本論は日本のナショナリズムとマスメディアの関係を考察するために、「歴史的分析」の応援を得ながら「社会学的」的観察を試みるものである。ナショナリズムの構築にマスメディアがどう関わっているのか、逆にマスメディアにナショナリズムがいかなる影響を与えているかの研究である。 本論を進めるにあたって、ひとつの仮説を立てる。資本主義社会を基底とし、ナショナリズムとマスメディアの3者は相互規定をしている、との仮説である。 ナショナリズムとマスメディアは資本主義社会の成熟過程の中で、質的転換を遂げた。極言すれば、ナショナリズムは「開かれたナショナリズム」から「閉ざされたナショナリズム」(ヴィノック)へ、マスメディアは「民間文筆家たちのジャーナリズム」(ハーバーマス)から中立を標榜する「顔のないジャーナリズム」へ、さらには「欺瞞的文化産業」(ホルクハイマー)へと変わりつつある。が、果たしてそれだけか。ナショナリズムとマスメディアは相互に干渉しながら、大衆を通じて資本主義社会にも影響を与えているのではないか。 この仮説を明治維新以降の日本にあてはめ、主に新聞の言説をもとに、検証を試みる。さらには戦後の日本のナショナリズムの再構築とマスメディアの関係を描き出す。そしてその中で日本の資本主義社会の構築が帝国主義の華やかな時代に急激に進められたためにひずみを生み、その結果社会と国家の分化が徹底せず、したがって「公共」概念が十分に育たなかったこと、そのことが日本のナショナリズムとマスメディアを特殊なものにしたことを検証する。そしてこの公共概念の構築は戦後も高度成長の中で忘れられ、そゆえに戦後のマスメディアが一見繁栄していながら脆弱であることの原因であると分析する。これが本論の第1の目的である。 さらに本論は資本主義社会と国民国家の揺らぎの中で、ナショナリズムとマスメディアの将来関係も模索する。 資本主義社会と国民国家は、いまグローバル(地球規模)とローカル(地方)から挟撃を受け、資本主義社会も国民国家も大きな変化を遂げようとしている。その劇的変化の中で、ナショナリズムもマスメディアもきりもみの状態にある。資本主義社会の成熟化の中でナショナリズムは普遍性を、マスメディアは公共性を失っていったが、新たな激変の中でナショナリズムはどうなっていくのか。またマスメディアが公共性を復権することがあり得るのかどうか。資本主義社会とナショナリズム、マスメディアは相互規定性を持つとの仮説に立つなら、マスメディアはこの激変の中でナショナリズムに何らかの作用を及ぼすことが可能なはずである。これを研究するのが本論の第2の目的である。 |