学位論文要旨



No 112311
著者(漢字) 佐々木,哲
著者(英字)
著者(カナ) ササキ,トオル
標題(和) 科学研究における間主観性と客観性 : その構造と発展の論理
標題(洋)
報告番号 112311
報告番号 甲12311
学位授与日 1997.03.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第95号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉本,大一郎
 東京大学 教授 阿部,寛治
 東京大学 教授 江里口,良治
 東京大学 教授 佐々木,力
 東京大学 助教授 嶋田,正和
内容要旨

 現在、科学批判の立場から、科学的説明や歴史叙述の物語性が指摘されている。しかし物語性が直ちに説明や叙述の虚偽性を意味するわけではない。むしろ物語ることによって実質的内容に形を付与するからこそ、われわれは実質的内容を具体的なものとして認識できるのも確かである。自然的存在者は、関係の中で関係によって存立している。主観と対象の関係もそのような関係のひとつであり、そこに現われている現象は、主観によって形を付与されたものとはいえ、対象の性質といえる。しかし、それはひとつの関係における本質であり、他の関係の中では他の性質が本質となる。間主観性によって根拠づけられた客観性は、実は限定づきのものといえる。そのため他のコンテクストを契機に、既存の概念に対する否定性を実在化させることが求められる。しかも根拠である自然的存在者は、概念に対する肯定的である性質と否定的である性質の両者を必然的なものとして含んでいるため、両者を規定して、さらに両者を関係づけていく必要がある。そのことで、実質的内容の多様性を記述することができる。これが、ここでいう弁証法的方法である。

 1部では、科学的探究の場で自然哲学が果たせる役割を論じる。まず1章で、間主観性の二重性と客観性との関係について論じる。間主観性は客観性の根拠であるために、主観的なものであることが忘れられ、主観の意識の底に埋没して構造化し、主観を束縛する。そのことで、他者も排除され続ける。ここに、経験科学が主観的にすぎないものに転じる契機がある。実は経験的研究がしばしば形而上学的論争を展開するのは、自然的存在者が同時に両者の根拠となっているからである。そのとき、両者が実質的内容の異なる質を対象化していることに注目して、両者を規定し、さらに両者を関係づけ、形式と内容を一致させるならば、対立は解消し、実質的内容の多様性を具体的なものと認識することができよう。これは、分析的であると同時に総合的方法である。

 2章では、ドイツ自然哲学を、その背景である18世紀博物学や自然学の動向に注目しながら論じる。ドイツ自然哲学は、自然神学の外的目的論(創造論)を否定して、内的目的論(内在的法則性)を主張したものである。そのため両者を目的論としてひとくくりにするならば、ドイツ自然哲学をその文脈に即して理解することはできない。外的目的論と内的目的論の差異を明らかにすることで、自然神学とドイツ自然哲学のそれぞれの文脈を理解する必要がある。このように歴史研究でも、弁証法的方法は有効である。それは、この方法が概念を用いる認識のための一般的方法だからである。

 3章・4章では、18世紀後半の博物学以後の進化論の歴史を、内的目的論と外的目的論の差異に注目して考察する。ドイツ自然哲学では両者を厳しく区別するが、従来の進化論史では両者の差異はほとんど注目されなかった。そのため、ドイツ自然哲学は外的目的論を否定するにもかかわらず、観念論として自然神学とひとくくりにされていたのである。また、進化論批判の内容も画一的に規定されることになった。

 ダーウィン以前の、ラマルクの動物哲学やゲーテの形態学は、神によるデザイン論を主張する機械論(外的目的論)を批判したものであり、生物はその内在的な力によって環境に適応していくと主張したものである。さらにダーウィンの進化論も外的目的論を批判して、自然選択という自然に内在する法則を主張したものであり、そのことで多様性の起源を明らかにしようとする試みであった。ラマルク、ゲーテ、そしてダーウィンの試みは、外的目的論的であるリンネ分類学を批判して、生物の多様性が生じる機構を自然に内在する法則として明らかにしようとするものだったのである。それに対して19世紀末のダーウィニズムは、長期的趨勢を進化の本質と見る外的目的論にほかならない(3章)。

 ダーウィニズムは、進化を自然選択によって適応的なものが累積する過程と理解したため、進化に完全適応という目標を設定することになった。それは、完全適応を主張した自然神学の〈神によるデザイン〉の主張を〈自然選択〉に読み替えただけものだった。さらに〈自然選択〉を、〈神の手による選択〉と読み替えることもできる。それはもはや、完全適応という目標をもった外的目的論である。それに対して反ダーウィニズムは、内的目的論を展開した。しかしラマルキズムは、内在的法則を獲得形質の遺伝としたため、獲得形質の遺伝が実験によって証明されなかったことで衰退した。また定向進化説は生物に内在する力に方向性を設定することで、自然選択を否定しようとしたが、そのことで外的目的論となってしまった。メンデル遺伝学は、突然変異説と結びつくことで、進化の方向性を否定した。さらに必ずしも適応的ではない突然変異の中から適応的なものが累積するのは、内在的法則としての自然選択によることが認識されたことで、メンデル遺伝学とダーウィン進化論が総合され、外的目的論が否定された。さらに集団遺伝学と観察が結びつくことで、進化には隔離が必要であること、また進化の特徴は長期的趨勢ではなく、分岐進化(多様性)であることなどが明らかにされて、現代の総合説が生まれた。その一方で、すべての形質が適応の結果と見なされたことは、自然選択万能説を復活させた。そのことで、中立的変異の蓄積や、形態形成の内在的法則性が見落とされたのである(4章)。その問題を実在化させたのが、中立説であり、形態学である。

 2部では、自然哲学の方法を経験科学に応用する。その事例として1章では、自然選択説と中立説の論争を取り上げる。その論争の主な原因は、自然選択が重視されすぎたために、すべての形質が適応の結果と見られたところにある。そして適応的な変異を累積させる方向性選択ばかりが強調された。しかし、日常的には適応的な形質の平均値のものを選択し続ける安定化選択が強く作用し、種を長期的に安定させている。そのため進化が起こるには、この安定化選択が弱まる必要がある。そのことから、安定化選択がほとんど作用しない、自然選択に中立的な変異の蓄積が強く主張されることにもなった。

 しかし木村資生が、分子レベルと表現型レベルの中立的変異を明確に区別しなかったため、分子レベルでの中立的変異の蓄積は広く認められたものの、進化における中立的変異の役割をめぐる意見の一致は現在でも見られない。表現型には何ら影響を与えない分子レベルでの変異の蓄積をいくら主張しても、それは進化にとっては雑音にすぎない。実は、安定化選択によって排除されない表現型レベルでの中立的変異が重要といえる。

 2章では、表現型レベルの中立的変異に注目して、前適応や遺伝的多型を説明する。自然選択は分子レベルにも作用するため、自然選択説と中立説をそれぞれ表現型レベルと分子レベルに区分けることは、正しい解決方法ではない。むしろ、中立的変異を分子レベルと表現型レベルに分けることで、安定化選択には排除されないが、行動や環境の変化によって方向性選択によって累積する可能性のある表現型レベルの中立的変異を強調することができる。そのことで、前適応を外的目的論によらずに説明できるほか、遺伝的多型をヘテロ接合体の中立性の結果と説明することもできる。

 3章では、表現型レベルでの中立説を形態学と結び付ける。変異のランダム性は個体にとって有利かどうかについてランダムということであると理解し直すならば、中立的であるうちは、形態学的法則にもとづいた多様な変異が可能であると主張できる。中立説との対立を止揚した進化論は、形態学の対立と二律背反的なものではないといえよう。

 ただしこのとき、「原型」の概念をどのように理解するかが重要なポイントになる。とくに原型からのズレを雑音とみなすか、それとも生物の本性とみなすかの違いは、かなり大きい。ゲーテは「原型」と同時に「メタモルフォーゼ」の概念を提出して、多様性を重視した。それは、安定化選択と方向性選択の区別と総合に対応するものであり、ズレを生物の本性と見なす現在の進化論と通じる。

 それに対して構造主義生物学は、自然選択説を否定して、進化は構造の布置の変換や新たな構造の付加によって急激に進むと主張する。しかし構造を強調しすぎることで、多様性を構造の不安定さの結果とだけみるならば、原型からのズレを結局は雑音と見なすことになる。構造主義生物学は、ダーウィニズム批判に急であるため、反ダーウィニズ的な考えをひとくくりにして、構造の概念のもとに集めたものになってしまっている。しかし、構造の安定性は、主要な部分の安定性に、構造の布置の変換は、行動や環境の変化による中立的変異の適応化に、それぞれ対応している。ダーウィニズムの諸説も反ダーウィニズムの諸説も、決してひとくくりにすることのできないものであり、それぞれの諸説を外的目的論と内的目的論に分類し直すならば、進化論と形態学の両者を内的目的論として結び付けることができ、両者の対立を止揚することができる。

 弁証法的方法は、一つの実質的内容をめぐって二つの理論が二律背反に陥る原因が、実質的内容の多様性にあることを指摘し、概念を二つに分けた上で両者を関係づけ、その多様性を規定するものである。多様性を概念の一方的な対立者にとどめるのではなく、それを認識する方法といえる。そして、それぞれの概念がまた新たな始元になるのである。

審査要旨

 本論文には、「科学研究における間主観性と客観性-その構造と発展の論理-」という科学哲学的で一般的な表題がつけられている。しかし、その内容の根幹をなすものは、間主観性と客観性の関係に注目しながら、ケース・スタディーとして生物進化論とその発展を取り上げ、詳しく論じたものである。本論文は2部からなる。

 第1部では、間主観性と客観性の構造と動態について考察している。間主観性はその共通性のために客観性の根拠となるものでもあるが、同時に主観を束縛するものともなる。そこへ経験科学が持ち込んでくる新しい対象なり現象が、それまでの概念構成に対して二律背反的状況をもたらすとき、自然哲学にできることは、その原因が間主観性の二重性にあることを指摘し、経験的対象と間主観性の内容が一致するよう間主観性を止揚することであると主張している。

 そのような事例は、18世紀博物学以降の進化論の歴史に見られると論じている。特に進化論に関連してそのような議論を展開するにあたっては、外的目的論(創造論)と内的目的論(内在的法則性)の差異に着目することの重要性を説いている。自然哲学では、両者を厳しく区別していたが、進化論史では両者が区別されてこなかった。すなわち、ドイツ観念論自然哲学は神による創造の目的論を否定し、生物に内在する内的目的による進化を考えたにもかかわらず、同じ目的論であるからとして、峻別されずに考察されていたのである。このように考えると、自然に内在する法則として生物の多様性が生じる機構を明らかにしようとしたダーウィンの進化論そのものと、それから派生したダーウィニズム(自然選択説、環境への完全適応という新たな外的目的論)とは自ずと異なるものであると、論文提出者は論じている。

 これに対してダーウィニズム対反ダーウィニズムの区別は別の切口からの分類であるとし、その後の諸説の位置と意義を再分類している。ダーウィン以後、諸説が論争状態にあったのは、生物界における変異はランダムに起こるのではなく、ある種の方向性をもって起こるという説を否定するに足る決定的証拠がなかったからであった。しかし、メンデルによって提出された遺伝の法則が、突然変異の発見と結びついて、生物に内在する目的としての進化の定向性を否定するに至った。つまり、新たに生じる変異の大部分が有害なものであるとするメンデリズムの立場からの発見によって、生物に内在する進化の目的は否定されたのである。こうして、自然選択説はメンデリズムと総合されることにより、「進化の総合説」として、初めて神による創造の外的目的論と生物に内在する目的としての進化の定向性の両方が否定されたと論じている。

 第2部では、間主観性の二重性を解消し、経験的対象と間主観性の内容が一致するよう間主観性を止揚する事例として、現代進化学における総合説と中立説との関係を論じている。木村資生は中立説(1968、1983)において、中立的な突然変異と遺伝的浮動の平衡による一定速度の進化を提唱し、その意義を強調した。初期の頃は、表現型レベルの進化の解釈において、中立説は総合説と激しく対立したが、現在では中立説はおもにDNAレベルの進化を説明する学説として定着しつつある。DNAという分子レベルで突然変異が起こっても、その大部分は表現型に現れないものが多く、中立説の想定した状況が満たされる場合が比較的多い。木村自身も1980年代には、主に分子進化に限定してその妥当性を主張した傾向がある。そのため、表現型レベルでは総合説、分子レベルでは中立説という住み分けが、一見でき上がったかのように思われる時期が1980年代にはあった。

 これに対し論文提出者は、表現型レベルにおいても中立説の見方で論じることの意義を主張する。すなわち、表現型レベルに起こる変異が完全に中立的でなくても、ほぼ中立的であったり弱有害的にすぎなかったりする場合には、隔離された小さな集団においては、自然選択よりも遺伝的浮動の方が相対的に効果が強いため、固定され残りやすい。そのため、連続した大きな集団においては自然選択によって排除されてしまう変異が、隔離された小集団では蓄積しやすいことに、論文提出者は注目した。このことが、生物界の多様性を生みだすもとになっていると論文提出者は主張する。

 さらに論文提出者は、環境がやがて変化すると、そのような変異を持つものへと適応度の山が移動していく場合があり、これが中立説による前適応の説明になると主張する。そして、このように考えれば、従来総合説をもとに考えられてきた前適応・遺伝的多型の保有機構などの説明は、中立説によって補完され、より強固になると論じている。つまり、表現型レベルの進化においても、自然選択説と中立説は相互補完的な説明を与えることが可能であり、このようにして自然選択説と中立説の相克は止揚されると予測している。これらの考察の妥当性は、現に先鋭的な進化生物学者の間では、生物進化における確率過程の重要性が深く認識され始め、30年余り続いてきた中立説と自然選択説の相克が近年急速に解消されて、進化生物学が新しい発展に向かい始めたことからも支持される。

 論文提出者によって論じられた進化論に関する内容は、個々の事柄に関する限り、生物学者から見ると既に分かってることだと言われるかもしれない。しかし、現場の科学者の場合は、個々の事実について深い知識はあるとしても、全体としての理解や、いろいろな立場と説の関係、とくにそれらの学問発展において果たす役割や意味については必ずしも十分に考察されている訳ではない。論文提出者はそれを整理したと言える。これは、科学史や科学哲学の役割である。逆に、哲学者の方から見ると、このケース・スタディーは、哲学概念の分析としては甘いものにすぎない、と言われるであろう。しかしながら、複雑なシステムとその構造・機能および進化・歴史まで論ずる現代の自然科学において、現場と哲学の両者を結びつけて論じようとする試みは貴重である。そのような問題であるから、それぞれの専門から見た場合、それぞれには不十分なところがあるのは止むを得ない。本論文の審査はそのような事情も考慮に入れて行なった。そして、本論文は、哲学という側面では不十分なところが多いが、哲学者に現場の科学の情報を整理して提供し、現場の科学者には科学発展の論理から進化論を整理した知見を与えたという意味で寄与は大きいと判断した。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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