「「類似」に関する倫理学的考察---プラトン「国家」篇を中心に」と題されたこの論文はわれわれにすでによく知られたと思われている方法であるいわゆる「国家と魂の類比」というものを手かがりにプラトンにおける類似の概念について、正義や不正の概念を絡めつつ、考察したものである。 第一章においてこのいわゆる「国家と魂の類比」という方法が、プラトンの著作において他に例を見ない方法であることが指摘される。この特異性は主著の思索を貫く方法としては極めて異例である。そしてまたその類比を成り立たせる類似についても特異なものであることが指摘される。すなわちプラトンの言う類似にはイデア論の枠組みの中で語られる類似が一番重要であると考えられるが、正しい国家が天上に範型としてあると言われるように、正しい国家はイデア的性格を持つと思われる。ところが、そのような性格と正反対のことを第四巻で述べているのである。すなわち四巻ではむしろ正しい国家は正しい人の下に位置するものとして描かれているのである。このような類似における逆転は何を意味するのだろうか。以下の章においてこれらの問題が解きあかされる。 まず第二章においてこの方法が正義の「何であるか」を考察するためのものではなくて、正義が国家や人のうちにあって「どのようなものであるか」を探究するためのものであることが指摘される。これは今までの「国家」篇読解の常識を覆すものである。しかし、これはテキストに基づく明白な事実であることが立証される。そしてこのことに基づいてこのように理解することこそが「国家」篇の構成の理解にとって必要であることが論じられる。すなわち、このように理解することによってのみ、グラウコンの挑戦に対してソクラテスが真っ正面から応じたことが理解されるからである。すなわち、グラウコンの不正礼賛とは人間の本性に基づいてなされるのであるが、彼が解きあかした本性とはまやかしであることを、ソクラテスは人は互いに互いを必要とし、一人が素質に相応しい仕事をすることによって全体に寄与するということこそ本性であり,国家の起源であることを示すからである。 第三章ではいわゆる「国家と魂の類比」と言われる方法が実は「正しい国家と正しい人の類比」と言うべきものであることが指摘される。このことの意味は大きい。なぜなら、探究の対象は正義であったが、その対象たる正義を内に持つ正しい国家と正しい魂の類比によって探究はなされるのである。このことは、探究の対象が探究の根拠として探究そのものを支えているということを意味する。国家を成り立たしめるものとして一人一人に要請されていた「各人が素質に応じた仕事を一つ行うこと」ということが、正義として語られることは極めて示唆的である。正義の探究は正義そのものによって基礎づけられていたのである。 そしてさらにこのことは正義が正しい国家と正しい人との類似の根拠であることを意味する。ところがこのことは不正には見られない特徴である。不正の場合には、不正な国家の性格は不正な人々の性格によることが明らかである。しかし、正しい国家と正しい人は「自分のことをする」という同じことによって、類似するのである。こうして正義の持つこの特性は類似を成り立たせるという形相性と呼ぶべきものであることが明らかとなる。 第四章では、この類比の方法が短い道として善のイデアへ至る長い道と関連づけられるとき、類似が実は言語とイデアの結びつきを根拠にして成り立つことが明らかにされる。 このことは「二つのものがおなじ語で呼ばれ得るとき、これらが似ている」という不思議なプラトンの言葉の分析によって明らかにされる。そしてまたこの分析によってイデアと言語との相即がほのかに理解されることとして現れてくることになる。 こうして以上の三章において「国家」篇の思索の方法である「正しい国家と正しい人の類比」という方法とは、正義と不正がどのようなものであることを明らかにするために極めて有効な方法であることが論証される。そしてこの論証のいわば副産物として、「国家」篇全体が善のイデアへと収斂するという構成を持つことが明らかになってくるのである。 続く第五章では再び不正について論じられる。すなわち、不正な国家と不正な人とは、後者が前者の原因であるという因果関係が成り立つからこそ、お互いに似ていると言えるのであることが論証される。そしてさらにこの類似が対称的であることが指摘される。すなわち、人の性格はその愛好するものによって決まるが、そのようにしてある性格を持つに至った人が、国の支配者となることによって、国制もまたそのような性格を持つに至るのである。これが人から国家への類似である。ところが、そのようにして成立した国家の性格をモデルにして、新たに人の性格がその国家の性格に似たものとして、解明される。これが国家から人への類似である。こうして不正に関しては類似とは不正な国家と不正な人との間で対称的なのである。 このような不正に関する類似の特徴を受けて、不正な国家と不正な人のうち、特に寡頭制国家と寡頭制的人間のそれぞれを取りあげ、この二つのものにおける類似を考察する。そして寡頭制的人間が二重の人と呼ばれる理由を分析することによって、この二重性とは欲望的部分の分裂によるものであることが論証される。まず寡頭制国家における支配者は多くのことに手を出すがゆえに、プラトン的に言えば、「自分のこと」をしていない。他方、被支配者もまた仕事を持たず零落しているので「自分のこと」を持たないのである。それゆえ寡頭制国家においては支配者も被支配者も同類なのだ。これが寡頭制的人間の魂と当てはめられて考察されると、寡頭制的人間の魂はその同じ部分が分裂しているということになる。その部分とは欲望的部分である。では彼のその他の二つの部分はどうなっているのか。それは魂の部分が二つの意味で語られていることから理解される。そのひとつは、正しい人間の場合にのみ魂の三つの部分が考えられると言う場合である。そしてもう一つとは、人間の魂が愛好するものとして知恵、名誉、金銭という三つものが考えられ、それに応じた三つの部分がそれぞれ考えられると言うことなのである。そして前者の場合、不正な人の魂には三つの部分が区別され得ないということになり、この意味で寡頭制的人間の魂には三つの部分がないと言えるのである。 そして最後の第六章においては正しい国家と正しい魂の類似が再び取りあげられ、正義というもののための知の必要性をプラトンが考えていたことを論証する。四巻までの国家には知ではなくて正しい思いなししか存在せず、哲人王の支配する国家においてのみ知が、善そのものの知を頂点とする知が存在するのである。そして正しい思いなしと知の区別が分析されることによって、知とは人の「内」を形作るものであることが理解される。こうして正しい国家と正しい人の類似における逆転とは知のモメントによるものである。 そしてこの知の重要性を明らかにした後で、さらにかの「洞窟」の比喩における洞窟への帰還というモメントこそ正義を成り立たせるものであることが明らかにされる。なぜなら、国家を正しいものたらしめる知を有する守護者たちといえども、生産者の作り出すものを必要とし、ひいては生産者を必要とするからである。そしてこのような守護者が政治に携わる国家を範型としてこそ人は正しい人となるべく自らを作り上げることができる。なぜなら、正義とは知のモメントがなしには存在しないものだからである。そしてこのように生きる人こそ、プラトンによれば神に自らを似せようとするとしている人なのである。 |