本研究は、従来のヒエラルキー組織などの「目的活動的組織論」から、ネットワーク型組織などの「コミュニケーション的組織論」への移行の過程とそれを促す論理、および組織論的・社会的コンテクストなどを理論的および実証的に分析し、組織におけるパースペクティブ・シフトを明らかにしようと試みるものである。また、今日一つのジャングルの観をなしているネットワーク論の理論化、ないし体系化の試みでもある。 本稿で「ネットワーク」というとき、それは「コンテクストを共有している自主的な個々人、あるいはユニット同士が自律的に連携し連帯する分権的でかつ緩やかな協働システム」としての「もう一つの組織」を指している。したがって、これはヒエラルキー型組織とは根本的に異なる。ここでヒエラルキー組織というとき、基本的にウェーバー(Weber,Max)の示したモデルの官僚制組織を示しているが、このモデルが厳格さを緩める方向で修正されるとしても、それが「特定の目的の達成のために合理的かつ効率的にデザインされ、没人格的に運営される他者管理システム」である以上、それはヒエラルキー組織の類型をこえ出ることはないと、筆者は考えている。筆者は、ネットワークを(ヒエラルキー)組織から区別するが、その場合の区別の基準は、組織内でのコンテクストを共有し、自律性を保ち、分権的かつ緩やかなシステムが保っているかどうか、また、ネットワークの活性化のための望ましい条件として開かれたシステム、メンバーの重複性、冗長性などがそれぞれ考慮に入れられているかどうか、にある。 ところで、ヒエラルキー組織は産業社会における生産性向上、効率向上などの目的のために考案された仕組みであった。それはプロセスより結果を、個や成員コミュニティより組織目的を優先し重視するシステムであった。本稿では、このような認知的・道具的合理性を第一義的に優先し重視する組織を「目的活動的組織」と呼ぶ。 また、ヒエラルキー組織は私有財産の増大や社会的地位の向上、権力の所有や利己心、功利的個人主義などを媒介にした「もつ」(to have)という存在様式が支配的な場でもあった。そこではモノローグ的な指示・服従関係が支配的であり、メンバー同士のコミュニケーションや自律性などは二次的な意味しかもたなかった。組織の上層部ないしトップに情報を集中させ、それを基盤に計画が立てられると(これは従業員のディスエンパワーメントにつながる)、下層の人々はそれを忠実に実行することだけが役割であるとされていた。その結果、人々の生活は物質的には豊かになったが、イリイチ(Illich,Ivan)のいうようなヴァナキュラーな人間と人間との関係、人間と自然との関係はそこなわれ破壊されることになった。人々は他者を生の舞台のパートナーではなく、競争相手ないし自分の所有欲を充たすためのツールとみなし、精神的には貧弱になり、その結果、精神的な不安、生の意味喪失、人間疎外等の諸問題を生じさせることになった。このように、ヒエラルキー組織を中心とした産業社会が行き詰まり、動揺を示し始めて久しい。効率や目的合理性などが重要であることを否定し得ないが、社会が物質的に豊かになるにしたがって、人々は自分を吟味し、生の意味を考え始めるのである。人と人との利害をこえた付き合い関係をもちたい、コミュニケートしたいという人間本来のヴァナキュラーな関係様式があらためて意識され、コンヴィヴィアルな社会が求められ始めたのである。このようなコンテクストを共にする人々がいつのまにかつながり、形成していくのが他ならぬ「ネットワーク」であり、「コミュニケーション的組織」である、と筆者は考えている。 ところで、ネットワークも組織の一つである以上、そこにも組織の目的は必要である。しかし、ヒエラルキー組織のように固い組織の目的ではない。それは所与-利潤追求とか財産形成とか-というものではない。組織のメンバーは一本筋の命令などによって動くわけでもない。それゆえ、組織の目的達成のために定められた計画の通りにしたがう、という意味をもつ「従業員」(subordinate)という称呼はもはやふさわしくない。彼らはアソシエーツ(associate)ないしコラボレーター(collaborater)なのである。ネットワークでのメンバー同士はピーア・ツー・ピーアあるいはパートナーとして、互いに相手の個性や差異を発見し、それを尊重しながら共同の目的や進むべき方向・方針を定め、そしてそれを状況や環境にあわせて変えて行くのである。それゆえ、ヒエラルキー組織よりは効率的ではないかもしれない。しかし、ネットワーク内の困難やコンフリクトを克服する度にコンテクストは広がり、ネットワークはより強くなるのである。 ネットワーク組織では権限は集中せず、その代わりにアソシエーツのすべての人々に権限を委譲する。特に、これまでディスエンパワーメントされてきた人々、つまり、組織における新入社員や下位職員、社会における女性、障害者、少数民族、NPO/NGO、あるいは一般市民などの社会的弱者に力を与える。ネットワークは彼らにキャパシテーション(capacitation)を与え、力の貧困状態から脱出し、一人前の自省人になるしめるのである。 一方、ネットワークのメンバー達はヒエラルキー組織の構成員のように自分たちのテリトリーに固執しない。つねに、自分の境界を破り、自分が属している空間を横断し、他のネットワーク、あるいは他の人とつながるのである。 以上のようなネットワークを理解するためには、脱所与的、脱中心的、ノーマッド的、ホロン的、コミュニケーション的合理性というパースペクティブが必要である。筆者はこのような一連のパースペクティブを一括して「複雑性のパースペクティブ」と名づける。 さて、ネットワークは名詞としては、自主的な個々人あるいはユニット同士が網状に相互に連結されている状態(関係態)、またはその属性をさし、動詞としては自主的な個々人あるいはユニット同士を網状で相互につなぐという意味をもっており、それぞれの名詞相当語句がネットワーキングである。それゆえ、ネットワーキングは、相互に網状で連結する行為またはそのプロセスを表すといえよう。 一方、ハーバーマス(Habermas:J.)によると、人々の行為には道具的行為、戦略的行為、そして相互行為がある。すると、人々の関係態を表すネットワークも道具的ネットワーク、戦略的ネットワーク、そして相互行為的ネットワークとに分類される。 電話ネットワーク、インターネット、イントラネットなどの道具的ネットワークは人々やユニット同士がコミュニケーションあるいは関係をもつのに必要な基盤となる。言い換えれば、道具的ネットワークは戦略的ネットワークと相互行為的ネットワークの基盤となるわけである。戦略的提携ネットワーク、ゴア・アソシエーツ、ミスミ社などに見られる戦略的ネットワークは、組織の目的志向的行為から導かれて形成される。これに対して、プロジェクトJ、JV:SVN(Joint Ventute:Silicon Valley Network)、ボランティア組織などで観察される相互行為的ネットワークは、人間本来の相互関係の回復という動きとして広がりつつある。 また、このようなネットワーク論の勃興には情報テクノロジーの進展、物質的価値観から脱物質的価値観へのバリュー・シフトが進行しているなどのコンテクストが背後にある。 本研究の結論として述べたいのは、次の二つである。第一に、すべての組織が完全に「目的活動的組織」であるヒエラルキー組織から「コミュニケーション的組織」であるネットワーク型組織へ変わるのではないということである。ヒエラルキー組織もネットワーク型組織もあくまでも一つの理想型である。ゆえに、現実の組織はその両極の間に位置しているといえる。あるいは、その両方の特性を合わせてもっている多様なハイブリッドとして考えられる。しかし、ここで言えるのは、産業社会から脱産業社会、あるいは高度情報化社会へと移行するにしたがって、組織観は「単純性のパースペクティブ」から「複雑性のパースペクティブ」へシフトしつつある、ということなのである。 第二に、フロム(Fromm,Etich)が指摘するように、これまでの産業社会では財産や知識、権力などの所有にこだわる「もつ」(to have)関係様式が自明の理とされ、生の舞台で「他人と結びつき」、生きる意味や関心などを分かち合うことができる「ある」(to be)関係様式を圧倒してしまった。このように歪められ転倒された人々の関係様式から抜け出させ、人類にヴァナキュラーな関係様式を回復するためには、「ネットワーク」という新たな関係様式をもたせなければならない。それと同時に、効率の原理に支配されてきた産業社会の行き詰まりに歯止めをかけ、「コンヴィヴィアルな社会」(自律共生社会)を回復させるためにも、人々の自律的なつながりである「ネットワーク」は不可欠である。 ただし、このネットワーク型組織の可能性を検討するとき考慮に入れるべきことの一つは、いまだネットワークがうまく機能するような社会の諸制度、あるいはその基盤が十分に整ってはいない事実である。したがって、その制度的な整備について本格的に論じるという課題は今後に残されていると考えられる。 |