1. 本論文のタイトルは「連結会計基準の研究」だが、なかでも連結資本や連結利益の概念にかかわる基本問題がその主題になっている。いわゆる個別会計と連結会計の関係や、親会社持分と少数株主持分の関係、あるいは拠出資本と事業資本の関係、といった斬新な切り口から主題に取り組んだ理論的な研究である。全体の構成は以下のとおりである。
序 章 問題の所在
第1章 連結資本と連結利益
第2章 子会社資産の連結
第3章 内部利益の繰延
第4章 子会社投資と持分法
第5章 子会社合併と連結会計
第6章 外貨換算と貨幣資本
補 章 維持すべき資本と利益
終 章 要約と結論
はじめに論文の順序に従って、章ごとの論旨を概観しておこう。連結利益が連結資本の増分として定義される以上、連結決算の個別具体的な基準を解明するには、まず連結資本の概念を検討しておく必要がある。本論文は、親会社株主の持分を連結資本とみる立場と、子会社少数株主持分を含めた出資者全部の持分を連結資本とみる立場とを取り上げ、それぞれの概念と、その基礎とされる連結主体論との関係をはじめに検討する。それが第1章の課題である。
ここで言う連結主体論は連結会計の目的観であり、これにも大きくわけて2つの考え方がある。親会社株主の投資成果を測定するという観点(親会社概念)と、企業集団の業績を測定するという観点(実体概念)の2つである。一般にはこの連結主体論が上述の連結資本概念にそれぞれ対応すると言われるが、本論文によればその関係は必ずしも明確ではなく、特に企業集団それ自体の観点だけで少数株主持分を含めた連結資本概念を導くのは困難とされている。
そうなると、連結資本の範囲を理論的に決めるという試み自体が無意味な作業になりかねない。本論文は、現在の株式会社制度にてらして親会社概念には相当の説得性が認められるものの、他方で少数株主持分を連結資本に含め、少数株主利益を連結利益に含める方法にもそれなりの合理性があることを強調する。実体概念に対応するはずの連結資本概念が、親会社概念と併存するのである。基本的な道具建てを整えるはずのこの章で、むしろ本論文は既存の概念の枠組みにひそむ脆さを指摘する。
続く第2章では、この連結資本の概念をめぐる論点が、連結される子会社資産の範囲や評価のあり方に適用されている。直接の問題は、連結される子会社の資産や負債が、誰の持分に相当するかで違った評価をされる点である。すなわち、親会社の持分にみあう分が親会社の投資勘定に計上された子会社株式の取得価額で評価され、簿価との差額にあたる連結のれんが認識される一方で、少数株主の持分にみあう分は子会社での簿価のまま連結されている点である。
そもそも子会社の資産や負債をすべて連結する「全部連結」が原則なら、誰の持分に相当するかでなぜそれらの評価が変わるのであろうか。それに対して、少数株主に帰属するのれんを認識しないのなら、なぜ親会社持分相当額の資産や負債だけを切り離す「比例連結」の方法が工夫されないのであろうか。そのような素朴な疑問に戻って前章で考察した連結主体論の意味を振り返るのが、この章の課題ということになる。
本章の考察によれば、全部連結でも比例連結でも、親会社株主持分やその変動の計算が変わらない以上、親会社概念だけを根拠にいずれかの方法を選ぶのは困難である。資産の評価額によって会計上のリスクを表わすという理屈でも立てれば、親会社持分に比例した子会社資産の連結が親会社概念から導かれるかもしれないが、そうした理屈にどこまで合理性があるかも疑問である。他方、企業集団そのものを単位とする実体概念に立てば、全部連結が選択されるのは自明である。
仮に全部連結をした場合でも、少数株主持分にみあう子会社資産の評価は親会社持分の計算には影響を与えない。したがって、親会社株主のための連結という観点からは、その分の子会社資産は評価替えしても簿価で連結してもどちらでもよいとしか言えない。それに対して、実体概念に立てば、誰の持分かにかかわりなく連結資産はすべて評価替えされることになろう。また、少数株主持分にみあう連結のれんは、親会社概念からも実体概念からも、計上されるかどうか一義的には決められない。むしろそれは、自家創設のれんをめぐる一般的な会計ルールによって排除されているものとみたほうがよい。
このように、親会社概念や実体概念が、連結会計の基準や実務をどこまで統一的に説明できるかは疑問である。第3章では、グループ企業間の取引から生じた内部利益の繰り延べについて、その点が検討されている。子会社少数株主との取引にかかわる内部利益をどう処理するかは、少数株主持分と連結資本の関係をどうとらえるかによって、つまりそれを連結資本に含めるかどうかで異なると考えられてきたからである。
本章の考察では、実体概念に立って連結資本に少数株主持分を含めた場合、内部利益は全額を控除することになるはずだが、それを連結利益と少数株主持分にどう負担させるかは定まらない。実体概念に立つ連結利益には少数株主利益が含まれており、両者の区分がはじめから問題にならないのである。他方、親会社概念のもとでは、親会社株主に帰属する内部利益を連結利益から控除しなければならないが、少数株主分のほうをどう処理するかまでは決められない。どちらか一方の概念を選ぶだけでは、内部利益を控除する唯一の会計方法は定まらないというのである。
もともと、連結主体論というのは、連結会計を個別会計とは別のものとみるところから生じた議論である。しかし、連結会計が親会社の投資勘定を子会社の資産・負債に置き換えるものである以上、連結の論点は、むしろ投資勘定の評価をめぐる会計基準との関係に移されるべきであろう。そうした観点から、本論文は、投資消去差額が株主にとって回収すべき投下資金にあたること、内部取引ではこの投下資金が回収されないことなどを指摘し、事後的な投資成果の測定という目的にてらして現行の会計方法を説明しようと試みている。
その手始めは、持分法をめぐる第4章の考察である。連結会計だけでなく個別会計にも適用できる持分法は、内部利益の控除や投資消去差額の償却も含めて、被投資会社に対する投下資金の回収計算と、それを通じた投資会社の業績評価という観点から、すべて説明できるというのが本論文の主張である。その点では連結より前に、企業会計一般に共通する問題である。もちろん日本の制度では持分法が個別決算に適用されないが、それも商法の配当規制という、業績の評価とは別の問題として整理されている。
続く第5章では、連結子会社の合併が取り上げられている。問題の核心は、合併直前の連結決算と合併直後の個別決算の関係であり、なかでも連結調整勘定と営業権との関係である。両者は合併時における子会社ののれんだが、その大きさは一般には一致していない。合併直後の営業権は、直前の連結調整勘定から連結開始以来の子会社剰余金増加額を差し引いた額になっている。その分だけ、合併直後の利益剰余金が直前の連結剰余金を下回る。子会社株式が、親会社の取得価額で計上されているためである。
言うまでもなく、連結子会社(特に100%子会社)を吸収合併しても、企業集団の実態は変わらない。会社の貸借対照表も、本来ならそれに影響されないはずである。合併のれんにあたる営業権も、合併直前の連結のれん(連結調整勘定)と一致するのが自然であろう。そのためには、ここで指摘されているように、営業権を、合併時ではなく買収時の子会社純資産額に基づいて計算すればよいのかもしれない。そうすれば、買収後に子会社が稼得した利益剰余金も、そのまま合併会社に引き継がれることになろう。しかし、それでは企業会計の現行ルールと噛み合わない。
本章の考察によると、子会社の合併は、親会社が子会社に投下した資金のうち、子会社において回収された留保利益相当額を親会社が回収する局面でもある。その観点に立てば、合併による子会社利益剰余金の引き継ぎは、配当による回収と同じく親会社の利益として計上されるのかもしれない。持分法やプッシュダウン会計でも、合併前後の貸借対照表を一致させることはできようが、いずれも現行の個別決算制度におさまらず、子会社合併だけのためにこれらを導入するのはむずかしいとされている。
第6章では、海外子会社の連結における外貨建て財務諸表の換算が取り上げられている。そこでは、外貨で測定された属性を換算にあたって維持するという「テンポラル原則」がまず検討され、それが換算のルールを一義的には導けないことが論じられる。原価主義を言うだけでも換算レートは決まらないし、子会社の独立性に着目した本国主義と現地主義の観点も、テンポラル法とカレント・レート法の使い分けを一義的に導けるわけではない。しかも、カレント・レート法の根拠とされる現地主義は、連結の前提と矛盾する可能性もあると言うのである。
また、機能通貨の概念に基づく再測定と再表示の区分も、結局のところ選択可能な換算方法と対応していない。現在の米国基準も、換算の基準を選ぶ決め手を欠いているわけである。本論文はここでふたたび連結主体論に戻り、少数株主の持分が現地通貨で拠出されているときの、その少数株主に帰属する換算差損益を題材として、測定の単位となる通貨を選ぶという観点から連結資本の概念を検討している。わかりにくい議論だが、換算差損益の性格づけも、あるいは換算レートの選択も、その問題に帰着するというのがそこでの結論である。
本論文には、さらに「維持すべき資本と利益」をより一般的に論じた補章がつけられている。そこでは、会計を企業の「内部者」に帰属する成果の計算としたうえで、誰を連結集団の内部者とみるかで誰の拠出資金を連結資本とみるかが決まること、株主の拠出資金と事業の運用資金のどちらを資本とみるかでも、測定の対象となる連結資本の概念が影響されること、などが論じられている。それらは連結会計の問題であるとともに、個別会計を含めた会計ルール一般に共通する検討事項だというわけである。
2. 以上でみたとおり、本論文は、連結される子会社資産の範囲、その評価、連結のれんの認識、内部利益の控除、連結子会社の合併、在外子会社財務諸表の換算など、連結会計の基本的なルールを取り上げ、それらを会計上の資本と利益の概念にてらして体系的に考察したものである。連結の目的観や主体観、あるいは投下資金の回収という業績測定の観点を手がかりとしながら、個々のルールを基礎づける従来からの議論が、それらのルールをどこまで説明できているかを批判的に検討し、体系化に向けて論点の所在を探ろうとした思索の成果である。
これまでの会計基準論には、現行基準を含めた代替的な会計ルールに、いわば合理化のための解釈を与えようとするものが多かった。ここでは、その解釈の一般性が根本から問い直され、それらのルールが所与の前提や目的から一義的に導かれるのかどうかについて、掘り下げた再検討が加えられている。そうした「正当化」の論理の一面性を批判的に解明することで、本論文は従来からの会計基準の通念を覆し、その客観的な理解のためにどのような概念が必要かを論じている。論文全体を通じた主張はやや曖昧だが、個々には理論的に興味深い論点が少なくない。
もちろん、本論文にも改善の余地はある。前提から結果を導くときの厳密さや慎重さは学術研究に不可欠であり、この論文の長所でもあるが、他方では前提となる状況をもっと単純化すれば、限定的でも明確な結果が得られるかもしれない。あるいは、もっと明確な問題が提起できるのかもしれない。また、分析の視点となっている連結主体観ないし目的観と、投下資金の回収に基づく業績測定の観点についても、両者の関係をはじめ不明確なところが見受けられる。
そもそも連結主体論というのは、連結資本と連結利益の概念を決める議論である。それに対して投下資金の回収という観点は、維持すべき資本の概念を所与としたうえ、それがどこまで回収されたかという、利益認識のタイミングを決める議論である。前者はなにが利益かを決め、後者はその利益がいつ生ずるかを決めるものと言ってもよい。したがって、維持すべき連結資本を決めることが本論文の課題なら、前者に代わる役割を後者に求めても意味はない。たかだか、事後計算の性格が確認されるだけであろう。
この論文では、後者の投資回収計算に期待される役割が必ずしもあきらかでない。連結主体論だけでは決まらない資本や利益の概念を、資金の回収という観点を補って一義的に決めようというのか、それとも特定の連結主体論から導かれる多様な連結利益の計算ルールを、より具体的に記述することが課題になっているのか(つまり所与の概念に測定値を与える局面が問題になっているのか)、その点が明確でないため全体の構想を大づかみにとらえるのが容易でない。本論文を難解にしている最大の原因であろう。
また、連結利益の計算方法を比較検討するうえで資金回収の視点が果たしている役割も、とりわけ内部利益の消去に対してその基準を与えるというよりは、さしあたり現行の利益計算のやり方を資金回収の事実によって解釈するだけの結果に終わっているようにみえる。その点も、本論文のスタンスをわかりにくくしている一因かもしれない。
より具体的な個別問題でも、検討の余地は残されている。たとえば完全子会社の合併を取り上げた第5章では、合併直後の営業権と直前の連結調整勘定との不一致が指摘されていた。その差異は取得後に子会社の稼得した利益剰余金に相当し、現行ルールでは、その分の連結剰余金が合併後に引き継がれないとみられていた。しかし、仮に連結調整勘定をこの子会社剰余金の増分と相殺して償却していれば、合併のれんが連結調整勘定の残高と一致し、合併直前の連結剰余金が合併会社の利益剰余金に引き継がれることになる。その可能性は、本章では考慮されていないようである。
また、外貨建て財務諸表の換算を検討した第6章の後半では、在外子会社の少数株主が現地通貨で拠出した資本の、本国通貨への換算に伴う差損益が話題にされている。企業が複数国の通貨で取引をしているときに、利益測定の基礎となる貨幣資本ないし名目資本はどう決まるかを考察するためである。しかし、そこで指摘されている現地通貨建ての少数株主持分を本国通貨に換算した差損益は、当然ながらその換算レートでふたたび現地通貨額に引き戻せば消滅する。測定の単位となる通貨という本章の問題は、本国通貨で測定される会社の利益と現地通貨で測定される(少数)株主の利益とを概念的に区別していれば、これほどわかりにくいものにはならなかったのではなかろうか。
それらの検討課題は残るものの、本論文は連結会計の根本問題に深い考察を加え、従来の通念の一面性をあきらかにしながら新たな問題を提起した労作として十分に評価できる。積み木を積んでは崩すような作業を繰り返す禁欲的な研究姿勢は、時として主題や論旨をわかりにくくする一方で、ややもすれば安直に結果を求めがちな斯界への警鐘にもなっている。当委員会は、本論文が博士(経済学)の学位にふさわしい水準に達していると認めるものである。