学位論文要旨



No 112326
著者(漢字) 宮川,剛
著者(英字)
著者(カナ) ミヤカワ,ツヨシ
標題(和) Fyn欠失マウスの行動異常に関する心理学的研究
標題(洋)
報告番号 112326
報告番号 甲12326
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人社第172号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 二木,宏明
 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 教授 佐藤,隆夫
 東京大学 教授 河内,十郎
 東京大学 助教授 長谷川,寿一
内容要旨

 Fynはチロシンキナーゼの一種であり、中枢神経系に多く発現している。Fynは神経細胞間の情報伝達に重要な役割を果たしていると考えられているが、その具体的な役割はわかっていなかった。本研究の目的は、遺伝子ターゲッティング法を用いて作製されたFyn欠失マウスの表現型の異常について心理学的実験を行うことにより、Fynの機能を明らかにすることである。Fyn欠失マウスの体内にはFynは全く存在していないので、もし、Fynを持つマウスと行動レベルでの表現型の比較を行った場合にFyn欠失マウスがなんらかの異常を示せば、その表現型の発現にFynが関与をしていることになる。

 Fynは学習・記憶行動に重要な役割を果たしている海馬に高濃度に発現している。Fyn欠失マウスでは海馬CA1領域で長期増強に障害があること、海馬CA3領域で錐体細胞の数が増加しており、錐体層の構造に解剖学的に乱れが生じていること、歯状回領域で顆粒細胞層の細胞数が増加していることなど、海馬の構造と機能に顕著な異常を持つことが報告されている。また、Grantら(1992)は海馬依存的学習課題と言われるモリス水迷路で、空間的学習課題の遂行に障害が認められることを海馬CA1領域でのLTPの障害とを関連づけて論じている。このモリス迷路に関しては、共同研究者である八木らによって作製されたFyn欠失マウスでも、Fyn欠失マウス作製時の遺伝的バックグラウンドの相違(129svとCBA×C57B16という相違)や、遺伝子のノックアウトの仕方の相違(NullのノックアウトとLacZによる置換)にもかかわらず、課題遂行の顕著な障害が見いだされている。そこで、本研究ではまず、海馬の解剖学的・電気生理学的障害を持つとされるFyn欠失マウスが、さまざまな海馬依存的といわれる学習課題(放射状迷路テスト、2種類の弁別逆転学習テスト、受動的回避学習テスト、能動的回避テスト)の遂行において異常を持っているか否かを検討した(第一部、実験1〜3)。その結果、モリス水迷路以外の全ての海馬依存的といわれる学習課題において、Fyn欠失マウスは正常な学習が可能であり、学習の速度も正常であることがわかった。

 しかし、Fyn欠失マウスは、一連の学習課題で、学習行動そのものは正常であったのだが、情動行動と考えられる行動に異常を示した。たとえば、8方向放射状迷路課題(実験1)の学習訓練にはいる前の、迷路への順応の段階で、迷路内で実験者に近い場所を避けるという傾向がFyn欠失マウスではより強くみられた。また、電撃を用いた恐怖条件付けの一種である受動的回避学習課題(実験3)でも、Fyn欠失マウスのほうが、統制群のマウスよりも、電撃を受けた場所を回避する傾向が高かった。これらの結果は、Fyn欠失マウが恐怖反応に異常を持つ(恐怖反応が亢進している)と解釈するとうまく説明できる。この考えを実験的にさらに検討するため、Fyn欠失マウスの情動行動の異常を分析する一連のテストを行った(第二部、実験4〜8)。Fyn欠失マウスは、新奇箱選択テスト、明室・暗室選択テスト、高架式十字型テストにおいて、マウスが生得的に恐怖反応を示すとされる新奇な場所、明るい場所、壁のない場所を避ける傾向が強いことが明らかになった。また、オープンフィールドテストにおいて、Fyn欠失マウスは、活動量が照明の強度の影響を受けやすいことがわかった。これらは、Fyn欠失マウスでは生得的な恐怖反応が亢進しているという考えを支持する結果である。また、実験3のFyn欠失マウスは電撃を受けた箱を回避する傾向が強いという結果は、電撃を受けた場所に対する恐怖反応が強いためではなく、電撃ショックに対する感受性が強かったからかもしれない。この可能性を検討するため、電撃に対する痛覚感受性を調べる実験を行ったところ、異常は見いだされなかった(第二部、実験9)。従って、受動的回避テストでの回避行動の亢進も痛覚感受性の異常が原因ではないことがわかり、Fyn欠失マウスでは学習性の恐怖反応も亢進していることが示唆された。

 偶然観察されたことであるが、マウスのケージを床に落としたとき、一匹のマウスが痙攣を起こした。このマウスの遺伝子型をあとで鑑定してみたところ、fynホモ欠失マウスであった。また、恐怖反応の大きさと痙攣発作の相関を示す報告があること、Fynは痙攣発作の発現に重要な役割を果たしていると考えられている大脳辺縁系に強く発現していることも考慮し、Fyn欠失マウスの痙攣感受性を検討する一連の実験を行った(第三部、実験10・11)。自然発症の痙攣発作に近いと言われる聴覚性痙攣発作に関して調べたところ、wild runningとclonic seizureの生起率を痙攣感受性の指標とした場合、Fyn欠失マウスでは痙攣感受性が顕著に亢進していることが明らかになった。つぎに、痙攣発作を誘発するような薬物(gamma aminobutyric acid A(GABAA)受容体、グルタミン酸受容体、グリシン受容体に作用する薬物)に対するFyn欠失マウスの感受性を調べた(実験11)。その結果、GABAA受容体に作用する4種類の薬物と、グルタミン酸受容体に作用する2種類の薬物によって誘発される痙攣発作では、Fyn欠失マウスは痙攣感受性の亢進を示した。しかし、グリシン受容体に作用するstrychnineでは痙攣感受性の異常は認められなかった。さらに、ベンゾジアゼピン受容体の逆主働薬であるmethyl--carboline-3-carboxylateに対しては逆に痙攣感受性が低下していることもわかった。

 実験11の結果から、Fyn欠失マウスは薬物に対する感受性に異常があることがわかったが、これらはすべて痙攣発作を誘発するような、行動レベルでは興奮性に働く薬物である。では、行動レベルで抑制性に働く薬物、すなわち、抗不安薬、睡眠薬などの薬物に対するFyn欠失マウスの感受性はどうなっているのだろうか。行動遺伝学的に多くの研究の興味の対象になっているエタノールと抗不安薬であるフルラゼパムに対する感受性に関してまず調べることにした(第4部、実験12)。この結果、Fyn欠失マウスには行動レベルでエタノールの感受性に異常があることがわかった。この行動学的なFyn欠失マウスのエタノール感受性の異常は、エタノールの代謝速度の異常によるものである可能性もあるので、これを検討するため、エタノール投与後のFyn欠失マウスのエタノールの血中濃度を測定した(第4部、実験13)。Fyn欠失マウスのエタノールの血中濃度の推移には異常が認められなかったので、行動学的なFyn欠失マウスのエタノール感受性の異常は、中枢神経系の問題であると考えられた。次に、Fyn欠失マウスにおけるエタノール感受性の亢進と関連する生化学的基盤を求めて、エタノールを投与した後の中枢神経系でのチロシンリン酸化されたタンパクの量をFyn欠失マウスと統制群のマウスで比較する実験を行った(第4部、実験14・15)。その結果、統制群のマウスでは、エタノールを投与した後、海馬において、チロシンリン酸化されたN-methyl-D-aspartate(NMDA)受容体の量が増加するが、Fyn欠失マウスではこの増加がみられないことが明らかになった(実験14・15)。エタノール投与によって、海馬でチロシンリン酸化されたNMDA受容体の増加が起こることと、この増加は、Fyn欠失マウスでは見られないことが明らかになったので、海馬のスライスで、NMDA受容体を介した興奮性シナプス後電位に対するエタノールの効果に、Fyn欠失マウスで異常がないかどうかを検討した(実験16)。その結果、統制群のマウスで観察されるNMDA受容体を介した興奮性シナプス後電位のエタノールに対する急性の耐性に関して、Fyn欠失マウスには異常があることが明らかになった。これらの結果から、Fyn欠失マウスにおいては行動学的レベルでのエタノール感受性の異常だけでなく、生化学的レベルと電気生理学的レベルでエタノールに対する感受性の異常もあることが確認された。

 以上のように、チロシンキナーゼの一種であるFynをコードするfyn遺伝子は、学習・記憶行動には影響を与えていないが、情動行動の発現と神経系に作用する薬物に対する感受性の決定に影響を及ぼしていることが明らかになった。本研究は、1)チロシンキナーゼが情動行動の発現に関与していることを初めて示したこと、2)恐怖反応の発現に関与している遺伝子の一つを初めて同定したこと、3)情動行動に関与している遺伝子が痙攣の感受性の決定にも関与していることを示したこと、4)モリス水迷路の障害が情動異常の2次的な効果である可能性を示唆し、モリス水迷路を空間学習能力の評価テストとして用いるときに慎重になるべきであるということを提起したこと、5)Fynは中枢神経系で広範囲にわたって非特異的に発現しているにもかかわらず特定の種類の行動の生起に選択的に影響を与えていることを明らかにしたこと、などの点において重要な意義を持っている。

審査要旨

 本論文は,Fynという非レセプター型チロシンキナーゼを欠損させたマウスの行動異常の性質を実験心理学的に解析したものである。Fyn欠失マウスは餌を報酬とした迷路学習では学習障害を示さないが、対照群のマウスよりも、強い恐怖反応を示すことを種々なテストで明らかにした。また、Fyn欠失マウスでは聴覚性痙攣の感受性の亢進や抑制性薬物の拮抗剤と興奮性薬物などで誘発した痙攣の感受性の亢進が見られること、しかし、薬物選択性もあることなどが見出された。さらに、Fyn欠失マウスではエタノールにたいする感受性が亢進していることを行動的指標と生化学的レベル、電気生理学的レベルでも確認している。

 従来の研究では、Fynの学習・記憶における役割しか検討されていなかったが、Fyn欠失による情動(恐怖反応)の異常をはじめて実験的に明らかにしたところに、本研究の意義が認められる。研究の展開にやや荒さが散見されるとの意見も表明されたが、内容的には水準の高いものであり、本論文は博士(心理学)の学位を授与するに十分な内容を持つものであると判断せられた。

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