学位論文要旨



No 112351
著者(漢字) 櫻井,尋海
著者(英字)
著者(カナ) サクライ,ヒロミ
標題(和) 開殻ドナーから生成する高スピンカチオンジラジカル
標題(洋) High-Spin Cation Diradicals Derived from Open-Shell Donors
報告番号 112351
報告番号 甲12351
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第108号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 小林,啓二
 東京大学 助教授 小川,桂一郎
 東京大学 助教授 村田,滋
 東京大学 助教授 尾中,篤
内容要旨

 通常の有機物質は、反磁性や絶縁性を示すことがその一般的特徴としてあげられ、現在までのところ、磁性材料や電導性材料は、遷移金属元素や希土類元素などを含む無機物質を中心に開発されている。一方、有機分子においても反応中間体として知られているラジカルは、磁性の担い手となる電子スピンを有している。ラジカルは一般に不安定であるが、ヘテロ原子の導入や、不対電子を担う原子または原子団を立体的に保護することにより、ニトロニルニトロキシドや、TEMPOなど、室温・空気中でも安定なラジカルが合成されている。近年、これら分子性の有機ラジカルを用いて、有機磁性物質を開発しようという研究が盛んに行われるようになった。その中でも、新規高スピン分子の設計や、分子間の磁気的相互作用を制御する方法論を確立することは、興味深い研究分野である。このような状況を踏まえ、本論文では、分子内に局在スピンと非局在スピンを持つ高スピン分子の合成とその不対電子間のスピン相関に関する研究、およびこれらの分子を集合化させ、物性を発現するための基礎となる研究についての成果が述べられている。

【開殻ドナーの設計と合成】

 分子内に局在スピンと非局在スピンを、同時に持ったカチオンジラジカルの分子設計を行った。この際、非局在スピンはドナー性のある分子を一電子酸化して発生させ、局在スピンは安定ラジカルを置換基として導入し、2種のスピンが交差共役でつながった系となることを基本方針とした。ここでは酸化前の中性分子を、ラジカル部とドナー部からなる分子と見なし、開殻ドナーと呼ぶ。以上の分子設計に従い、開殻ドナー(DMANN,pAPNNなど)の合成を行い、その構造を、元素分析、X線構造解析等により確認した。開殻ドナーの電子構造の特徴は、以下のようにPMO法により簡便に理解できる(Figure 1)。ドナー部のhomoの対称性がラジカル部のsomoと合わず、むしろラジカル部のnhomoと一致する場合、homoとnhomoが相互作用することになる。その結果、開殻分子のHOMOはSOMOの上に位置する。一電子酸化によりHOMOから電子が抜けることにより、開殻のカチオンジラジカルを生成することが予想される。従って、このカチオンジラジカルには、分子全体に非局在化した軌道を占めるスピンと、ラジカルのsomoに由来する軌道を占める局在化したスピンとが存在することになる。

Figure1.Schematic drawing of the electronic configuration of an open-shell donor.
【開殻ドナーの分子物性】

 開殻ドナーの電子構造を考察するにあたり、サイクリック・ボルタンメトリー法を用いて酸化電位の測定を行った。開殻ドナーの酸化電位は、上記の考察の通り、母骨格のドナー分子やラジカル分子のそれよりも明らかに低くなっており、ドナー部とラジカル(ニトロニルニトロキシド)部の相互作用の存在が証明された。これら開殻ドナーを一電子酸化して得られるカチオンジラジカルの生成の確認、および基底状態のスピン多重度の決定を、極低温でのESRスペクトル測定により行った。本論文で取り扱った開殻ドナーの一電子酸化により生じるカチオンジラジカルは、いずれも基底三重項種であることが明らかになった。これはSOMOを占有する局在電子スピンと、HOMOの一電子酸化により生じたSOMOを占有する非局在電子スピンとの間において、同じ原子軌道を共有していることに由来する正の交換相互作用(J)が働くためと考えられる。即ち、の2種の不対電子軌道(SOMO,SOMO’)が、基底三重項分子としてよく知られているトリメチレンメタン(TMM)の縮退した2つのSOMOと対応している(Figure2)。さらに、三重項のESRスペクトルから求まったの零磁場分裂パラメーターの値は、TMMのそれと非常に近い値であり、類似の電子構造を有していることがわかった。

Figure2.Coefficients of SOMOs for and TMM.

 開殻ドナーから生成した基底三重項カチオンジラジカルが、分子全体に非局在化したスピンを有するという特質を生かし、安定ラジカルが複数置換したドナー分子を合成した。テトラフェニルフェニレンジアミン骨格にニトロニルニトロキシドを2つ置換した開殻ドナーにおいては、一電子酸化により分子内の全てのスピンが整列することが予想される。この系は中性とイオン性で異なる基底状態を持つ、機能性高スピン分子となりうることを指摘した。

【開殻ドナーの電荷移動錯体】

 以上の実験および考察から明らかになった開殻ドナーの電子構造の特徴を利用すると、アクセプターとの交互積層構造を有する電荷移動錯体を作成すれば、Figure3に示すように、多重度の異なる開殻種間に負の交換相互作用が働き、フェリ磁性的スピンシステムが構築されることが期待される。

Figure3.A model for a ferrimagnetic spin system.

 そこで、開殻ドナーpAPNNとクロラニル(CA)からなる錯体の調製を行った。この錯体は吸収スペクトルにおいて、CTバンド(11000cm-1)に帰属される幅広い吸収帯を示す。X線構造解析の結果、pAPNNとCAは交互積層しており(Figure4)、上記のモデルに合致する構造を持つ始めての錯体であることが明らかとなった。磁気的性質としては、この錯体は常磁性体であり、また極低温で弱い反強磁性的相互作用が観測された。また、pAPNNとCAの酸化還元電位の差、IRスペクトル、CAの結合距離などのデータから、この錯体は中性CT錯体であると考えられる。従って、常磁性的に振る舞ったのは、スピンがpAPNNのニトロニルニトロキシド上にのみ存在したことによると解釈される。

Figure4. Crystal structure of pAPNN・CA.

 イオン性CT錯体を合成するために、より酸化電位の低いDMANNとジクロロジシアノベンゾキノンからなる錯体を調整した。この錯体は、吸収スペクトルにおいて長波長(5300cm-1)にCTバンドを有し、僅かながら伝導性を示すことがわかった。また、酸化還元電位の差、IRスペクトルのデータから、この錯体においては、イオン性が基底状態であることが示唆されたものの、常磁性体であることが明らかとなった。

 以上、本論文では、分子全体に非局在化したスピン及び、安定ラジカル部に局在化したスピンといった、性格の異なる2種類のスピンを有するカチオンジラジカルの特異な電子構造について詳細な検討を加え、その本質を明らかにした。また、開殻ドナーを用いた新規スピン系の構築のための分子設計指針について、幾つかの具体的提案を行った。

審査要旨

 従来、磁性とは無縁であった有機物からなる磁性体を構築する科学が、近年めざましい進展を遂げている。これまでの有機磁性体を構成してきた分子は、主にモノラジカルであった。単純に一分子上に一つのスピンを持つ構成要素を集合化させた場合、集合化に伴う物性の発現にはその多様性を含め、自ずと限界がある。また、強磁性体への転移を起こす系は発見されたものの、局在スピンのみの交換相互作用でスピン整列を実現させた場合、その転移温度は極めて低いのが現状である。本論文では、このような状況を踏まえ、有機磁性体の展開に新たな可能性をもたらしうる分子として、一分子上に局在スピンと非局在スピンを持つhigh-spin分子を想定し、いかにしてこのような電子構造を持つ分子を設計し、その磁気特性を実験的に検証したかについて述べられている。具体的には、電子の授受に伴いスピン整列を実現しうる分子として、ドナー骨格とラジカル骨格からなる開殻ドナーを設計・合成している。さらに、この分子を一電子酸化することにより生じる非局在スピンと、安定ラジカル骨格が担っている局在スピンとの間の「スピン相関」に関する研究、およびこれらの分子を集合化させ、物性を発現するための基礎となる研究についての成果が論述されている。

 第一章は、high-spin分子の歴史的背景及び、分子間の磁気的相互作用に関する導入部であり、その流れを受けた新規スピン系を開発する意義について記述されている。

 第二章においては、まずカチオンラジカル部と安定ラジカル部を、交差共役系で連結することにより、非局在スピンと局在スピンを有する基底三重項種が出現しうることを指摘し、その設計指針が明確に述べられている。その指針に沿う形で、いくつかのアミン系開殻ドナーが合成されている。ここで紹介された開殻ドナーの中でも、ジメチルアミノニトロニルニトロキシド(DMANN)のカチオンジラジカルを、基底三重項カチオンジラジカルのプロトタイプとして位置づけ、最も重要な基底三重項種であるトリメチレンメタン(TMM)と比較することにより、その電子構造の本質を解明している。

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 まず、DMANNを室温でヨウ素により一電子酸化し、三重項種のESRスペクトルのシグナル強度の温度依存性より、このカチオンジラジカルが、基底三重項種であることを明らかにしている。さらに、の零磁場分裂パラメーターDの値が、TMMのそれと非常に近い値であることに着目し、その原因をの中心炭素(ニトロニルニトロキシドの炭素)に負の電子スピン密度が誘起され、これによりD値に負の寄与が働き、見かけのD値が小さくなっているためと考察している。一方、DMANNのカチオンジラジカルの非縮退したSOMOsの係数の分布が、TMMの縮退したSOMOsのそれと非常に類似していることを指摘し、がTMMと同様にnon-disjointな系として基底三重項となることを合理的に説明づけている。筆者は以上の知見を総合的に考察することにより、「がTMMの末端炭素をヘテロ原子に置き換えたTMMのヘテロアナローグである」ことを明らかにした。以上の結果を敷衍し、ここで開拓された開殻ドナーのカチオンジラジカル種の一般的特徴は、「局在したスピンと非局在化したスピンの二種が存在し、かつこれらの間に強磁性的相互作用が働いている」点にあることを結論づけている。

 第三章においては、前章で検討した分子設計指針をドナー部に芳香環を持つ開殻ドナーに拡張し、特色ある電子構造の一般性について検証している。まず、開殻ドナーの一電子酸化状態の置換様式による違いを詳細に吟味するために、p-及びm-ジメチルアミノフェニルニトロニルニトロキシド(pAPNN,mAPNN)を合成し、比較を行なっている。ESRと半経験的分子軌道計算の結果から、パラ体においてはカチオンジラジカルは基底三重項であることが強く示唆され、一方、メタ体については基底三重項もしくは、一重項が<10cal/mol安定であり、現時点ではどちらであるか断定できないことが指摘されている。

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 次いで、筆者はこれらの新規スピン系の発展系として、分子内に複数の安定ラジカルを持つ開殻ドナー(2NNPD,3NNTPA)を合成し、これらの分子を一電子酸化することにより、「中性で常磁性的に振る舞っていた複数のスピン間に、強磁性的相互作用を導入し得る」ことを示している。さらに、この新規スピン系に可逆的な酸化還元過程を持ち込むことにより、分子内の磁気的相互作用が自在に切り替えられる機能性高スピンシステムの実現が可能となろう。このような系は、現在まで提案された事が無く、極めて独創性の高いものである。

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 第四章においては、これまで述べたhigh-spinカチオンジラジカルを与える開殻ドナーを用いた電荷移動錯体の合成と、その物性測定に関する結果が述べられている。筆者は、ここで合成された開殻ドナーが、アクセプター分子と交互積層し、さらに電子の授受を起こしたならば、フェリ磁性的なスピン系を与えうることに注目し、pAPNNをクロラニルとベンゼン溶媒から再結晶することにより、上記のスピン系としての要請を満足しうる結晶構造を持つ錯体を得ることに成功している。この錯体内での分子配列をみると、開殻ドナーのベンゼン環部のHOMOと、アクセプターのキノン部のLUMOが、同位相に重なっており、電荷移動相互作用の存在が示唆される。実際、900nmに電荷移動吸収帯を持つことが見出された。このような開殻ドナーとアクセプター分子からなる電荷移動錯体は、現時点まで報告されておらず、この結晶が得られたことの意義は大きい。さらに磁化率の測定が行われ、この錯体が常磁性体であることが明らかにされた。なおこの錯体が常磁性的な挙動を示したのは、電荷移動度が不足していたためであり、イオン性の基底状態を持つ錯体が得られたならば、フェリ磁性的相互作用が観測されうる系であることを指摘している。上記の結果を踏まえ、イオン性の電荷移動錯体を合成するために、より酸化電位の低いDMANNとジクロロジシアノキノジメタン(DDQ)からなる錯体が、調製されている。この錯体は、基本的には常磁性体であるが、長波長(1900nm)に電荷移動吸収帯を有すると共に、電導度は小さいながらも導電性を示すことが見出された。即ち、この錯体は、磁性と伝導性とを合わせ持つ錯体である。この結果から、開殻ドナーとアクセプター分子が分離積層構造をとったならば、有機強磁性金属の構築も可能であることが提示されている。

 以上、本論文では、極めて特徴のある電子構造を有する開殻ドナーの分子設計を行うと共に、これら開殻ドナーの一電子酸化状態が、性格の異なる2つのスピンを分子内に有する新規スピン系であることを詳細に明らかにした。本論文において開拓された開殻ドナーとアクセプター分子からなる集合体は、電荷移動相互作用や伝導電子を介したスピン整列機構により、高い転移点を持つ磁性構造体を実現していく上でも、重要な位置を占めるといえよう。

 これらを総合して、審査委員会は本論文を博士(学術)の学位授与の対象として、十分なものであると判定した。

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