれと講和し、後日の北京政府との交渉の余地を残そうとした。そしてそのために米英対立を利用して米国の圧力を弱めようとした。これに対してダレスはあくまで国民政府との講和条約を日本に要求しながら、その適用範囲を国民政府の実際の支配の下にある領土に限定する方式を採ることについて国民政府の同意を得た上で、日本が国民政府と条約交渉を行い、北京政府とは条約を締結しないという意思を表明したダレス宛吉田書簡を送るよう要請した。その草案はダレスによって準備され、1951年12月24日付でダレスに送られた。これが著者のいわゆる吉田書簡Bである。これに先立って、吉田は国民政府との間で、講和条約ではなく、政治的関係を含まない実務関係に限った協定の締結を希望し、その趣旨の草案をダレスに示したが、ダレスはそれを受け入れなかった。なお吉田書簡Bに続いて、吉田は12月27日付で無署名で「ダレス特使へのメモ」をリッジウエイ連合国最高司令官に托してダレスに送った。著者のいわゆる吉田書簡Cである。内容は、翌年1月の米英首脳会談における中国政策についての米英協調の確立を訴えたものであった。吉田は「二つの中国」を志向する日本の中国政策を貫徹するために、英国の対米影響力に期待していたのである。

 第二章「日本の中国政策の『試み』」は、サンフランシスコにおける多国間対日講和条約調印後に1952年2月から4月にかけて行われた日本と国民政府との間のいわゆる日華条約交渉と吉田政権末期に吉田が試みたアジア政策に関する日英米政治協商機関設立構想とをとりあげている。日華条約交渉においては、国民政府が中国の正統政府及び連合国の一員としての立場から、サンフランシスコ講和条約に近い条約草案を提出したのに対して、日本側は日華条約はサンフランシスコ講和条約とは同じ意味の講和条約ではないという見解をもって、「条約の簡潔性」、「実情への適応」、及び「友好協力」を日華条約の基本原則とした。「条約の簡潔性」とは、政治関係については条約の内容を「総論」に止め、「各論」にはわたらず、日華条約とサンフランシスコ講和条約とを区別するという趣旨である。会議の名称が中国語では「中日和会」、英語では「Sino-Japanese Peace Conference」であったのに対して、日本語では「平和」という字句を省き、単に「日華条約会議」とした所以であった。「実情への適応」とは吉田書簡Bに盛り込まれた適用範囲の限定を明確にする趣旨である。「友好協力」とは国民政府への賠償を行わないという趣旨である。したがって日本側が提示した第一次草案は6ヵ条からなるきわめて「簡潔」なものであり、しかも戦争終結条項を除いては経済関係に集中していた。米国はこれをサンフランシスコ講和条約からの「逸脱」と見て、不快感を示した。米国は日本が米国上院のサンフランシスコ講和条約批准を待って、日華条約交渉を決裂させるのではないかとさえ疑った。日本が最も重視した「適用範囲」の問題については、交換公文に吉田書簡Bの原文をそのまま使用し、合意記録の中で国民政府側の解釈を明記することで双方の合意が成立し、サンフランシスコ講和条約が発効する7時間前に日華条約は調印された。

 日華交渉の過程で日本は台湾の帰属については、サンフランシスコ講和条約によって台湾に対するすべての権利を放棄すること以上には言及しなかったが、当時吉田の周辺には国民政府を中国ではなく、台湾の政府とみなすことによって台湾を大陸から切り離し、旧植民地である台湾との関係を何らかの形で維持する可能性が検討されていた痕跡がある。1952年9月から53年2月にかけて、吉田の側近が英国大使館や英国外務省のスタッフに対して「日台連合王国」(United Kingdom of Japan and Formosa)構想等を語り、英国の反応を探った事実があった。しかしこのような構想が国際的支持を得る可能性は全くなかった。そこで日華条約成立後日本の中国政策の基本路線は、いよいよ「二つの中国」に固まっていった。

 吉田が吉田書簡B及び日華条約によって最悪の状態に陥った北京政府との関係を改善するために、その政権の末期に打ち出したのが、日英米共同の中国政策の形成のためにシンガポールに三国政治協商機関を設置する構想である。吉田は1954年秋の欧米及びカナダへの外遊において各国(特に英米両国)の反応を打診し、それぞれの支持を得ようとしたのである。しかし英国は当時既に中国政策のイニシアティヴを米国に委ねており、中国政策をめぐって悪化した英米関係の修復に努めていた。英国外務省は、むしろ吉田構想を英米離間策とみなし、警戒した。そして米国の疑惑を避けるために、吉田の米国入りに先立って、吉田構想の内容を米国に知らせた。これに対する米国(特にダレス国務長官)の反応もまた否定的であった。三国政治協商機関は国連や東南アジア条約機構との関係でその設置は困難であるというのがダレスの見解であったが、同時にダレスは、アジアにおける日本の役割は経済的思想的貢献よりも、共産主義に対する再軍備による勢力均衡の構築であると述べ、西ドイツに比して消極的な日本の再軍備の状態を批判した。さらにダレスらの米国政府当局者の目に映った日本国内における吉田の政治的凋落もまた、吉田構想の失速要因であった。当時日本国内には反吉田勢力の台頭が見られただけでなく、それに連動して外務省内にも主要局長レベルで強い吉田批判があり、欧亜局長・アジア局長・国際協力局長らは、米国大使館の公使・参事官らとの会合において、吉田にはむしろ外遊の成果がないのが望ましいと語った。そして米国大使館は吉田の出発に先立って、ダレス宛に米国の政策が吉田の政権維持の目的に左右されることには疑問があるとの見解を提示したのである。こうして吉田構想は挫折し,同時に吉田は引退に追い込まれたのである。

 第三章「日本の中国政策の展開と挫折」は、吉田政権から「二つの中国」政策を引き継いだ岸(信介)政権が日米信頼関係の再構築を図り、それを前提として一方で安保条約改定を試みるとともに、他方で北京政府との関係の現状打開にも積極的に取り組み、第四次日中民間貿易協定の下で貿易代表部の設置を認めようとしたにもかかわらず、それにいかなる待遇を与えるべきか(特に五星旗の掲揚を認めるべきか否か)をめぐって、国民政府及び北京政府との間の交渉が難航し、遂に第四次日中民間貿易協定が成立しなかったのみならず、その後に突発したいわゆる長崎国旗事件によって北京政府との関係の決定的破局をもたらすにいたった過程を取り上げる。

 まず岸が首相就任に先立って石橋内閣外相就任とともに打ち出した外交三原則のうちの「国連中心主義」は、日本の中国政策が米国の中国政策ではなく、国連の多数国のそれに従うという含意をもっていた。そして北京政府が将来国連に加盟すれば、国民政府は台湾の政府として国連の議席を維持すべきであるというのが日本政府(岸内閣)の「二つの中国」の方針から出た立論であった。

 こうした「二つの中国」を志向する立場から、岸内閣は第三次日中民間貿易協定の期限満了(1957年5月)を機会として、第四次協定に政府の強い支持を与えることによって北京政府との通商関係を格段に発展させ、近い将来に予想される北京政府の国連加盟後の国交回復を円滑に行う条件を整えようとしたのである。北京政府は第四次協定によって貿易代表部の交換設置と要員の指紋押捺免除を実現することを求めた。これについて岸は米国と国民政府との了解を求めるために米国と台湾とを訪問した。当時岸が「反共反中」を強調したのも、第四次協定へ向けての対米工作及び対国府工作の一環であった。岸を支持していた米国政府は、貿易代表部の交換設置を了承し、駐日米国大使は不安を感じていた国府大使を説得した。

 しかし逆に岸の訪台や国府支持発言は、北京政府を強く反発させ、1957年9月から始まった第四次協定交渉は難航した。貿易の内容(物品・支払方法等)それ自体については比較的容易に合意が成立したが、双方の意見が対立したのは、貿易代表部の政治的待遇の問題であった。北京側は要員の準外交官待遇(政府による安全の保証、司法免除、通信・旅行の自由等)や国旗(五星旗)掲揚の権利の承認を求めた。交渉は一旦中断され、その間政府は指紋押捺問題解決に向けての外国人登録法改正等の措置を準備するとともに、改めて米国の了解を得る工作を行った。藤山(愛一郎)外相が駐日米国大使に対して、大陸貿易拡大による中ソ分断を主張したのも、第四次協定に対する米国の了解を取り付けようとする工作の一環であった。また政府だけでなく、岸に近い与党幹部も動いた。当時北京への接近に消極的であると見られていた佐藤(栄作)自民党総務会長は、米国大使館参事官と会い、国内政治にとっての対中貿易拡大の重要性を説いた。岸・佐藤らは次の総選挙のタイミングを得るためにも、第四次協定成立が必要であると見ており、それを成果として総選挙に勝利を得ることが岸内閣の最大の懸案である安保改定の実現につながると見ていたのである。

 1958年2月に再開された第四次協定交渉は依然として難航したが、三月五日に協定は調印され、日本側は覚書において貿易代表部要員に準外交官待遇を与え、さらに国旗(五星旗)掲揚を認めた。日本側から見れば、これは北京への大幅な譲歩であった。北京駐在英国代理大使が日本代表団の一人から入手した情報によれば、建前は民間協定であるにもかかわらず、最終的に調印を指示したのは岸首相自身であり、岸の決断によって難航していた交渉は一転して妥結の方向に向ったといわれる。

 ところがこうして調印された第四次協定は、国民政府の激しい反発と米国政府の困惑を招いた。国民政府は、五星旗掲揚承認に焦点を絞り、日本政府に対し、協定を否認するよう求めた。日本側が民間協定であることを理由として、これに応じないのを見ると、国府側は日本と国府との間の貿易協定交渉を中止し、大陸貿易に従事している日本業者に対して、米国の援助物資の域外調達契約を結ばない措置をとることによって、米国をこの問題に関与させようとした。そして国府は直接にダレスや駐日米国大使に対して、対日影響力を行使するよう訴えた。蒋介石総統は五星旗掲揚を日本が許可すれば、青天白日旗を降ろして対日断交に踏み切る旨を駐日米国大使に断言した。李承晩韓国大統領も蒋介石に同情を表し、この件について意見交換を申し入れた。

 米国は国府の対日断交論や米国援助物資の域外調達地域から日本を除く制裁措置には与しなかったが、協定が五星旗掲揚許可を与えた点は、日本の「重大な誤り」(ハーター国務長官代理)と見ていた。国務省は駐日米国大使に対して、共産中国には「民間」は存在せず、貿易代表部は政府関係者によって構成され、五星旗掲揚は代表部の政府機関的性格を一層強めるであろうこと、五星旗掲揚を黙認すれば、共産中国はさらに高い条件を出してくるであろうこと、台湾との貿易黒字を失えば、日本の国際収支に影響が出るであろうことを日本政府に伝えるよう指示した。またダレスは該当する法律や規則がなくとも、何らかの「行政行為」によって五星旗掲揚禁止ができないかどうか日本政府に検討させるよう米国大使に指示した。

 このような外圧に直面して、第四次協定を受け入れ、これに協力することを決定していた岸内閣は、その方針を再考せざるを得なかった。岸が最も恐れたのは最重要課題である安保改定への影響であった。また逆に国府が対日断交を賭したのも、安保改定交渉を控えていた岸内閣の立場を洞察していたからであった。岸内閣は国府との協議を重ね、両者の合意の結果、次のような結論を出した。それは、第四次協定の日本側の当事者となった三団体に対して、協定に対する政府の公式の態度を表明する政府回答として、既に日本側の代表団が協定交渉に際して、北京政府側と協議した上で作成していた政府回答文原案をそのまま踏襲し、それと併せて、国府との折衝をふまえて、政府は「国内法令の範囲内で」協定の実施に協力するが、協定は国旗掲揚の権利を認めるものではなく、政府は「中華民国との関係」を「尊重」するという趣旨を盛り込んだ官房長官談話を発表するというものであった。しかもこれに加えて、国府の要求に応じて、「日本政府は貿易代表部または代表たちの住居に旗が掲揚されないようにするために総選挙後から代表部設置前の間に必要かつ十分な努力を行う」という駐華日本大使の口頭補足説明を書面化した。

 これに対して、北京側は激しく反発し、日本政府回答正文の受領を拒否した。国府の意向に沿った官房長官談話(さらにそれにいたる国府との秘密協議)が北京政府を刺激したのである。こうして第四次協定は不成立に終ったのである。

 その後1958年5月2日に突発したいわゆる長崎国旗事件は、日本と北京政府との間の貿易代表部の交換設置の可能性を事実上完全に葬り去った。同年4月30日から5月2日にかけて、長崎市のデパートで開かれていた「切手・切り紙展覧会」の会場の天井からぶら下げられるように掲げられていた五星旗について、国府側出先機関は、日本側関係機関に撤去を求めたが、容れられなかった。ところが5月2日右翼団体のメンバーがこれを引き降ろした。当時の駐日国府大使沈覲鼎の回想から、国府出先機関が事件に関与したと推定される。この事件によって、岸は、北京の貿易代表部が設置された場合、五星旗掲揚禁止のいかなる具体的措置を講ずるかという難問から解放されたが、同時に吉田政権以来の日本政府の「二つの中国政策」も完全に挫折し、岸による安保改定の政治的代償となったのである。以後日中貿易は5年間中断された。

 以上が本論文の概要である。本論文の長所は以下の点にある。第一に、本論文は中国共産党政権登場以後の日本の中国政策の第一段階である1950年代について、戦略目的としての「二つの中国」、戦略手段としての「政経分離」という観点から、吉田政権から岸政権にいたる、それぞれの中国政策の細部に即して、一貫した説明を与えている。本論文によって、日本の中国政策における1950年代の歴史的意味が明らかにされたというべきであろう。

 第二に、本論文は、現在の時点で求め得る、ほとんどすべての資料を消化したきわめて堅牢で緻密な実証的研究の成果である。第一の長所として挙げた1950年代の日本の中国政策についての統一的な説明は、第二の長所である堅実な実証的研究の裏付けをもっている。特に日本の外交文書の公開が遅れ、中国の外交文書その他の資料が事実上接近困難な状況にあって、著者が現地に赴いて探索した英米の原資料に主として依拠したのは必然であったし、また賢明であったというべきであろう。事実として、著者が駆使した英米の原資料は、これまでほとんど利用されたことのないものであり、したがってそれらに基づいて書かれた本論文は、先行研究を格段に凌ぐものである。たとえば1952年の日華条約交渉をこれほど詳細に再現した研究はなかったし、また1957年から58年にかけての第四次日中民間貿易協定交渉について、これほど広い国際的文脈において分析した研究はない。

 第三に、本論文は多くの未知の知見を提供しているという点で、きわめて内容豊かな論文である。たとえば吉田の「二つの中国」政策が日英米共同の中国政策として想定されていたという示唆、岸の「国連中心主義」が中国政策の表現であったという指摘、さらに北京政府との間で貿易代表部を交換設置するという岸の中国政策が内政・外交の両面において安保改定と結びついていたという解釈等はきわめて刺激的である。

 しかし本論文にもいくつかの短所がある。第一に、「二つの中国」政策の戦略手段として「政経分離」を取り上げながら、その政治的意味を重視する反面で、経済的意味がやや軽視されているとの印象がある。日本の実業界(わけても鉄鋼・繊維業界)の動向をより重視すべきではないかと思われる。

 第二に、本論文は英米の資料に依拠するところ大きく、したがってアクターとしての英米の比重が大きいが、それだけに英米それ自体の中国政策についての研究文献をより広く参照する必要があったと思われる。

 しかし以上のような短所は、本論文の総合的評価を大きく損なうものではない。本論文は、1950年代の日本の中国政策の研究を通して、戦後日本外交史研究の水準を格段に引き上げ、ひいて東アジア国際政治史研究にも新生面を切り開いた業績であり、学界への貢献は少なくないといえよう。本論文は博士(法学)の学位に値する業績である。

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