内容要旨 | | これまでも,教科書分析は相当の蓄積がなされてきた。しかし,オリエンタリズムや既存の性別役割イメージなどを批判した議論をのぞけば,教科書記述にうめこまれたイデオロギーを分析したものは意外にすくない。本論文では<国民国家日本を実体視する点では戦後の学校教科も依然イデオロギー装置として機能したのではないか>という仮説の検証をこころみた。 序章では,具体的領域としてなぜ国語科と社会科をとうのか,より具体的には,なぜ国語科/社会科の現行テキストを対象化するのかを論じた。 昨今の言論界の動向はともかく,「均質性のたかい民族的実体が連続してきた」とか,「形成されてきた」とする歴史像はねづよい。バーガーらが日常的知識こそ知識社会学的対象となるべきであると論じたことからすれば,こうした大衆的レベルでの〈実感〉の再生産構造こそかっこうの対象となるであろう。なかでも,もっとも広範な社会層にもっとも長期間影響をあたえるとおもわれる公教育空間こそ,第1の対象といえる。 そこで,あらたな「国語学」という分野の提起(亀井孝)―日本語学の旧称としての国語学ではなく,国語という名称が関連する諸現象を対象化する言語社会学の1領域―にのっとって国語科を分析する意義を論じた。さらには日本史ないし国史という名称が関連する諸現象を対象化する知識社会学の1領域として,あらたな「国史学」という分野を提唱した。そしてその具体的作業として,学校教科テキストを大衆消費財としての「日本(人)論」のひとつと位置づけることで,実証科学の知見かどのように変質/変形されて生徒に提示されるかを追究すべきであるとの間題提起をした。 つづく第1章では,国語問題としておもにとりあげられる話題のうち標準語論と漢字論にしぼって,国語教科書/学習参考書/日本語論などの記述を検討した。 まず「国語」「標準語」「共通語」などいった一般的な教科用語がどういった社会学的含意をもつか検討した。そこでうかびあがってきたのは,「日本列島ではなされているのは日本語だ」という総括を自明な事実としてうたがわせない記述であり,またそうした共時的総括が,日本列島ではなされてきたのは太古から日本語にほかならないという通時的イメージとせなかあわせになっている構造であった。日本語は空間的にも時間的にもうたがわれることのない実体としてとりあつかわれ,常識が強化されることはあっても,それを相対化する理論枠組みとかデータは用意されていないことがあきらかとなった。とりわけ,国民国家という政体や,中間層の文化資本といったものをつきはなした視点から論じてきた社会言語学の知見が反映することはほとんどないといってよいことが重要である。 つづいて,自明の前提とされている現行のかな/漢字まじり表記システムが,(1)近代国民国家に特有な「標準語」という現象のひとつにほかならないこと,(2)漢字なしでも現代日本語が十分表記できることをあきらかにした。また,(3)漢字表記が標準語音韻を規範としておしつけ,地域文化/民族文化を破壊する構造/過程を具体例(琉球列島/旧蝦夷地/現尾鷲市ほか)をあげてときあかす一方,歴史/地理教育とからめたり,(4)よみかき能力と社会階層/在日外国人/差別をむすびつけることで常識的見解や先行研究がみおとしている部分をあきらかにした点も従来なかった議論とおもわれる。 つづく第2章では,国民国家の構成要素(領土/国民/国民文化)がひとつのグループとしてまとまりをもつことは当然であるという史観がおそらく無自覚に再生産されている構造を,日本史および周辺社会科テキストの記述水準を検討することでうきぼりにした。 第1節では,地域史の研究水準を反映した歴史テキストである『高等学校琉球・沖縄史』と現行の日本史教科書の記述を比較検討することで,日本史教科書が地域史の水準を反映していないこと,辺境地域がとりあげられるのはおもに領土問題にかぎられるという事実をあきらかにした。つづく第2節では,(1)日本史の対象が結局日本民族という実体を自明視した議論であり,異質な存在は軽視されるか例外的存在としてあつかわれること,(2)現状の領土までにたどりついた国境線変動が地元住民のあたまごしにすすめられてきた事実,(3)そしてこうした事実が記述されない/されにくい構造をうきぼりにした。こうしたことをふまえた第3節では,日本史テキストがえがきだす通史イメージが,結局は「現状の日本国の構成要素=領土/領民/政体が必然的産物なのだ」という目的論=物語であるという構造,たとえば少数民族の自決の可能性などは当然皆無であるかのようにえがくという事実をあきらかにした。さらに最後の第4節では,近代公教育があてがう社会/言語科目が,現状の国民国家の時間的/空間的連続性=同一性を証明する場なのであり,それは「現在の領土/領民/政体が正統かつ合理的なのだ」という現状肯定のイデオロギー装置なのだと論じた。 そして,こうした記述の傾向(地域史/異民族等の軽視/目的論的史観など)をすべて国家統制に帰することは無理があり,むしろ実証史学にたずさわる大学人をふくめた歴史テキストの執筆者自身が以上のような史観をかかえているのだということを,指摘した。 最後の第3章では,まず,学校教科テキストが大衆消費財としての日本(人)論のひとつであるという,普遍性をかたってきたはずのテキストからすれば矛盾した実態をとりあげ,とりわけ教科書のばあい半強制的な消費が制度化されているという現状の構造的矛盾を指摘した。さらに,大衆消費財であるからこそ,大衆の実感を逆撫でにしたりきびしい自己批判を要求するような実証科学を反映させることは構造的に困難な構造をあきらかにした。 つぎに,学校教科テキストが日本(人)論=大衆消費財のひとつにほかならない事実を冷静にみつめることによって,(1)「国民の言語観/歴史観を規定しているのが学校教科書や学習参考書だけではなく,評論や歴史小説/時代劇などアカデミズムの論理とは別次元で展開するメディア総体である」という現実がうかびあがること。(2)しかし,それを生活実感に都合良く消費し,国民として統合される大衆の素養をかたちづくっているのは,やはり公教育空間であてがわれた教科書と授業なのだという事実。(3)しかも言語学者/実証史家自身が国民統合のための作業を無自覚にすすめていること(そのことを反省的に自己批判しはじめた歴史家は少数派であり,教科書編集には反映していないこと)。(4)教科書検定が,ただしい知識=こどもに注入すべき素養があるという前提のもとに構想されており,現行制度に賛成するもの/反対するもの双方,また現行制度のもとで対立しあう諸勢力も,この点については共通した見解にたっていることを再確認した。 そのうえで,ただしい知識=注入すべき素養があるとの前提はもちろんのこと,国民国家内全域共通の教科教育を前提とした公教育/学力概念のありかたも,そろそろ再検討すべき時期にきていること,テキスト類/授業実践も地域/教育者/生徒の具体的条件に応じたさまざまなバラエティに自己展開して当然ではないか,という提起をおこなった。 最後に,学校教科書は日本論の一部でしかないことが理解され,半強制的な消費が廃止されるべきであること,さらに,以上のような<日本>イデオロギーを相対化/脱神話化する教育過程へと学校現場が変質すべきであるといった展望を提示した。 既存の教科書批判は教科書を日本(人)論の一種としてとらえる視点をもたなかったし既存の「日本(人)論」論も,教科書をとりあげることがほとんどなかった点で,独自の視点といえる。とりわけ大衆消費財という位置づけと,公教育空間における半強制的使用の問題性を指摘したモデルは今後さらに展開できる可能性をもつものとかんがえる。 補論では,あらたな国語学(亀井孝)のプラン=「国語」という諸現象をすべて対象にすえる言語社会学のひとつが本論の知識社会学的分析とどうかかわるのか,さらにあらたな「国史学」とはいかなるものか,既存の社会諸科学との関連性とともに位置づけた。とりわけ,社会言語学/言語社会学のアカデミック・アイデンティティを明確化し,これまでの一般的通念を批判した。 |