学位論文要旨



No 112323
著者(漢字) 鈴木,亜紀子
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,アキコ
標題(和) 明治維新期の地方商業
標題(洋)
報告番号 112323
報告番号 甲12323
学位授与日 1997.03.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第169号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高村,直助
 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 教授 藤田,覚
 東京大学 助教授 野島,陽子
内容要旨

 安政六年の開港によって、なかば強制的に世界市場へと編入された日本は、国内経済の大きな混乱を経験した。しかしその後わずか三〇年ほどの間に、機械制生産をおこなう綿糸紡績業をふくむ多くの企業が設立され、一方では輸出産業としての製糸業の急速な発展をみて、日本は産業革命のはじまりをむかえた。

 本論文の目的は、この間の経済変化、すなわち産業革命の前提を準備するにあたって、遠隔地取り引きにかかわる地方商業がはたした役割を明らかにすることである。なぜなら、消費と生産のそれぞれの局面において変化の著しかった当時は、この両者を媒介する商業のはたした役割が非常に大きかったと考えられるからである。本論文ではとくに、幕藩体制のもとにおける城下町などの地方集散地の商業に注目する。当時の流通過程は藩や府県などの政策によって規定されるところが大きく、政策とのかかわりにおいて重要な役割をはたしたのが地方集散地だったからである。

 近年の在来産業研究の進展によって、綿織物業を中心に、個別産業に付随する範囲で商業の役割の再評価がすすんできた。本論文ではこれらの成果を参考にしつつも、いわば産業横断的な検討をおこなうことで、当時の商業にある程度共通して見られる特徴を明らかにしようと試みた。検討の対象とするのは、それぞれ貿易開始の影響を大きく受けた綿布、生糸の流通にかかわる商業と、商業のありかたを規定する要因である交通網の三つである。

 第一章では、消費地での変化への対応に注目する意味から、この時期綿布需要の顕著な拡大が指摘されている東北地方でのあらたな綿布流通機構のあり方を検討した。主にもちいた史料は、秋田藩城下で呉服太物の卸小売商を営んだ辻兵吉家の経営文書である。

 秋田城下周辺では天保末年から安政の頃にかけて、古着や古手類から綿布の購入へ、あるいは単純な染め木綿からより高価な縞木綿へと、衣料品に対する嗜好の高度化がみられた。辻家はまさにこの時期に城下の古着商から独立し、古着から織物へと商いの比重を移しながら、周辺部へと販路を開拓した。奉公先での経験と、そこからの資金援助に支えられて、辻家は当初から中央集散地である江戸へ仕入れにおもむいた。買い積み船などとの取り引きが一般的だった当時にあって、これは特筆すべきことであった。

 顧客の好みにもっとも良く応じるために、辻家が取引先として選んだのは、主に農村市場向けとして縞木綿類や絹綿交織物をあつかっていた新興江戸問屋であった。安政年間からはじまった藩の移入制限によって、移入衣料品の取り扱いが城下商人など一部にしか許されなかったためもあり、新興江戸問屋からの商品をほぼ独占的にあつかう辻家は急速に経営を拡大した。新興江戸問屋との取り引きは、辻家側の強い働きかけによってはじまり、資金的にも取り引きの固定化を招くような江戸問屋からの与信に大きく依存するものとはならなかった。このような事情を背景に、辻家は卸小売りの状況を見ながら、開港後には輸入織物も取り扱い、明治一二年からは京阪地区にも直接仕入先を拡大するといった機動性に富む経営をおこなった。

 藩の移入制限が廃止された明治初年からは、かつて辻家が卸売りの対象にしていた商人たちも新興江戸問屋との直接の取り引きを開始した。また汽船海運などあらたな交通・通信手段の導入によって中央集散地との取り引きが容易になったことも、この傾向を助長した。こうして、かつて辻家が数少ない担い手として支えていたあらたな綿布流通機構は、より厚みをもったものへと変化したのである。

 日本が開港したのは、このように綿布需要がとくに拡大しつつある地域に、新規需要への即応性を高めたあらたな流通機構が形成されつつある時期であった。辻家のような地方商人は、中央集散地の新興問屋のもとに集まった多様な商品のなかから顧客に適した商品を仕入れることによって、あらたな市場をめぐる全国的な産地間競争をうながしたと考えられる。さらにいえば、それを前提に、綿花栽培と手紡糸生産を切り捨てるかたちでの在来綿業の再編が急速にすすんだと考えられる。

 第二章では、生産地での変化への対応に注目する意味から,開港後の最大の輸出品であった生糸の品質改良の過程を検討した。日本生糸が外貨獲得産業として確立するにあたっては、海外市場とくに当時成長しつつあったアメリカ市場の要求に応じた品質改良を.輸出開始後のはやい時期に実現しえたことが重要だったからである。改良活動は在来の座繰製糸の改良と、器械製糸の導入というふたつの方向ですすんだ。まず旧来の生糸産地である群馬県前橋周辺ではじまった改良座繰が、アメリカ市場への日本生糸進出の牽引役となり、その後明治二一年になって器械製糸を中心とする長野県の生糸生産高が群馬県のそれを上回るとともに輸出生糸の主流となった。検討の対象は前橋周辺における改良座繰の創始過程と、そこで不振だった器械製糸の特徴を明らかにするために比較の対象とした長野県である。

 当時の日本生糸がめざしたのは、力織機化のすすんだアメリカ絹織物業の経糸市場であった。そこで要求されたのは、繊度(糸の太さ)や光沢などが一定の生糸を大口で出荷することであった。改良座繰の特徴は、この「大量・斉一」化の鍵として集中揚げ返しをおこなう点にあった。揚げ返し自体は従来からおこなわれていたが、生糸の固着を防ぐために改良型揚返機を使用したうえ、繊度や光沢などの検査・分類を厳密におこなう機会としたのである。いわば流通過程における品質管理の徹底であり、零細な座繰経営を組織して短期間で改良の効果を上げるのには最適の方法であった。改良座繰創始の主要な担い手は、集散地前橋の比較的新興の生糸商勝山宗三郎であった。生糸荷主たる勝山は品質改良の動機を有したうえ、前橋藩営の売込問屋と器械製糸場に関与することで改良に必要な技術・情報をいちはやく入手することができた。さらにその経験をかわれて群馬県の勧業政策に起用されたため、改良技術の県内への普及過程にも関わることになったからである。

 器械製糸が経営として定着する上でも「大量・斉一」化は必要であり、その方法として集中揚げ返しが有効であった。ただし導入時そのままのの洋式器械製糸は大枠直繰式だったので、在来製糸法を参考に小枠再繰式に改める必要があった。技術導入の当事者だった前橋藩士族が小枠再繰式への転換に消極的だったのに対し、小野組など生糸売買の経験を有する経営者は採算を重視して積極的に技術の改変をおこなった。器械製糸が急速に普及した長野県の場合、その導入が採算重視の経営によっておこなわれたことが前橋周辺と違い、重要であったと考えられる。

 第三章では、産業革命期以前の、汽船海運の導入を中心にした国内交通網の再編と、東北地方の商業の関係を検討した。

 開港以前の東北地方の商業は、運賃積みの長距離海運の利用が不便なことと、駄馬と人にたよる陸上輸送が割高だったことを反映して、買い積み船と近江商人のような陸路持ち下りをおこなう商人との取り引きが大きな比重を占めた。そのため中央集散地に直接仕入れに出かける商人は例外的な存在であった。しかし開港後に導入された運賃積みの汽船海運が、政府の保護のもと明治八年に創業した三菱の手で京浜地区を中心とする長距離航路網となり、またこれを補完するものとして汽船の寄港地と後背地を結ぶ道路がやはり政策的に車両輸送に対応できるよう整備されると状況は変化した。輸送費用の低減が可能になり、直接中央集散地と取り引きする効用を知って試みる地方商人が増大したのである。その結果、かつての藩域を越えた商圏を持つ地方集散地もあらわれた。

 汽船海運が定着するにあたっては、その導入当初に、従来より高額の海運運賃を払っても利用する少数の商人が存在したことが重要であった。その一方で、汽船海運を中心に政策的に整備・再編された交通網が、地方商業のあり方を変化させる大きな要因となったのである。

 以上の検討からは、明治維新期の消費地、生産地のそれぞれにおいて、変わりつつある市況にすばやく対応した存在として、地方集散地の新興商人がはたした役割を評価することができる。領国経済のもとでは、特権的な旧来の商人と一定のつながりをもつ彼らは、資金的にも、藩の政策のなかでの位置づけという点でも比較的恵まれていた。そのために中央集散地と消費地あるいは産地の両方を、直接見通して状況を判断できるという経営のあり方が可能になっていた。彼らは新興商人であるがゆえに、旧来の商人以上に積極的な経営をおこない、それが地方経済のなかでの先駆的な意味をもち、他の商人へも変化をうながすことになった。しかし藩による流通規制の撤廃や、交通網の整備によって、彼らに比較優位を与えていた移行期ならではの条件は失われた。彼ら同様の経営をおこなうものも数多くあらわれたのである。産業革命期の彼らは近代企業への有力な出資者や企業家となるとは限らなかった。その意味で、彼らはまさに移行期の変化の担い手として、日本の産業革命の前提の形成にこそ大きな役割をはたしたといえる。

審査要旨

 かつて経済の近代化が論じられる場合、商人は「敵役」かさもなくても「脇役」であり、積極的な位置づけを与えられることはなかった。近年ようやく、そのような見方は見直され始めているが、本論文『明治維新期の地方商業』は、日本の産業革命の前提を準備する上で、遠隔地取引に関わる地方集散地の商業の役割を積極的に評価しようとしている。

 第1章では、開港後の主要輸入品となった綿布を扱った秋田の辻家の江戸や上方との遠隔地商業を、新たな交通・通信手段の利用とも関連させつつ、新たに発掘した第一次史料の分析によって解明し、第2章では主要輸出品となった生糸の主産地であった前橋の勝山宗三郎が、横浜の外商との接触の経験を生かしつつ「改良座繰」普及に果たした役割を、小野組や藩・県の政策とも関連づけて解明し、さらに第3章では、明治前期の青森県における道路整備を中心とする交通網整備と、それが商品流通促進に果たした役割を、様々な統計を駆使しつつ具体的に解明している。

 本論文の主要な成果は次のように評価しうる。

 1 地方における新興商人を、地方における消費の拡大や海外の需要に応じた地方の生産の拡大に積極的役割を果たしたことと、しかし一方では結果的に競争を激成する中で限界を露呈するという両面から、まさに過渡的な存在として具体的かつ納得的に解明したことである。

 2 過渡期における交通網の整備とそれに伴う商品流通の活性化を、具体的かつダイナミックに解明したことである。

 他方これらの解明は、何れも限られた商人や地域についての分析であり、それはどこまで一般化しうるのかという問題があろう。この点は今後の課題であるが、上記の諸点の成果に照らして、本論文は博士(文学)の学位に相当する論文であると、本審査委員会は判断する。

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