学位論文要旨



No 112338
著者(漢字) 勘坂,淳市
著者(英字)
著者(カナ) カンザカ,ジュンイチ
標題(和) 中世イングランドにおける公開市場(オープン・マーケット) : ハンドレッド・ロールズ、権原開示訴訟の分析を中心に
標題(洋)
報告番号 112338
報告番号 甲12338
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第110号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 馬場,哲
 東京大学 教授 廣田,功
 東京大学 教授 森,建資
 東京大学 助教授 大澤,眞理
 東京大学 助教授 小野塚,知二
内容要旨

 市場経済が展開していくためには、単なる「自由化」だけでなく、一定の制度的基盤が必要である。では、こうした「市場制度」は、イングランドにおいてどのように成立していったのか。本稿では、13世紀の公開市場(オープン・マーケット)に焦点を当て、この問題を検討した。

 第1章では、A.スミスの市場論を手がかりに問題の所在を整理した。

 スミスは、ヨーロッパに広く展開した「歳市と市場(fairs and markets)」-本稿ではこれを公開市場(オープン・マーケット)と呼ぶ-について、「かつてどれだけ必要であったとしても、今ではまさしく迷惑なものである」と述べた。

 公開市場(オープン・マーケット)が「かつて必要であった」のは、「乱暴無法」にさらされた社会にあって、そこでは「正義」、すなわち、所有権の安全・契約の遵守が確保されたからに他ならない。市場取引の基盤となる制度が、そこでは実現していたのである。

 しかし、公開市場(オープン・マーケット)は、「今ではまさしく迷惑なもの」になってしまった。

 まず、名誉革命体制を経て、社会全体で「正義」が実現されるようになり、公開市場(オープン・マーケット)が提供してきた「制度」がもはや不必要となった。さらに、公開市場(オープン・マーケット)では、民衆の生存権を第一義とするモラル・エコノミー的観念が支配していたため、そうした観念にもとづく規制が、自由な市場取引を阻害する「迷惑なもの」と意識されるようになったのである。

 所有権の安全・契約の遵守という「正義」も、モラル・エコノミー的観念に支えられていたのだが、「正義」の実現に公開市場(オープン・マーケット)という制度が不要になった時代となれば、所有権の安全・契約の遵守以上の規制をかけようとする公開市場(オープン・マーケット)は、「それを成立させた歴史的基盤を失った後にも存続」してしまった「慣習」として批判されるのである。

 このように、市場制度の発展にとって二面的な性格をもつ公開市場(オープン・マーケット)は、ほとんどが中世に起源をもっていた。しかし、中世の公開市場(オープン・マーケット)は、大塚久雄がいうように、「封建的支配の弱い間隙をぬって」展開したのではない。それは、領主たちによって積極的に開設されていた。モラル・エコノミーがもつ「温情主義(paternalism)」的性格は、このような公開市場(オープン・マーケット)の起源と無関係ではないだろう。領主たちは、「公正な」取引を実現するために、市場の制度的基盤を整備していった。「乱暴無法」にさらされた社会にあっては、公開市場(オープン・マーケット)は「正義」が実現する場として、積極的な意味をもったのである。

 では、公開市場(オープン・マーケット)は、中世社会の領主制のなかで、具体的にはどのように位置づけられていたのか。第2章以降では、この点を検討した。

 第2章では、領主特権の一つであった「市場開設権」に焦点を当てた。

 特に、市場開設証書と、権原開示訴訟、ハンドレッド・ロールズなどとの照合から、当時の市場開設の実態を検討し、市場開設に領主が果たした具体的役割をさぐった。

 その結果、まず、領主が、国王から市場開設証書を得た時期が、市場の起源とは限らなことが明らかになった。国王の証書を得ないまま、「記憶のない時代から(a tempore quonon exisitat moemoria)」開設されてきた市場も多かったのである。

 権原開示訴訟は、領主が市場を開設する以前から、教会などで、市場取引のプロトタイプともいえる「日曜、祭日の集い」が存在したことも教えてくれた。領主は、このような「集い」を、市場開設日の確定、度量衡の設定、パン、エール等の品質管理、市場の治安維持、負債をめぐる争いの処理などを通して、公開市場(オープン・マーケット)として制度化していったのである。本稿では、これを「市場の制度化」と呼ぶ。先の、「記憶のない時代から」開設された公開市場(オープン・マーケット)の多くは、このような「自生的市場」であったと考えられる。

 市場開設領主たちは、自身の公開市場(オープン・マーケット)のために、周辺で競合する市場を抑圧することもあった。領主らはまた、公開市場(オープン・マーケット)に取引を集中させるために、市場外での取引を禁じてもいた。公開市場(オープン・マーケット)は、「封建的支配の弱い間隙をぬって」広がっていったのではなく、領主の権力の一拠点として位置づけられていたのである。

 しかし、領主が積極的に開設した公開市場(オープン・マーケット)でも、衰退してしまうものもあった。「自生的市場」は、ほとんどが後の時代まで存続したが、領主の市場開設証書獲得に「起源」をもつ公開市場(オープン・マーケット)は、有力な領主が開設した市場も含め、その後多くが衰退している。

 いかに領主が熱心であろうと、その働きが市場のあり方を左右する唯一の要因ではない。当時の市場の具体像をさらに明らかにするためには、公開市場(オープン・マーケット)が領主の農民支配の体系でどのような役割を果たしたか、また、市場取引がどのような社会層によって担われたかを検討しなくてはならない。

 第3章は、こうした観点から、ハンドレッド・ロールズに記された農民の保有地、地代負担を手がかりに、領主、農民が市場取引にどのように関わっていたかを考察した。

 コスミンスキーが、「農民経済における交換の発展は、貨幣地代の発展へとみちびいた。他方、領主の経済における発展は、賦役の増強へとみちびいた」と述べるように、賦役の金納化は農民層への貨幣経済の浸透をはかる有力な指標であると捉えられてきた。

 そこでまず、地域間のマナ構造を比較し、特に平野部の大領主たちが、隷農保有地に画一的な地代を課すヴァーゲイト制を梃子に、重い賦役を農民に負担させていたことを明らかにした。賦役は、こうした古典的マナ構造に支えられていたのである。

 平野部で大規模聖界領主が公開市場(オープン・マーケット)を開設する場合も、そのマナの隷農は、ほとんどが重い賦役を負担していた。こうした公開市場(オープン・マーケット)は、直営地産物の集積地として地域外交易をも指向する「領主の経済」の拠点としての性格が強かった。それは、ヴァーゲイト制などの古典的マナ構造の強化によって、領主の農民支配の強化をもたらす「賦役増強型」の市場であったと考えられる。

 一方で、市場開設マナの隷農に高額の貨幣地代が課されていた「貨幣地代増大型」の公開市場(オープン・マーケット)は、丘陵部、沼沢地など古典的マナ構造が発達しなかった地域にあった。こうしたマナでは、領主らは、「農民経済における交換の発展」にいわば寄生するかたちで、農民から高額の地代を得ていたと考えられる。

 また、早くから農民たちを市場取引に巻き込んだ「自生的市場」が存在するマナでは、一般に古典的マナ構造が発展せず、隷農たちも貨幣地代中心の比較的軽微な地代しか負担していなかった。

 さらに、市場開設領主たちは、こうした隷農だけでなく、ときには、市街地保有権を設定するなどして、小土地保有者を積極的に市場開設地に集めることによっても、地代収入の増加を図っていった。

 第4章では、「姓」、とくに、親称姓、地名姓、職業姓を手がかりに、こうした小土地保有者の具体像の解明を中心に分析を進めた。

 親称姓は、とくに、ヴァーゲイト制が維持された古典的マナの隷農に多くみられた。このことは、彼らの保有地が一子相続されていたことを示唆している。こうした地域で相続から排除された次三男たちが小土地保有者の大きな源泉であったと考えられる。

 地名姓は自由土地保有者に多く、姓が示す「出身地」からの移動距離も彼らが長いことが確認できた。また、公開市場(オープン・マーケット)には、市場圏の内部に住んでいた者を中心に、多数の小土地保有者が流入してきたことも明らかになった。こうした小土地保有者の多くは、商工業に関連した職業姓をもつ者たちであった。

 しかし、公開市場(オープン・マーケット)開設地への商工業者の集中は、ただちに大塚の局地的市場圏論の想定を裏付けるものではない。先に述べた、「賦役増強型」の市場を中心に、領主らが古典的マナ構造を維持しながら、商工業者を集中させるという「領主主導公開市場(オープン・マーケット)型」商工業化の拠点となったところも多かったのである。

 これに対し、「自生的市場」では、周囲の古典的マナ構造を掘り崩しながら公開市場(オープン・マーケット)を中心に社会的分業が展開するという「局地的市場圏」に近い形がみられたと思われる。これを「農民主導公開市場(オープン・マーケット)型」商工業化と呼ぶ。

 また、古典的マナ構造の発展が遅れた丘陵部や沼沢地では、市場開設地の外に非農業就業者が散在する「農村立地型」の商工業化が確認できた。こうした地域では、公開市場(オープン・マーケット)に市場取引、商工業を集中させるという領主の意図が十分に実現しなかったと思われる。

 このように中世の領主たちは、市場経済化の一定の進展に対応して、公開市場(オープン・マーケット)を基軸にした収入拡大・農民支配の体系をつくりあげていた。しかし、市場経済のその後の発展は、こうした枠組みにおさまりきらなくなり、14世紀の後半以降は、公開市場(オープン・マーケット)外の「私的取引(private marketing)」が発展してゆく。「封建制の危機」は、こうした領主制的公開市場(オープン・マーケット)体系の瓦解も伴っていた。私的取引でも、所有権の安全・契約の遵守といった「正義」が実現されるようになれば、資本主義的農業や商工業はそれを積極的に利用して成長しようとする。いまや、公開市場(オープン・マーケット)は、彼らにとって「迷惑なもの」となるのである。

審査要旨

 本論文は,市場経済が展開していくためには「自由」だけでなく「規制」ないし「制度」も必要であるという観点から,13世紀のイングランドにおける「公開市場(オープン・マーケット)」に焦点を当てて,その歴史的意義を理論的・実証的に問い直したものである.本論文は全部で5章からなっているが,全体を要約した第5章を除く各章の表題と内容を紹介すれば,以下のようになる.

 第1章「『市場制度』の成立」は総論的な位置を占めるものであり,中世から18世紀に至る公開市場(オープン・マーケット)の機能とその転換の意味を,A.スミスの市場論を手がかりとしつつ,多様な理論的・実証的研究と交錯させながら考察したものである.スミスは「市場制度」を「正義論」として論じ,「正義」つまり所有権と契約の遵守が保証されることが市場の発展の前提であったと考えていた.こうした議論は「取引費用」概念を用いたD.C.ノースの所説につながるものであるが,著者は「市場制度」の成立に対する「遠隔地貿易」の意義を一面的に重視するノースを批判し,局地的・地域的な市場取引の考察の必要性を強調する.そして,その起点であり,スミスによる批判の対象ともなった中世イングランド以来の「歳市と市場」=「公開市場(オープン・マーケット)」に考察対象を定める.

 スミスが「公開市場(オープン・マーケット)」の存在意義を否定したのは,そこでの「規制」には,「正義」を実現して「自由な」取引の前提となる側面と民衆の生存権を何よりも優先させるモラル・エコノミーに基づいて「自由な」取引を阻害する側面の二面があったからである.すなわち,中世の「公開市場(オープン・マーケット)」はそこでのみ「正義」が実現されたために,モラル・エコノミー的規制にもかかわらず,市場取引にとって積極的な意味をもちえたのに対して,近代に入ると「公開市場(オープン・マーケット)」を介さない「私的取引」の公正さが次第に確保され,社会全体に「正義」が実現するようになったために,モラル・エコノミー的規制が自由な取引を阻害するものと意識されるようになったのである.

 こうした認識は大塚久雄の「局地的市場圏」論の批判をも射程に収めるものである.大塚は,中世末イングランドにおける「農村市場」を「都市」の「共同体的規制」から解放された「自由」の場として捉えるが,こうした二分法では,「公開市場(オープン・マーケット)」のもつ二面的性格,とりわけモラル・エコノミー的側面は把握できないからである.実際,そうした領主制的「温情主義」は中世では領主層によって,16世紀には絶対王政によって維持されてきた.著者は,このような問題意識のもとに,従来軽視されてきた中世イングランドの「公開市場(オープン・マーケット)」と領主層の関係を,本論文の主要な実証的課題として設定する.

 第2章「市場開設権と領主層」は,市場開設勅書,権原開示訴訟,ハンドレッド・ロールズ,死後審問調書の包括的分析を通じて,「公開市場(オープン・マーケット)」の開設や制度化に領主層が大きな役割を果たしたことを実証的に明らかにしたものである.その主要な結論は以下の通りである.(1)市場開設領主権を得ることのできた領主は,大規模なマナをもつ有力領主が多かったが,在地領主も少なからず含まれていた.(2)領主が国王から受けた市場開設証書が市場の「起源」であった場合もあるが,証書を得ないまま開設されていた「未公認市場」も数多く存在した,13世紀からの証書の増加は王権の介入の伸張の現われということができる.(3)「未公認市場」は商品取引の自生的性格が強いものであったが,領主層はそれを存続・発展させ,市場開設日の確定,品質・価格の管理,度量衡の査察,市場の治安維持などを行うことによってそれを「公開市場(オープン・マーケット)」として「制度化」する上で大きな役割を果たした.(4)市場の「制度化」は逆に,聖俗大領主による「市の場外取引」の禁止や周辺市場の抑圧という事態を引き起こしたが,それは「特権都市」対「農村市場」(米川伸一)という図式では説明できず,領主権力の力関係に強く規定された.したがって,「公開市場(オープン・マーケット)」は「封建的支配の弱い間隙をぬって」(大塚久雄)広がったのではなく,むしろ領主権力の一拠点であったということができる.(5)「公開市場(オープン・マーケット)」はすべてがその後も長く存続したわけではなく,しかも16世紀には衰退していた市場の多くは13世紀に開設証書を認められたものであった.このことは,国王証書の発行が現実の市場の起点とは限らないことを示している.市場の存続・衰退に領主権力の働きが大きく影響したことは確かであるが,それだけでは不十分であり,ノルマン・コンケスト以前から地域の流通の拠点であった「原生町」の「公開市場(オープン・マーケット)」(「自生的市場」)の多くが存続したという事実に留意すべきである.

 第3章「『農民の貨幣経済』『領主の貸幣経済』と公開市場(オープン・マーケット)」では,1279年のハンドレッド・ロールズを史料として中部イングランドの農村における市場開設と貨幣地代との具体的関係が立ち入って分析される.著者はまずマナ構造にしたがって,対象地域を「ミッドランズ地域平野部」,「ミッドランズ地域丘陵部」,「ケンブリッジ地域」に区分し,隷農の保有地に画一的な地代を課すヴァーゲイト制が発達し,古典的なマナが形成されていた「平野部」とタイプは異なるが非マナ的な他の二地域を「マナ村落一致度」,「画一地代負担面積」といった独自の指標を用いて対比した後,「自生的市場」が非古典的マナに多かったことを指摘する.次いで,領主による賦役の確定が隷農の賦役量増大の重要な手段であると同時に,従来の評価額以上の貨幣地代徴収のための手段でもあったことを確認し,それを前提として,平野部では大所領を中心にヴァーゲイト制が維持されたために,隷農に賦役を中心とした重い地代負担が強いられ,賦役の金納化が進まず,丘陵部では低額の貨幣地代の割合が高かったが,ケンブリッジ地域では高い人口圧を背景としたヴァーゲイトの分裂のために地代負担が重かったことが指摘される.このことは,賦役の金納化が地代の負担増につながる場合もあったことを示している.隷農の地代負担と市場の展開との関連については以下のような整理がなされる.古典的マナ構造をもつ市場開設マナでは,重い賦役負担と領主の積極的市場開設が並存していた.それは直営地生産物の積み出し地としての性格が強い「賦役増強型市場」(「領主経済」の拠点)と規定できる.これに対して,丘陵部での領主による市場開設は,農民が市場に容易に参加できたがゆえに高額の地代の負担が可能となった「貨幣地代型市場」(「農民経済」の拠点)と規定できる.ケンブリッジ地域では,保有地の分割によって地代の増強がはかられた.また「自生的市場」では,その開設マナで隷農が比較的軽い地代しか負担しなかったことが多く,これを第3の類型とすることができる.いずれにしても,農村に開設された市場は,常に賦役の金納化をもたらしたわけではなく,少なくとも13世紀末には貨幣地代の進展は領主の収入増加をもたらすこともありえた.さらに市場開設領主は,隷農保有地だけでなく,商工業者が保有する小保有地や自由ヴァーゲイター保有地からも高額の貸幣地代を得ることができた.したがって,農村市場は全体として領主制のなかにしっかりと位置づけられるべきである.

 第4章「公開市場(オープン・マーケット)と人口移動・『社会的分業』の展開」は,第3章と同じくハンドレッド・ロールズを主たる史料として「姓」の分析を行なうことによって,当時の公開市場(オープン・マーケット)の実態にさらに近づこうとしたものである.姓の種類としては,親称,地名,職業,景観,渾名が挙げられるが,親子関係が強く意識されていたことを意味する親称姓は,ヴァーゲイト制が強い「平野部」の隷農に特に多く,実際その地域では隷農の長子相続によってヴァーゲイト制が維持されていた.これに対して,地名姓は自由土地保有者に多く,それは彼らの開放性・流動性の反映といえる.特に市場開設地には相続から排除され,多くの場合市場圏内に住む隷農の次三男や女性が流入し,小土地保有者として「公開市場(オープン・マーケット)」での取引に従事したことが地名姓の分析から確認される.当時の「社会的分業」の実態を知るためには職業名が手かがりとなるが,大塚久雄の「局地的的市場圏論」や「プロト工業化論」を念頭に置いてそれを分析すると,以下のような結論が得られる.(1)隷農の職業名には役員名や農業関係のものが多いが,「鍛冶屋」のような非農業的なものもあり,特有の「地代」を払っている場合それはいわゆる「デーミウルギー」であったと見なしうる.しかし,貨幣地代のみを払う小土地所有者で非農業的な職業姓をもっていた場合,それは市場向け生産を行なっていた.(2)自然条件と領主の市場開設との関係を考慮すると,平野部の非農業就業者は市場開設地に集中していたが,丘陵部では市場開設地以外に広く非農業就業者が分布していたことが確認される.前者は「局地的市場圏」を想起させるが,それは領主権力の拠点として機能することが多かった.このような商工業の展開は「領主主導公開市場(オープン・マーケット)型」と呼ぶことができる.しかし,平野部でも「自生的」市場が存在するマナでは領主規制が弱く,「局地的市場圏」に近い像を提示しており,こうした商工業の展開は「農民主導公開市場(オープン・マーケット)型」ということができる.他方,後者の丘陵部における金属業の展開は,「プロト工業化論」が想定するものに近く,自然条件や領主規制の弱さに規定された「農村立地型」と規定できる.(3)「公開市場(オープン・マーケット)」にみられる就業構造の多様性は,それが局地的取引の中心であったことをまず反映しているが,特に特化の進んだ「農村立地型」では地域間取引も行なわれていた.

 本論文の貢献としては,以下の3点を挙げることができる.

 第一に,近年の市場経済への関心の国際的高まりという現代的状況,内外のイギリス経済史の研究蓄積,「制度」を重視する新しい経済史の方法,さらにアダム・スミスの市場論などを踏まえた上で,「公開市場(オープン・マーケット)」の歴史的意義という問題を設定し,多くの問題の所在を明らかにしていること.こうした市場経済や近代資本主義の成立の問題にまで踏み込んだ意欲的な問題提起は,以前ほど活発であるとは言いがたいわが国のイギリス中・近世経済史研究に新たな一石を投じたものとして高く評価することができる.

 第二に,本論文の中核部分とも言うべき第2〜4章において,市場開設勅書,権原開示訴訟,あるいは対象地域は限られているとはいえハンドレッド・ロールズなどの公刊一次史料を,体系的に整理・検討し直し,また必要に応じて統計的処理を施したうえで,13世紀イングランドの社会経済的実態に関する多くの興味深い新たな事実を提示していること,この実証的作業は従来の史料操作の方法・視点の限界をも乗り越えようとする徹底したものであり,本論文の最大のメリットということができる.

 第三に,こうした実証的貢献の主なものとしては,13世紀の農村市場成立・発展に果たした領主層の積極的役割を豊富な事実によって裏付けたこと,および大塚久雄の「局地的市場圏」論の根拠を理論的・実証的に検討することによって,それが「公開市場(オープン・マーケット)」の要素と「私的取引」の要素を混交させた概念であり,農村市場のひとつのタイプであったことを指摘したことが挙げられる.

 もとより,本論文にもいくつかの問題点が存在する.

 第一に,第1章は意欲的な内容をもつが,十分な実証を伴わない試論的な部分を多く含んでいるため,総論としての完成度が低く,第2〜4章の実証部分との乖離が大きいことを指摘できる.市場経済・近代資本主義の発展にとって「公開市場(オープン・マーケット)」よりも重要であったことが随所で示唆されている「私的取引」の歴史的意義が十分掘り下げられていないこと,本来18世紀のイギリス史研究のなかから生み出された「モラル・エコノミー」概念が中世や絶対王政期にも拡張して適用された結果,かえってその意味が曖昧になっていること,「公開市場(オープン・マーケット)」における「規制」の二面性の内的関連が明瞭でないこと,そして市場経済の制度的条件を「正義」論に絞り込むスミス理解が一面的であることなどが問題点として挙げられる.

 第二に,実証部分についても分析結果の整理に一層の工夫が望まれる箇所が散見される.とりわけ,第2〜4章の各章で行われている「公開市場(オープン・マーケット)」や商工業の展開の類型化が,視点や対象のずれによるものとはいえ,相互に関連づけられていないため,全体の構図を把握しにくいものとしていることが惜しまれる.第5章を単なる各章の要約に終わらせるのではなく,文字通り「総括」としてまとめ直す努力が必要であったように思われる.

 このような問題点をもつとはいえ,著者が,経済史のこの分野で今後自立的な研究者として研究を進めていくうえで十分な実証能力と問題提起能力をもっていることは疑いない。審査委員会は全員一致で本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるにふさわしいとの結論に達した.

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