本論は、思想的な転換点に位置するとされる著作:『人間的自由の本質、及びそれと連関する諸々の対象に関しての哲学的諸研究』(1809)--いわゆる『自由論』--から、『世界年代』を経て、その後期思想に至るまでのシェリングの思索の歩みを、その根本的な主題である「絶対者」としての神の「自己啓示」と、神による世界の「創造」という中心問題に焦点を合わせつつ、追跡するものである。その際本論においては、近年の文献的な研究の成果によってわれわれに入手可能となった、シェリング自身の手になる未公刊の「講義草稿」、「遺稿断片」、あるいは聴講者の「筆記録」などを、必要に応じて参照しつつ検討し、シェリングのオーセンティックな「著作集」として一般に知られている『オリジナル版』全集--いわゆる「K.F.A.シェリング版」--を通じては、従来知られることのなかった、『世界年代』以後の、エアランゲン期、第二次ミュンヘン期におけるシェリングの思索の展開をも、同時に検討することを試みる。 本論は、八章からなり、三つの部分に分かたれる。 第一部は、後期思想への転換点にあるシェリングの基本的な問題設定を、『自由論』を中心にして取り出すことを試みるものである。第一章は、有名な「実存する限りでの存在者」と、「単に実存の根底である限りでの存在者」との区別(1/7.357)という、『自由論』全体を支える基本構造が、「絶対的に見られた神」すなわち「絶対者そのもの」における「実存」の根本構造であるとされながら、常にその叙述において「絶対者そのもの」のそれではなく、有限な「被造物」の「生成」の構造の解明へとスライドしてしまい、本来叙述されるべき「絶対者そのもの」の「実存」の根本構造の解明が棚上げされてしまうという事態を、『自由論』前後の著作及び『自由論』をめぐるエッシェンマイアー、ヤコービらとの論争などを参照しつつ取り出し、『自由論』におけるシエリングの「絶対者論」がはらみ持つ構造的な不安定性を明らかにする。そしてこの問題が、「絶対者」としての神と、有限なものとしての「世界」との関係の問題に収斂していくということを指摘しつつ、有名な「無底(Ungrund)」の問題との連関を示す。 第二章は、『自由論』におけるもう一つの根本的な主題である「自由」の問題を採り上げる。そして「自由」の問題が、「世界観全体」との関連において、すなわち「自由」と「体系」との間に生じる緊張関係の間題として問われて初めて、その本来の射程に届くというシェリングの主張を検討し、『自由論』におけるシェリングの本来的な課題が、「自由の体系」の構築であるということを示す。そして「自由」の問題が同時に、「悪」への「自由」という問題を通じて、絶えず体系そのものの動揺をもたらすという事態に直面したシェリングが、この「悪」の問題を思惟することを可能にするような「自由の概念」として、「善と悪とに対する能力」としての「自由」というテーゼを提示するという事態を説明する。そしてこの「善と悪とに対する能力」としての「自由」というテーゼがもたらす「原理の積極的な転倒」としての「悪への自由」という問題が、究極的には『自由論』においてシェリングが提示する「実在-観念論」という原理の二元論によっては決して説明されることができないという事情を指摘し、この本来的な自由の概念によって提起された問題の射程に到達するということが、『世界年代』におけるシェリングの課題であったということを示し、シェリングがこの問題を、神による世界の創造という事態に遡りつつ思惟しようとしているということ、そしてそれゆえにこそ『世界年代』以来のシェリングの思索が「創造論」の問題に収斂していくということを示す。 第三章は、第二章において提示された問題、すなわち「創造論」の問題に直接立ち入る際の理解を見通しのきくものにするために、あらかじめ第二次ミュンヘン期におけるシェリングの、「哲学的経験論」の根本構造を検討し、「創造論」つまり「無からの創造」の解釈には不可欠な、「非存在者(das Nichtseiende)」の問題に関しての、シェリングの基本的な理解の構造を提示する。 第二部は、シェリングの「創造論」そのものの解釈を取り扱う。第四章は、「創造論」の解釈にとって決定的な意味を持つ「時間論」を、『世界年代』第一稿及び第二次ミュンヘン期の『諸世代の体系』に現れる「時間のゲネアロギー」という課題を手引きとして検討し、「分断(Scheidung)」としての時間という、シェリングの本来的な時間論を、その基本的な構造において提示する。そしてまた、シェリングがその「時間論」において、「真なる時間」の提示と、その「真なる時間」からの「派生的な時間」の生起の解明--すなわち「時間のゲネアロギー」--という自らの課題を跨ぎ越えて、「永遠性」の問題に踏み込んでいくという筋道を示す。 第五章は、第四章において示された時間論にしたがって、シェリングが「創造の原初」を「可能性」におけるそれと「現実的」なそれとはっきり区別し、後者の意味におけるそれに対して前者におけるそれを「原初の原初」として際だたせ、主題的に思惟するという事態を示し、この「可能性における原初」を「永遠なものの二重化」としての「分断」として考えるシェリングの基本的な思想の枠組みを示す。そしてこの「永遠なものの二重化」としての「原初の原初」を、「何ものも意欲しない意志」と「絶対的な自由」という二つの側面から検討するというシエリングの根本的なスタンスを検討し、それが「神の他者化」としての「自己啓示」への歩みという、シェリング「創造論」の根本構造に繋がるものであるということを示す。そして最後に、シェリングにとっては「自らの他者」になることができるという「絶対的な自由」こそが、「絶対者」本来の「絶対性」の表現であり、また「神の本来的な神性」であって、この「絶対的な自由」ゆえに「絶対者」の「自己啓示」の「歴史」あるいは神による世界創造は、「神のエコノミー」として考えられるということが、「人間の自由」との対比において示される。そして同時に、「無からの創造」の「無」が、何ものも前提としないという「絶対的な自由」の表現として解釈されるということが示される。 第三部は、第二部における「創造論」を、シェリングがいかなるかたちで引き継いで展開していくのかということを検討する。第六章は、後期思想の先駆けとなる講演:『サモトラケの神々について』(1815)を採り上げ、そこでのシェリングの「密儀」解釈を、『世界年代』と較べあわせつつたどることを通じて、後期における『神話の哲学』の基本的なスタンスを、大まかな見通しにおいて検討する。 第七章は、第四章であらかじめ述べた「哲学的経験論」の立場が、いかなるかたちで「神話の哲学」へと繋がっていくのかということを検討する。そして、われわれの経験に先立ち、われわれの現実的な経験のダイナミズムの源泉としての「プリウス」への問いが、この「プリウス」を開示するものとしての「言葉」への問いと重ね合わされるかたちで、「神話」としての言葉が、本来は「自らをして語らしめる言葉」として経験されていたのであり、われわれはこの「神話」の言葉を、それにふさわしいかたちで受け止めるべきであるというシェリングの主張を検討する。 第八章は、神話の神々の継起的な開示の過程としての「神統記」の終局であり、そこにおいて神話の「内的な意味」が見いだされるとされる「密儀」の領域についてのシェリングの思索を、『啓示の哲学』における、ディオニュソスについてのシェリングの解釈を通じて検討し、シェリングにとって「密儀」とは、本来は「教説」などではなく、「来るべき者」「来るべき神」への「待降」に集約されるものであるということを示す。 |