学位論文要旨



No 112322
著者(漢字) 関,久代
著者(英字)
著者(カナ) セキ,ヒサヨ
標題(和) 『源氏物語』論 : 物語構造と人物造型
標題(洋)
報告番号 112322
報告番号 甲12322
学位授与日 1997.03.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第168号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,日出男
 東京大学 教授 白藤,禮幸
 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 助教授 長島,弘明
内容要旨

 拙論は『源氏物語』の第二部といわれる、若菜巻以降の質的変化の内実をあとづけ、若菜巻以降のものがたりの達成を論ずることを目的とするものである。第二部の質的変化について、藤裏葉巻までの第一部においては、主人公光源氏が物語の絶対的な中心に据えられていたのに対して、第二部以降はそれぞれの過去を抱えて自立する、相対的な人間の必然的な関わり合いによってものがたりが展開する、という指摘が既にある。拙論もこうした先学の把握に依拠しつつ、光源氏を中心に据えて組み上げた第一部の論理と、その論理が第二部においてどのように相対化(脱構築)されていくか、相対関係のなかで何が語られていくか等のあとづけを論の目的に据える。

 第一編は、第一部を統括する物語の論理について、とくに「桐壺帝」の機能に着目しながら、「王権譚」と「家の復興」を統合して作り上げられる光源氏の栄華の論理、その理想性の根拠について論じる。「王権譚」と「家の復興」は一見異質な理念であるのだが、現実の社会機構(システム)を的確に作品世界に構造化しながら、その現実を超える世界を描き出すという『源氏物語』第一部の勇壮な試みのなかで、かけがえなく統合せられている。すなわち『源氏物語』は、摂関体制という王朝社会の権力形態の、ことに権力を維持継承するための「後宮」という機構(システム)を鋭く意識しながら、後見たるべき母の父(外祖父)が早世したために、王と見まごう資質を備えながら一世源氏とならざるを得なかった皇子、光源氏の圧倒的な栄華の達成を語ろうとする。光源氏の臣籍降下という処遇は、王朝時代のシステムに照らせばまことに当然の処置であるのだが、これを不当な不都合な措置であるとして現実のシステムを批判する存在に据えていくのが、右大臣女御腹の凡庸な第一皇子(朱雀帝)と比較しながら光源氏をかけがえのない者と措定する桐壷帝のまなざしである。桐壺帝の視座に導かれ、読者は光源氏の栄華の上に現実を批判し超える理想性を見出すのであるし、かつまた本質的には秩序すべてを根底から揺るがす「王」である光源氏は、後宮システムが再生産する凡庸な帝と外戚の専横を揺さぶり、「朝廷の御後見」として聖代を領導する生という方向に、その存在が位置づけられることになる。具体的には、近親相姦すら想起させる罪深い藤壷との関わりを、「朝廷の御後見」として冷泉聖代を築く方向に軌道修正させるのが、桐壷帝の視座である。このような現実な批判し超えるという勇壮な試みの起点を、個人のまなざしというあやふやな相対的なものに据えるところに、この物語の本質的な相対意識を伺うことができよう。

 光源氏の栄華の質の独自性は、さらに「家」に深く関わるべき「妻」、紫上の造型の仕方のなかからも伺うことができる。現実を超える夢のような光源氏の栄華というこの物語の流れにそって、早世した外祖父(桐壷大納言)の家の復興、光源氏の子孫の繁栄といういわゆる貴族社会の理想とする栄華を、光源氏もまた達成していくのであるが、物語における幸福の表現法のひとつである「主人公の伴侶」のありようをながめるとき、「家」を再興しながらも「家」の繁栄に一種批判的な物語の立場が伺えるのである。それというのも光源氏の理想的な妻として据えられた紫上は、父の縁が薄い「家」から放たれた女であるばかりでなく、彼女自身の子どもをも生まず、家の形成ということに全く寄与しない女君であったのである。物語は「家」の再興と繁栄を語りながら、本質的な理想としてはいない。これはかの後宮の論理に代表される摂関システムを醸成した根本的な原理が、実は天皇も臣下も、それぞれが父から我が子へ、その権力と誇りを排他的に嗣がせようとする欲望にあることを、物語じしんが洞察していることを推察させる。冷泉帝に嗣子がなく、六条院「家」を嗣ぐ者が葵上腹の夕霧であるところに、もっとも光源氏の本質に関わる存在を、継承という欲望から慎重に遠ざけようという計算が伺えるのであるが、このようなあやうい理想の組み上げ方の矛盾をこの物語も鋭く意識している。第二部が書かれる所以である。

 第二編では、第一部の物語のなかに見られる第二部の萌芽について論じている。玉鬘十帖に、第一部のなかの第二部の胎動を認める先行論文は多いが、拙論では玉鬘十帖以外の物語に第二部の萌芽を探っている。それは第一に、帚木三帖に語られる没落上流貴族(中の品)の女と光源氏の悲恋の物語であり、第二には、藤壷の死後の光源氏の心の揺れを語る薄雲巻末と朝顔巻である。帚木三帖のものがたりは、紫上が光源氏の理想の妻として迎えられる必然を作り上げる、換言すれば優れた没落上流貴族の女との実り得ない恋の物語という構造上の制約を負うのであるが、その制約ゆえに、真率に向かい合いながら超えられぬ心の壁によって別れざるを得ない、没落貴族の女と上流貴紳の意識のずれが語られることになった。これは女三宮降嫁後の光源氏と紫上の心のずれの先蹤であり、宇治十帖の恋物語の核ともなっている。一方、薄雲巻末と朝顔巻に語られる光源氏の心の彷徨のありようのなかからは、のちに第二部で語られる、無常感や道心によって人と人との関わりが炙り出されるという、物語の方法、あるいは問題意識の萌芽を見出すことが出来る。

 第一部がひとつの理想を組み上げていく物語であるとして、論理を組み上げる過程において、物語の結構を揺るがしかねない事象はものがたりの脇に追いやられる。たとえばそれは子もなく後見もない紫上という立場の難しさであり、光源氏と紫上の「うらなき」信頼の難しさであり、「色好み」という恋のあやうさである。そうした密かに排除されたものを再び取り込むことで、第一部において組み上げたものを脱構築し、新たな物語へと踏み出していくのが、第二部の物語である。第一部における光源氏像を脱構築するという第二部の姿勢の典型が、第一部では慎重に回避されてきた天皇と光源氏の関係を改めて問い直させる存在である、結婚させなければならない凡庸な内親王女三宮の登場である。女三宮の登場は、父帝裁可の皇女の結婚問題をものがたりに持ち込み、即位せずに天皇の後見として独自の地位を築いた光源氏のありようと天皇との位置関係を、再び正面から問い直させている。皇女としての血の高貴さと稚愚ともいうべき凡庸な人柄とを併せ持つ女三宮とは、第一部における紫上と対極に位置する人物像であり、その女三宮を正妻として迎え遇さなねばならない現実が語られることで、光源氏の作り上げた六条院の理想性は.完全に解体させられるのである。

 この女三宮によって揺るがされた紫上の苦悩とは、光源氏の作り上げた世界の軋みであると同時に、光源氏と紫上の関わりを正面から問い直させていく。さらに女三宮の結婚問題は、朱雀院の従弟としての柏木、旧右大臣家と旧左大臣家双方の血脈を負う柏木の過去と重なり、「色好み」幻想と自問自答する柏木の恋の物語を展開させている。朱雀院の愛娘の登場によって展開し始める、過去を抱えた自立的な登場人物同士の対峙する相対的な人間関係の物語は、第一部において慎重に排除されていった天皇の権威、「色好み」の王者性のあやうさをものがたりに持ち込んで、光源氏の理想を相対化していき、かわって自立する人と人との相対的な関わりを丁寧に語っていくことになる。ここで作中人物の自立する「意識」を構成するものは、第一に系図あるいは家の歴史、血の自意識であり、第二に現在のおのれの権勢、貴族社会における位置であった。現在権勢の中心に座る者は、人としての満たされぬ思いを有しつつ、我知らず己を侍み驕りを有し、他方で現在の不遇を感じるものは、研ぎ澄まされた自負をもてあましている。自立する人々の相対的な人間関係とは、容易に変わり得ぬ自意識のぶつかり合いであり、ひととひととが関わって「あはれ」を共有することの難しさを露呈していく。

 しかしながら一方でひとは「あはれ」、他者を求め執着する心を抱かずにはいられない。第四編は、第二部に語られるひとの我執と共感をもっとも先鋭に物語化する方法としての、「道心」を論じている。光源氏の道心についても既に種々の論が重ねられているが、出家または往生することを、無意識のうちに、救済であり望まれる帰結として論じていく傾向があるように思われる。しかしながら拙論では、たとえば道心の深まりに比例して棄てがたい愛憐執着が語られることを、ひとの救われ難さと評する前に、「出家」という観念と切り結ぶことで、人と関わり合って生きる人間というものの極限が語られていることに着目していきたい。第二部において「道心」はさまざまな人々の相互に絡み合う思いのなかで、多角的に物語られている。それは仏教思想を語っているのではなく、仏教思想、なかでも「出離」という観念と切り結ぶことで、人間というものを鋭く追求しているのである。出家あるいは往生に際して、断ち難い恩愛の絆に直面し苦悩する光源氏らの姿は、執着を断ち得ないひとの罪深さを物語る。そしてなおかつ出家をめぐり、それぞれに関わり引き止め合う人々のありようを追うことで、ひとがひとに注ぐまなざし、ひとを求める心そのものを問題化していく。もとより自立する意識を抱える人々の関わりは、容易に共感に達し得ずむしろ互いの相克が止みがたくもあり、また人はさまざまな棚にまといつかれながら移ろい変わりゆく存在であって、常に「飽かず悲し」の苦悩を抱え込まざるを得ない。「あはれ」を捨て、人の世を捨てることが心の救済に繋がるゆえんである。このように一面では「あはれ」の人の世を捨て去りたく道心を抱き、一方では人との恩愛を断ちがたく執着せずにはいられない、ひとの「あはれ」、換言すれば関わって生きざるを得ないひとというものを、さまざまに追求するというのが、第二部の物語の見出した新しい主題であるかと思われる。

審査要旨

 本論文は、『源氏物語』における物語構造と人物造型の関わりについて、特に物語の第一部から第二部への結節点を中心に論じたものである。これは、従来もよくとりあげられてきた課題であるが、ここでは、光源氏という物語主人公に虚構ならではの王者性を見出し、それに見合うべき女君たちの固有の造型性を析出することによって、第一部からおのずと第二部の虚構が導き出される物語の構造の特徴を論じている。これが本論文の最もすぐれた点である。

 また、論文中、物語叙述の微視的な分析による新見も多くみられ、いずれも説得的である。物語構造と人物造型の有機的な関わらせ方といい、叙述分析の方法といい、今日の『源氏物語』作品研究として高い水準のものと評価される。

 論文全体としては、光源氏の道心の問題など、さらに掘り下げるべき課題も残されているが、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当すると判断する。

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