低速の多価イオンが金属表面に近づくと、金属表面から数原子層〜十数原子層程度の距離の真空中で、金属中のフェルミ面付近の電子がイオンの高励起状態へと共鳴的に移行する。この移行は金属に近づくにつれ連続的に起こり、結果として多重高励起状態原子(イオン)が生成される。これを第一世代の中空原子という。第一世代の中空原子は、イオンに働く鏡像力のため、長く見積もっても0.1ps程度しか真空中に存在できず、金属表面と衝突する。イオンが金属に衝突した後にも、内殻空孔のエネルギーレベルが十分深ければ、金属中の多数個の電子がイオンの励起状態へと移行する。すなわち、金属中でもイオンは多重高励起状態になる。これを第二世代の中空原子という。中空原子はオージェ電子放出やX線放出の過程を経て基底状態の原子へと緩和していくため、中空原子の性質を調べる手法の一つとしてこれらの電子またはX線を分光することが考えられる。私は博士課程においてこれら二種類の中空原子に注目し、中空原子からの放出X線を通して、その生成および消滅過程に関し実験的に研究してきた。 まず、第二世代の中空原子に関する研究について述べる。私はアルゴン多価イオンからの放出L-X線分光を行い、標的、価数(q)、イオンの運動エネルギー(Ek)の依存性を系統的に調べた。例として120keV Arq+(q=7〜14)をBe標的に衝突させた際に観測されるAr L-X線スペクトルを図1に示す。8価より低価数ではX線収量の価数依存性はほとんど見られなかった。X線収量は9価以上で価数と共に急激に増加し、X線スペクトルのピーク位置も単調に増加した。X線収量の運動エネルギー依存性を調べると、8価以下では運動エネルギーが増加するとX線収量は急激に増加した。9価ではその依存性は弱く、また11価以上では運動エネルギー依存性はほとんど見られなかった。 我々の実験結果から、Arからの放出X線(Yp)は、その価数が平衡に達する以前に放出されるX線(Ypn)と、価数が平衡に達した後に放出されるX線(Ype)に分けて考えると良いことが分かった。前者は、入射アルゴンイオンが始めから持っていたL殻空孔の緩和に由来するので、入射アルゴンの価数に依存するがその運動エネルギーには依存しない。後者は、固体中での衝突励起によるL殻空孔生成-緩和過程に由来するので、イオンの運動エネルギーに依存するが価数には依存しない。すなわち、 の関係がある。ここでEはX線のエネルギーである。Arの場合、8価以下ではL殻空孔を持っていないので、X線強度は運動エネルギーのみに依存する。9価以上では価数、運動エネルギー共に依存するが、特に高価数(q≧11)では上式第一項によるX線が第二項によるX線に比べ非常に強くなるので、運動エネルギーに依存しなくなると考えられる。 図1 さらに、前者の過程は最初から存在しているL殻空孔が一つづつ埋まっていく過程に対応していると考えられる。L殻空孔数がnL個から(nL-1)個に減少するときに放出されるX線(I(nL))は以下のように表すことができる。 但し、nL=q-8。図2に図1のスペクトルから得られたdI(nL)/dEを示す。それぞれの空孔数でのスペクトルのピークエネルギーは、3s-2p遷移に対応しており、電子はs状態に選択的に捕獲されることがわかった。 図2 次に、第一世代の中空原子に関する研究について述べる。通常この種の原子に関する研究は、平らな表面にイオンを入射することによってなされてきた。この場合、生成された第一世代の中空原子は短時間内に表面と衝突してしまうため、その研究は非常に困難である。我々は多数個の細孔が規則正しく並んでいる薄膜標的(マイクロキャピラリー)に多価イオンを透過させることにした。この場合、生成された第一世代の中空原子は、表面と衝突することなく真空中に取り出されると考えられる。私は標的材質(ニッケル、アルミナ)、イオン種(N6+、Ne9+)、イオンの運動エネルギーを変化させて透過後の価数分布測定、放出X線のエネルギースペクトル測定、透過してきた励起原子の寿命測定を行った。 図3に2.1keV/u N6+イオンをニッケルマイクロキャピラリーに入射、透過後のNイオンの価数分布を示す。この価数分布は、表面でイオンを小角散乱させた後に得られる分布と定性的にも大きく異なっている。これは、期待した通り、入射多価イオンがマイクロキャピラリー標的を透過する際に、表面と衝突することなく真空中に取り出されたことを示している。 図3 X線スペクトルの観測から、透過後のイオンのうち一部は、K殻に空孔を持つ励起状態にあることが分かった。特に2.1keV/u N6+イオン入射の場合、透過後N2+イオンまでの価数でその一部は励起イオンであることが分かった。また、X線スペクトルのピーク位置は、固体に正面衝突させたときに得られるX線スペクトル(すなわち第二世代の中空原子からのX線スペクトル)のピーク位置よりも、高エネルギー側にシフトした。これは取り出された励起イオンのL殻電子数が少ないことを意味している。 図4に2.1keV/u N6+イオン入射の際のX線収量の時間依存性を示す。3〜5価の透過イオンに関して、寿命がnsオーダーの非常に安定化された励起イオンが形成されていることが分かった。励起イオンの電子配位については、まだ良く分かっていないが、9keV/u Ne9+をアルミナマイクロキャピラリーに透過させた際に得られた励起イオンの内殻電子配位に関しては、X線のエネルギーと寿命から、1s2s2p 4P状態であろうと思われる。 図4 以上まとめると、私は、第一世代、第二世代の中空原子に関して実験的に多くの知見を得ることができた。第二世代の中空原子に関しては、X線観測を通してこの中空原子の緩和過程をとらえることができた。特に、金属中の電子はイオンのs状態に捕獲されることを明らかにした。また、第一世代の中空原子に関しては、N、NeのK殻空孔を持つ長寿命の中空原子を真空中に取り出すことに初めて成功した。この実験手法は第一世代の中空原子の分光手段として、非常に有力な手法となると考えられる。 |