第一章の総説にもとづき、第二章「北京関税会議と重光葵」では重光がワシントン体制を当時どのように見、北京関税会議でいかなる対中国政策を構想して、中国の関税自主権回復要求に応えていったかを検討した。重光がもっとも重視したのは、勃興する中国ナショナリズムを如何にして、かれの抱く東亜政策に取り込んでいくかであった。その構想の下重光は同会議で幣原ら外務省側が自主権承認に対して消極的なのに対して、積極的に承認することによって中国の信頼と好意を獲得しようとした。中国との関係を緊密化することによって日中提携関係を築き、東亜政策の中心にしようとしたのである。しかも、重光が関税自主権の主義的承認を与えるに当たって、特に列国に率先して与えることに留意し、対中国政策において列国に対する主導性を確立することに腐心した。この対中国政策をめぐる対列国優位策は以後も基本的にかれの外交政策において絶えず追求されたものといえよう。 第三章「日中関税協定交渉と重光葵」では、重光葵が代理公使として担当した不平等条約改定交渉をめぐって、中国ナショナリズムの要求と、対中国貿易から生じる経済的利益の尊重に優先度をおく外務省ことに幣原外相と、いかなる角逐を展開しながら、協定の妥結にいたったかを検討した。不平等条約の撤廃に立ち遅れた日本は条約改定交渉では常に受動的であったが、重光は治外法権要求にまで急進しようとする王正廷を避け、穏健な実際家である宋子文財政部長と、国定税率の実施の迫った関税期条約のなかでも関税問題を分離して交渉する。特に税率据え置き期間で五年案を主張する外務省側と三年案を主張する宋子文ら中国側の間にたって重光は、中国側への妥協的態度をもって交渉を妥結するよう強く要請する。幣原もまたきわめて三年案に執拗であり、両者の角逐は激しかったが、つまるところ、中国ナショナリズムへの融和的態度をもって日中関係を築くか、経済的損失を被ってまで中国ナショナリズムの要求に応えないかのちがいであった。 第四章「治外法権問題から満洲事変へ」では、中国の国権回収要求が日本の「死活的」権益である満洲問題にまで波及してきたときの重光の対応を検討した。外務省側は中国ナショナリズムの要求の過熱化した様相にやや鈍感であり、その意味では、重光がしきりに展開する、不要な租界の返還など中国本土での可能な限りの譲歩をおこなって、要求の矛先が満洲の権益にまで波及するのを抑止しようとする政策を容易に理解しようとしなかった。そして治外法権問題での遅れも手伝って、ついに満洲にまで国権回収が波及すると判明したとき、重光は国際輿論の理解を得ようと、九か国条約が中国によって履行されなかったとする論理で、報告書「革命外交」を執筆する。重光は満洲問題の解決に第三者の介入を排除しながら日中間での単独解決をめざす。 第五章「昭和十年代外務省革新派の情勢認識と政策」では、ワシントン体制の変更を唱えた二人の外交官、白鳥敏夫と重光葵をとりあげ、両者の現状認識、国際秩序観、対外政策などを検討し、その共通点や相違点をさぐって、外務省革新派の論理の諸相明らかにした。白鳥は、満州事変後から対ソ主敵論、現状維持国と現状打破国の「二大潮流」論を展開したが、日中戦争後はその対立図式はイデオロギー性を濃厚にし、次第に政治化し、英米との非妥協的性格を強めていった。イタリア駐在大使となってからは、東亜新秩序を世界新秩序の一環として、日独伊防共協定の強化をはかろうとした。 一方重光葵は、昭和八〜十年の外務次官時代に、ワシントン体制の変更をめざすようになる。かれは日本を東亜の安定勢力とみなし、ワシントン体制にかわる新たな世界の安定機構として地域主義的国際秩序を構想し、しかも地域主義における他のリーダーとして英米を想定しており、その意味ではより現実主義的対応をとり、イデオロギー的排他性はなかった。とりわけ日中戦争の進展や日独伊の提携には反対であり、太平洋戦争の回避にも尽力した。 第六章から第九章までは、イタリア・エチオピア間の紛争・戦争を題材として、それに対する日本の対応をみていき、当時の対外政策の一面を検討しようとするものである。まず第六章「伊エ紛争と日本側対応-昭和十年杉村声明事件を中心に-」では、一九三四年に勃発したイタリアとエチオピアの紛争下、昭和十年七月におきた杉村陽太郎駐伊大使によるエチオピアに政治的関心がないとの発言を機に、ムッソリーニがそれを新聞・通信社に公表したことによって、当時エチオピアへの同情を強めていた国内輿論を痛く刺激し、新聞はこの声明に反発し、さらに国家主義・アジア主義団体も親エ反伊運動を展開した。外務省は杉村発言の修正を試みたが、これはヨーロッパでは人種論的立場からの対日批判を呼び起こす結果となった。この外務省の杉村声明の修正の背景には、こうした新聞などの国内輿論や親エ反伊運動の盛り上がりがあったことはたしかであるが、外務省の政策的背景も見逃してはならない。当時、東アジアやアフリカ方面への通商政策の展開は重要な課題となっており、単に対英牽制から日伊が接近したとみるもは早計である。エチオピアにおける日本側の経済的権益の確保もまた重要な日伊接近の要素だったのである。 第七章「日伊関係(一九三五〜三六年)とその態様-エチオピア戦争をめぐる日本側対応から」では、杉村声明事件以降の日伊関係をみる。日本側は基本的には伊エ双方に対する静観中立主義をとるが、エチオピア戦争が国際聯盟ことにイギリスとイタリアの対立の様相を呈してくると、確かに陸軍や海軍は次第にイタリア寄りの姿勢を見せはじめるが、外務省は依然その態度を維持した。軍のイタリア寄りの背景には当時の駐日イタリア大使館の積極的な対日中接近工作も手伝っていた。日本は、イタリアとの関係も良好に保とうとしながらも、双方への均衡した態度の一つとして予定通りエチオピアに日本公使館を設置した。一九三六年五月にはイタリアによるエチオピア併合が行われたが、日本は在エチオピア日本側権益の確保を最優先にしながらイタリアとの調整をはかるようになる。結果的に通商局の強い意向も反映して、在エ日本側権益の確保の代償として日本側はイタリアの要望した在エ公使館の領事館への降格にふみきった。 第八章「日本・エチオピア関係にみる一九三〇年代通商外交の位相」においては、満洲事変以降の日本の経済的躍進とその反動としての諸外国での関税障壁など日本製品に対する圧迫措置とそれに対する克服策の一つである、新市場獲得問題をとりあげた。本稿はそのケース・スタディとして日本とエチオピア間の関係史をあつかった。他の章で検討したように、日本とエチオピアの関係はイタリア・エチオピア間の紛争(戦争)期を中心にみられがちである。が、日本のエチオピアへの関心は昭和初期から経済的観点から綿布輸出市場として着目されつづけ、一方のエチオピアもその親日熱もあって日本との関係強化を強く望んだ。綿関係の当業者の本格的進出はなかったものの、民間と外務省の絡みにより日本のエチオピア進出は進められた。そして昭和九年に中東方面への進出拠点としての意味合いも含め、在エチオピア日本公使館の設置が決定された。エチオピア戦争の段階になってもその政策は変更されず、エチオピア戦争の最中の昭和十一年一月一日に公使館が設置された。その背景にあったものは、日本側の確固とした通商政策であった。 第九章「イタリア・エチオピア間の紛争(戦争)と『右翼』運動および輿論」は、伊エ間の紛争・戦争期に日本国内で起こった反応について検討したものである。いわゆる伊エ紛争が勃発すると日本側では民間においてイタリアによるエチオピアの侵略を、白色人種による有色人種の圧迫として捉え、親エチオピア反イタリア運動が起きる。その根底にあったものは人種論的シンパシーであり、有色人種のリーダーとしての日本人の自己イメージであった。これらの運動を展開したのは、主に黒龍会や大日本生産党ほかのアジア主義・国家主義系団体であったが、新聞社もエチオピア贔屓の論調を展開するだけでなく、その立場から講演会を開催し多くの聴衆を集めた。この意味では「右翼」団体の突出した運動というわけではなく、かなりひろがりをもった運動だったといえる。エチオピア戦争の進展にしたがって親エ反伊運動は終息してくる。こうした親エ反伊論を打ち消す論理として、現状維持対現状打破の対立概念が登場してくるが、まだ少数派であり、この対外認識の枠組みが拘束力をもちえるのは日中戦争以降であった。 |