1.第二次世界大戦後の日本の急速な経済的発展と金融システムとの関連については、これまでも多くの専門家によって分析がなされてきた。そうした分析の多くは、銀行融資を核とする日本の金融システムが、証券市場を主軸とするアングロ・サクソンの金融システムとの形態的相違を強調し、銀行と企業との長期取引関係(それはしばしばメインバンク関係、あるいはメインバンク制度と呼ばれる)が、金融仲介に伴うエージェンシー・コストの削減に寄与してきたことを強調している。金東煥が提出した学位申請論文『戦後日本における銀行-企業間関係:その形成と機能に対する規制と競争の影響』も、そうした試みの延長線上に位置づけられる。 2.ただし金論文は、いくつかの側面において従来の研究を乗り越えようとする野心的な試みとみなすことができよう。第一に、銀行と企業との融資関係について、近年急速に発展しつつある金融契約理論(特に不完全契約理論)の理論を全面的に応用している点である。この面における金論文の分析はRajan(1992)の先駆的な理論分析に依拠しているが、それを日本のメインバンク関係という具体的事例に適用する点で意義のある試みとなっている。 第二に、金論文は、日本のメインバンク関係を銀行と企業との不完全契約の一形態と見ることによって、銀行と企業との間の取引関係のメリットとデメリットを明らかにしている。1980年代以降の企業金融の動向は、有力企業の「銀行離れ」現象を示しているが、これはメインバンク関係が弱まっていることを示唆している。しかしメインバンク関係の変遷を説明するためには、メインバンク関係がもたらす便益だけではなく、費用をも考慮する必要がある。金論文では、メインバンクが企業との取引関係を通じて情報を生産する誘因をもち、借手企業の非効率的行動を抑止できるメリットと、メインバンクが特定企業の経営内容に関する情報を占有することによるデメリットを比較しているのである。 第三に、金論文は理論的分析を踏まえて、金融規制とメインバンク関係の機能との間にどのような関係があるかという、重要ではあるが未解決な研究領域に踏み込んでいる。金論文が直接考察の対象としているのは、いわゆるニューパラダイムと呼ばれる仮説である。この仮説は、青木昌彦(1994)等によって示唆されている次のような命題である。すなわち「メインバンクは借手企業の経営行動を様々な側面からモニターする役割を担うが、その役割を効率的に演じるためには、銀行に競争制限的規制を通じてレントを与えることが必要である」というものである。金論文は、銀行融資市場における競争条件が、銀行と企業との取引関係に及ぼす影響を考察し、とり競争的な貸出市場がむしろ金融仲介の効率性を高める可能性があることを導き出している。これは、先に指摘したメインバンク関係のコストと深くかかわっている。 第四に、金論文の実証分析においては、従来の多くの研究のようにメインバンク関係、あるいは金融系列関係を外生的変数とみなして、メインバンク関係の企業の経営パフォーマンスに及ぼす影響を分析するだけに止まらず、企業のパフォーマンスがメインバンク関係に及ぼす影響を分析している。つまりメインバンク関係は金論文の理論編で説明しているように内生的に説明されるべきものである。借手企業のパフォーマンスとメインバンク関係が相互に関連し合って同時に決定される場合には、メインバンク関係を外生的変数とみなして計測することは結果に偏りをもたらすのである。金論文はこの点に注意を払っているユニークな実証分析を展開している。 3. 以上が金論文の全体を通した特徴であるが、以下では多少立ち入って、論文の構成と内容の概略を説明する。学位申請論文は次のような構成となっている。 I 序 II 銀行・企業関係に関する歴史的サーベイ III メインバンク関係の機能:2期間モデル IV メインバンク関係の形成と変遷 V 実証分析のための事前的準備 VI 実証分析の結果 VII 結び 第II章は企業金融における銀行融資の重要性とその変遷を第二次世界大戦後の日本と韓国について展望している。この章の特徴は、日本のメインバンク関係と比較する形で韓国のいわゆる「主去来銀行制度」の概要が説明されている点である。主去来銀行制度は政府(銀行監督院)の指導に基づいて人為的に形成された銀行・企業の取引関係である点で、日本のメインバンク関係と異なっていること、また株式保有などの点で制約があり、日本のメインバンク関係に比較してモニタリング機能を有効に発揮し得なかった点が述べられている。(因みに、主去来銀行制度は1984年廃止された。)しかし、日本と韓国の金融システムの本格的な比較考察はなされておらず、今後の課題として残されている。 第III章と第IV章は学位論文の核となる理論分析の部分であり、第V章と第VI章における実証分析のために作業仮説を準備している。ここでは比較的単純な銀行と企業との取引関係のモデルが展開されている。このモデルの構造はRajan(1992)に依拠しているが、その基本的な性格は次のように要約できる。資金調達企業は営業活動の途中(中間期)で将来の生産性(あるいは成長性)に関する情報を手に入れることができるが、部外の投資家はこの情報を入手できない。劣悪な生産性しか実現できないという情報が中間期に得られる場合には、当該企業は営業活動の継続を停止して清算することが経済全体としては効率的な判断である。しかし有限責任原則による融資によって資金を調達する企業にとっては、たとえ芳しくない情報が入ってきても営業活動を継続する誘因があると仮定されている。 銀行融資、あるいはメインバンク関係のメリットは企業との長期取引関係を通じて企業の将来性に関する情報を入手し、企業経営者が無駄な営業活動を継続しようとすることを防止できる点に求められる。(中間期に企業の将来性を否定する情報が入ってきたときには企業と銀行の間で再交渉が展開され、銀行から企業へ営業を停止し清算するための補償が支払われる。) しかし特定銀行(メインバンク)が企業との取引関係を通じて情報を占有することは、企業が獲得する将来のレントを収奪する可能性を銀行に与える。これは一種のホールド・アップ問題である。企業は取引を続けてきた銀行との関係を絶って、他の銀行から融資を仰ぐことも不可能ではないが、他の銀行は取引関係がないために、企業の属性を正確に把握できない。そのため企業にとっては高い資本コストに直面せざるを得ない。これがメインバンク関係のコストであり、このコストが企業の投資をパレート最適な水準よりも低めてしまう。(命題1)とくに将来性の高い企業ほど、メインバンク関係に付随するホールドアップ問題から大きなダメージを受ける。(命題2)このメインバンク関係のコストのために、企業の側には銀行とのメインバンク取引を通じない資金調達(すなわち、市場取引)を選択する誘因が生じるのである。 金論文の関心事は、銀行融資市場の競争条件がメインバンク関係に伴うコストにどのような影響を及ぼすかという問題である。この問題が、第III章で展開されたモデルに立脚して第IV章において分析されている。基本的な分析方法は、銀行融資の市場において銀行間の競争が存在しない状況(規制パラダイム)と銀行間に有効な競争が展開されているため個別銀行は参加条件を充足する最低限のレントしか獲得できない状況(競争パラダイム)を比較することである。分析の構造は複雑で、必ずしも説明の手順は明快とは言えないが、結論的に銀行融資市場における銀行間競争は(ニューパラダイム論者が主張するように)メインバンク関係の形成を妨げ、金融仲介の効率性を損なうとは限らないことが明らかにされている。銀行間競争は、むしろメインバンク関係に潜在している銀行による企業の利益収奪の可能性を狭め、企業による過少投資の問題を取り除く効果を持っているのである。とくに成長性の高い企業はメインバンク関係よりも市場取引を選択する誘因を持つことが示されている。 第V章の目的は、第IV章までの理論分析のインプリケーションを実証分析で確かめるための統計理論の基盤を与えることである。まず分析の対象となる標本期間を1965年から70年代中盤までの高度成長期と70年代中盤から90年代初頭までの低成長期に二分する。さらに、前者は規制パラダイムが支配していた期間、後者は競争パラダイムが支配する期間とみなされる。統計理論上の問題点は、個別企業の投資活動やその他のパフォーマンスがメインバンク関係の有無から影響を受けるだけではなく、企業がメインバンク関係を受け入れるか否かをパフォーマンスの状況に応じて選択する可能性があるという点にある。メインバンク関係の形成を内生的選択ダミー変数として扱う計量的分析は、単純なOLSではなくプロビット式による「ミルズ比率の逆数」を含む自己選択モデルとなるであろう。金論文は、この計測方法をHeckmanにしたがって定式化している。 第VI章は第V章で定式化された計量モデルにしたがって、ニューパラダイム仮説が主張するように、メインバンク関係は金融規制が緩和されるとともに解消するか、あるいは金融規制下においてより有意に企業成長に貢献するか否かを統計的に検定している。標本企業は1964年から1994年までの間に一貫して東京証券取引所に上場されていた電気機器産業に属する60社(一部上場企業33社、二部上場企業27社)である。 実証分析の手順は、まず第一段階でメインバンク関係の形成を資本コスト、金融機関借入、内部資金、金融機関の影響力(金融機関保有株式比率で代理)、経営者のオートノミー(経営者の株式保有比率で代理)を説明変数としてプロビットで計測する。第二段階は、企業のパフォーマンスとして設備投資率を被説明変数とし、資本コスト、金融機関借入、内部資金、金融機関保有株比率、経営者の株式保有比率、そしてプロビット計測式から計算されるミルズ比率の逆数を説明変数とする計測である。これらの計測を既に紹介したように、標本期間を高度成長期(1965年〜75年)と低成長期(1976年〜94年)に二分して、それぞれ計測している。計測の結果は、著者の野心的な意図とは裏腹に、必ずしも明確な結果を示していないと思われる。しかし著者の解釈では、計測結果はニューパラダイム仮説、すなわち競争制限的規制の緩和・撤廃がメインバンク関係の解消を促す、あるいは、銀行間競争の激化がメインバンク関係のメリットを減殺するという命題を十分には支持していない。 4. 学位申請論文の評価 以上が学位申請論文の概要である。金東煥は従来から非常に漠然と論じられてきたメインバンクの形成・機能と金融規制の関係に表面から取り組み、ミクロ理論において急速に発展しつつある契約理論を応用してこの問題に理論的な分析を加えようと果敢な試みをおこなった。理論的モデルに関しては、その枠組みは先駆的なRajan(1992)の論文に依拠している点でオリジナリティーに問題はある。しかし日本のメインバンク関係に応用するため、随所に著者なりの工夫が凝らされている点は評価できる。また、実証分析の側面では、自己選択アプローチをメインバンク関係の形成を説明するための手法として応用している点が、斬新な試みとして評価できる。おそらく今後、この研究領域ではこの手法が活発に使われるのではないかと思われる。 ただしいくつかの点で論文に難点が散見することも指摘しておきたい。第一に論文の構成からみて、メインバンク関係についてのこれまでの先行研究の展望が不十分である。このために、この学位申請論文の意味、位置づけ、さらにはオリジナリティーが不明瞭になっている。第二に、この論文が取上げているメインバンク機能は、これまで多くの専門家たちが指摘してきた定型化された事実の一部分(つまり劣悪なパフォーマンス企業の非効率的な営業継続を阻止するという機能)を理論的に検討しているにすぎない。本申請論文の分析の範囲が限定されていることを明示的に記述しておくべきであろう。第三に、理論分析と実証分析の接合が必ずしも明確ではない。実証分析が理論分析から導出される命題とどのように対応しているかをもっと分り易く説明すべきである。 以上のように、提出された学位申請論文は万全のできばえとは言い難い。しかし申請者の絶え間ない努力、研鑚の跡が十分にうかがえる論文であることも認めるべきであろう。審査委員会は、提出された学位申請論文が申請者の研究者としての一定水準以上の資質を示しているとし、博士(経済学)の学位を授与するに値するものと判断した。 |