学位論文要旨



No 112329
著者(漢字) 今井,勉
著者(英字)
著者(カナ) イマイ,ツトム
標題(和) 『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』論
標題(洋)
報告番号 112329
報告番号 甲12329
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第175号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中地,義和
 東京大学 教授 田村,毅
 東京大学 教授 月村,辰雄
 東京大学 教授 塩川,徹也
 一橋大学 教授 恒川,邦夫
内容要旨

 本論文は、ヴァレリーのマニフェスト的テクスト『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』(1895年発表)を対象として、作家ヴァレリーの基本姿勢の提示を試みると同時に、青年期ヴァレリーの実像解明のための手掛かりの提示をも企図するものである。

 第1部では参照体系(レフェランス)研究の観点から「読む」ヴァレリーの具体相を明らかにする。先人のテクスト場の「力線」を自らの精神の磁場に取り込んで大胆に「ヴァレリー化」するのが作家ヴァレリーの、ものを「読む」基本姿勢である。ヴァレリーはポー読書によって「同一化」をはじめとする様々な方法概念を学び、レオナルド読書において想像力による「同一化」あるいは「ヴァレリー化」を劇的に実践する。自然科学系諸論文(特にマクスウェルとトムソン)を読む場合でも「力学的モデル」を「ヴァレリー化」して『序説』の根本的方法に生かすという大胆な読書を実践している。

 第2部では生成研究(ジェネティック)の観点からフランス国立図書館所蔵の『序説』草稿を主な資料体として『序説』を「書く」ヴァレリーの具体的な姿を追う。構想ノート≪Figura≫には、理論的考察メモを記す一方で時折詩的テクストを書き付けるヴァレリーの高揚した姿が如実に看取され、冒頭部テクストの執筆の変遷には自らの立場を鮮明化すると同時に問題の地平を一般性・抽象性のレベルへと遡るヴァレリーの基本姿勢が顕著である。さらに、草稿テクストの随所に「読者」と高いレベルで連帯しようとするヴァレリーの姿もまたはっきりと窺うことが出来る。

 第3部ではテーマや書きぶりの内的連鎖の観点から『序説』の基本姿勢の他の初期テクスト群における展開を探る。青年期ヴァレリーの「定数」的要素がテーマや書きぶりの反復によって鮮明になると同時に、各テクストの独自性も明らかとなる。『序説』の基本的枠組を否定する『テスト氏』でヴァレリーは独自の「天才」論を完結させ、「ボナパルト論」と『ドイツ的制覇』では「同一化」的想像・「歴史」排除・≪No glory≫・一般性志向といった『序説』的批評方法を反復強化している。また『アガート』ではメタ意識による「通常の思考」の観察や思考の法則をめぐる成就されない「欲望」のテーマを反復しつつ「内面のドラマ」の一般性の度合を高めると同時に理論的かつ詩的なテクストの実験を極端にまで進めている。

 [読む」ヴァレリーは、先達のテクスト場の「力線」を自己の実存を賭けて取り込み「ヴァレリー化」する。「書く」ヴァレリーは、自らの立場を鮮明にし、自己革新を試みながら、「読者」を自らの磁場に巻き込む。『序説』以後のテクストにおいてもヴァレリーは、基本的「力線」を反復強化しつつ、常に新しい試みを展開していく。ヴァレリー自身にとって出発点となったテクスト『序説』は、作家ヴァレリーの問題性の凝縮された、極めてプロブレマティックなテクストであると言うことが出来る。

審査要旨

 今世紀前半のフランスを代表する詩人・思想家ポール・ヴァレリーのデビュー作『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』(1895)を対象とする本論文は、フランス国立図書館所蔵の作品草稿および関連手稿類の閲覧・分析の結果に基づいて、青年期のヴァレリーの思考と情熱が凝縮されたこの作品を貫く「力線」を生成のダイナミズムのなかで捉え直そうとする野心的な試みである。本論文の出発点をなすのは、この『方法序説』が、実在したイタリア・ルネサンスの天才レオナルド・ダ・ヴィンチの生活や思想の再現を図るものではなく、「思考の法則」「精神のシステム」の把握という形而上的かつ実存的な願望に突き動かされた若き日のヴァレリーが、レオナルドをモデルにしながら自己の理想的分身として新たな「万能の巨人」の構築を目指した作品である、という基本的認識である。

 本論文は三部構成で、「力線の受容」と題された第一部では、ヴァレリーがこの作品を構想するにあたって糧とした読書体験が考察の対象となる。熱狂や霊感に訴えるロマン主義的芸術観の対極にある「効果の理論」、完成作品よりも作者の内面のドラマを重視する批評倫理(「栄光の放棄」)、想像力行使の方法としての「同一化」、等をめぐるエドガー・ポーの感化。「正確さ」を求める飽くなき努力の必要性を学び、「普遍的人間(万能の人)になることは容易である」という励ましを受けたレオナルド手槁の読解・筆写の経験。本論文の独創性は、これらの受容に伴う独特の加工作用(「ヴァレリー化」)の精緻な分析にある。また、精神の機能を探究するヴァレリーにとって、英国の物理学者たちが提示した電磁場の「力線」の仮説とそのモデル化が、感覚的隠喩として啓示的インパクトをもったという指摘も新鮮である。本論文の中核をなす第二部「力線の造形」では、作品の冒頭三段落に関する二系列の草稿の錯綜を生成論的方法によって鮮やかに解きほぐす「冒頭のジェネティック」の章をはじめとして、草稿研究の成果が遺憾なく発揮されている。さらに第三部「力線の展開」では、『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』を貫くもろもろの力線が、『テスト氏』他の初期作品群においてどのような展開ないし変容を遂げているかが跡付けられ、通常の作品論を越える展望が開かれている。

 本論文は、ヴァレリーをしてレオナルド的知性の構築に向かわせた内的必然性をめぐる考察がやや不十分な点、あまりに均衡の取れた構成がかえって「力線の造形」を扱う第二部の相対的比重を軽減している点など、今後のさらなる研鑽・深化の余地を残している。しかし、明確な問題意識に導かれた、的確で力動性に富む一連の論証は、近年膨大なメモ・草稿類(『カイエ』)の整理と校訂の作業に偏りがちな世界のヴァレリー研究においていくぶん手薄になった感のある作品研究の面で新たな寄与をもたらす、きわめて優れた成果を達成している。以上から、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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