従来、磁性とは無縁であった有機物からなる磁性体を構築する科学が、近年めざましい進展を遂げている。これまでの有機磁性体を構成してきた分子は、主にモノラジカルであった。単純に一分子上に一つのスピンを持つ構成要素を集合化させた場合、集合化に伴う物性の発現にはその多様性を含め、自ずと限界がある。また、強磁性体への転移を起こす系は発見されたものの、局在スピンのみの交換相互作用でスピン整列を実現させた場合、その転移温度は極めて低いのが現状である。本論文では、このような状況を踏まえ、有機磁性体の展開に新たな可能性をもたらしうる分子として、一分子上に局在スピンと非局在スピンを持つhigh-spin分子を想定し、いかにしてこのような電子構造を持つ分子を設計し、その磁気特性を実験的に検証したかについて述べられている。具体的には、電子の授受に伴いスピン整列を実現しうる分子として、ドナー骨格とラジカル骨格からなる開殻ドナーを設計・合成している。さらに、この分子を一電子酸化することにより生じる非局在スピンと、安定ラジカル骨格が担っている局在スピンとの間の「スピン相関」に関する研究、およびこれらの分子を集合化させ、物性を発現するための基礎となる研究についての成果が論述されている。 第一章は、high-spin分子の歴史的背景及び、分子間の磁気的相互作用に関する導入部であり、その流れを受けた新規スピン系を開発する意義について記述されている。 第二章においては、まずカチオンラジカル部と安定ラジカル部を、交差共役系で連結することにより、非局在スピンと局在スピンを有する基底三重項種が出現しうることを指摘し、その設計指針が明確に述べられている。その指針に沿う形で、いくつかのアミン系開殻ドナーが合成されている。ここで紹介された開殻ドナーの中でも、ジメチルアミノニトロニルニトロキシド(DMANN)のカチオンジラジカルを、基底三重項カチオンジラジカルのプロトタイプとして位置づけ、最も重要な基底三重項種であるトリメチレンメタン(TMM)と比較することにより、その電子構造の本質を解明している。 まず、DMANNを室温でヨウ素により一電子酸化し、三重項種のESRスペクトルのシグナル強度の温度依存性より、このカチオンジラジカルが、基底三重項種であることを明らかにしている。さらに、の零磁場分裂パラメーターDの値が、TMMのそれと非常に近い値であることに着目し、その原因をの中心炭素(ニトロニルニトロキシドの炭素)に負の電子スピン密度が誘起され、これによりD値に負の寄与が働き、見かけのD値が小さくなっているためと考察している。一方、DMANNのカチオンジラジカルの非縮退したSOMOsの係数の分布が、TMMの縮退したSOMOsのそれと非常に類似していることを指摘し、がTMMと同様にnon-disjointな系として基底三重項となることを合理的に説明づけている。筆者は以上の知見を総合的に考察することにより、「がTMMの末端炭素をヘテロ原子に置き換えたTMMのヘテロアナローグである」ことを明らかにした。以上の結果を敷衍し、ここで開拓された開殻ドナーのカチオンジラジカル種の一般的特徴は、「局在したスピンと非局在化したスピンの二種が存在し、かつこれらの間に強磁性的相互作用が働いている」点にあることを結論づけている。 第三章においては、前章で検討した分子設計指針をドナー部に芳香環を持つ開殻ドナーに拡張し、特色ある電子構造の一般性について検証している。まず、開殻ドナーの一電子酸化状態の置換様式による違いを詳細に吟味するために、p-及びm-ジメチルアミノフェニルニトロニルニトロキシド(pAPNN,mAPNN)を合成し、比較を行なっている。ESRと半経験的分子軌道計算の結果から、パラ体においてはカチオンジラジカルは基底三重項であることが強く示唆され、一方、メタ体については基底三重項もしくは、一重項が<10cal/mol安定であり、現時点ではどちらであるか断定できないことが指摘されている。 次いで、筆者はこれらの新規スピン系の発展系として、分子内に複数の安定ラジカルを持つ開殻ドナー(2NNPD,3NNTPA)を合成し、これらの分子を一電子酸化することにより、「中性で常磁性的に振る舞っていた複数のスピン間に、強磁性的相互作用を導入し得る」ことを示している。さらに、この新規スピン系に可逆的な酸化還元過程を持ち込むことにより、分子内の磁気的相互作用が自在に切り替えられる機能性高スピンシステムの実現が可能となろう。このような系は、現在まで提案された事が無く、極めて独創性の高いものである。 第四章においては、これまで述べたhigh-spinカチオンジラジカルを与える開殻ドナーを用いた電荷移動錯体の合成と、その物性測定に関する結果が述べられている。筆者は、ここで合成された開殻ドナーが、アクセプター分子と交互積層し、さらに電子の授受を起こしたならば、フェリ磁性的なスピン系を与えうることに注目し、pAPNNをクロラニルとベンゼン溶媒から再結晶することにより、上記のスピン系としての要請を満足しうる結晶構造を持つ錯体を得ることに成功している。この錯体内での分子配列をみると、開殻ドナーのベンゼン環部のHOMOと、アクセプターのキノン部のLUMOが、同位相に重なっており、電荷移動相互作用の存在が示唆される。実際、900nmに電荷移動吸収帯を持つことが見出された。このような開殻ドナーとアクセプター分子からなる電荷移動錯体は、現時点まで報告されておらず、この結晶が得られたことの意義は大きい。さらに磁化率の測定が行われ、この錯体が常磁性体であることが明らかにされた。なおこの錯体が常磁性的な挙動を示したのは、電荷移動度が不足していたためであり、イオン性の基底状態を持つ錯体が得られたならば、フェリ磁性的相互作用が観測されうる系であることを指摘している。上記の結果を踏まえ、イオン性の電荷移動錯体を合成するために、より酸化電位の低いDMANNとジクロロジシアノキノジメタン(DDQ)からなる錯体が、調製されている。この錯体は、基本的には常磁性体であるが、長波長(1900nm)に電荷移動吸収帯を有すると共に、電導度は小さいながらも導電性を示すことが見出された。即ち、この錯体は、磁性と伝導性とを合わせ持つ錯体である。この結果から、開殻ドナーとアクセプター分子が分離積層構造をとったならば、有機強磁性金属の構築も可能であることが提示されている。 以上、本論文では、極めて特徴のある電子構造を有する開殻ドナーの分子設計を行うと共に、これら開殻ドナーの一電子酸化状態が、性格の異なる2つのスピンを分子内に有する新規スピン系であることを詳細に明らかにした。本論文において開拓された開殻ドナーとアクセプター分子からなる集合体は、電荷移動相互作用や伝導電子を介したスピン整列機構により、高い転移点を持つ磁性構造体を実現していく上でも、重要な位置を占めるといえよう。 これらを総合して、審査委員会は本論文を博士(学術)の学位授与の対象として、十分なものであると判定した。 |