啓蒙主義の問題をめぐるJ・G・ハーマンの思惟を解明し、その意義を再検討することが、本稿の基本的課題である。 ハーマンによる啓蒙主義批判については従来、その反動的ないし非合理主義的な側面が強調されてきた。これに対して近年のハーマン研究においては、啓蒙の理性に対するハーマンの思惟の内在性が見なおされつつある。 本稿は、こうした最近のハーマン研究の成果を踏まえて、ハーマンによる理性批判を扱う。具体的には、彼の同郷の友にして敵だったカントとの関係に焦点をあてる。啓蒙の理性に対するハーマンの緊張関係、そしてまた彼自身の積極的思想は、カントとの対決のうちにひときわ鮮明に現われているといえるからである。加うるに,カントとの関係は、ハーマンの思惟の現代的意義を再検討する際にも格好の手がかりとなるからである。 第一章では,ヒューム哲学の受容あるいは批判という問題に即して、ハーマンとカントの関係を考察する。 ハーマンは、理性をもって理性を撃つというヒュームの懐疑的方法を応用して、カントを批判した。こうした批判をカントは部分的に受けいれ、独断的理性に対する懐疑あるいは批判という意味で、ハーマンとカントは一致するにいたった。 しかしカントは、因果性に関するヒュームの批判には反対し、厳密な意味での必然性や普遍性を人間理性の側で保証しようとした。他方、ハーマンは、ヒュームの主張を支持し、経験における習慣あるいは信念の働きを重視した。 さらにハーマンは、ヒュームをも越えて、固有の思想を展開した。つまりヒュームが外的存在や因果律に関して信という契機の必要性を主張するに留まっていたのに対して、ハーマンは神への信もまた同じように重要である、と主張したのである。このように、経験的な次元に閉塞せず、超越的なものとの関わりにこだわった点では、ハーマンはむしろ同郷の--もとピエティストの--カントに近いのであった。ヒュームに依拠しつつなされたハーマンのカント批判は以上のような意味で、一定の説得的内容をそなえているということを明らかにする。 第二章では,ハーマンによるカント批判を,倫理的問題に関する側面からとりあげる。 カントは全体知を暗に前提して、人間の自由の意義を否定するような主張を展開していたのに対して、ハーマンは人間の有限性と自由という立場から批判を加えた。これに対してカントは後に、全体知の僭称とパターナリズムを自己批判するにいたった。 ハーマンにとって、全体知は不可能であるが、知そのものは人間の自由のために不可欠である。つまり、自然や歴史ひいては社会における自己自身の存在を真にふまえることが、自己を正しく愛し自由にするための条件である、と彼は考えていたのである。 こうした考えからハーマンは、すでに述べたような自己批判を経たカントの立場のうちにも、なおいくつかの問題点を認めた。すなわちカントの啓蒙論は、観念的な問題に傾斜しており、政治問題や他者関係を軽視している、と批判したのである。カントの有名な啓蒙論の意義は否定すべくもないが、それに対抗するハーマンの啓蒙論の意味も見過ごされるべきではなく、再評価に値するということを示唆する。 第三章では、カントに対するハーマンの批判を、超越論哲学に対する言語哲学的批判という観点から考察する。 言語に関するハーマンの考察はそもそも、言葉となった神への信仰に刺激されているが、カントの認識論との対決において、哲学的な深まりと精密さをそなえるにいたった。ハーマンはまず、カントの認識論のうちに悟性の優位を認め、言語論的視点からあらためて感性と悟性の統一を主張した。さらに、感覚や歴史からの独立性において必然性や普遍性を確保しようとするカントの純粋主義的傾向を批判し、それ自身経験的、歴史的な言語と理性との本質的な連関を説いた。 こうしたカントとハーマンの対立は、「言語論的転回」を経た現代哲学の状況にとって、きわめて示唆的なものとなっている。たとえば批判理論に対するトイニッセンの批判は、言語を介した理性の歴史性への洞察という点で、超越論哲学的な問題構成に対するハーマン的な批判と重なりあう。こうした点を明らかにしたうえで、ハーマンのアクチュアリティを、現代の哲学状況におけるハバーマス、ポパー、アーペルらとの対比を通して示す。 |