学位論文要旨



No 112352
著者(漢字) 二宮,史郎
著者(英字)
著者(カナ) ニノミヤ,シロウ
標題(和) 中空原子の研究 : その生成と消滅
標題(洋) Study of hollow atom : Its formation and decay
報告番号 112352
報告番号 甲12352
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第109号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山崎,泰規
 東京大学 教授 兵頭,俊夫
 東京大学 教授 小牧,研一郎
 東京大学 助教授 久我,隆弘
 電気通信大学 教授 大谷,俊介
内容要旨

 低速の多価イオンが金属表面に近づくと、金属表面から数原子層〜十数原子層程度の距離の真空中で、金属中のフェルミ面付近の電子がイオンの高励起状態へと共鳴的に移行する。この移行は金属に近づくにつれ連続的に起こり、結果として多重高励起状態原子(イオン)が生成される。これを第一世代の中空原子という。第一世代の中空原子は、イオンに働く鏡像力のため、長く見積もっても0.1ps程度しか真空中に存在できず、金属表面と衝突する。イオンが金属に衝突した後にも、内殻空孔のエネルギーレベルが十分深ければ、金属中の多数個の電子がイオンの励起状態へと移行する。すなわち、金属中でもイオンは多重高励起状態になる。これを第二世代の中空原子という。中空原子はオージェ電子放出やX線放出の過程を経て基底状態の原子へと緩和していくため、中空原子の性質を調べる手法の一つとしてこれらの電子またはX線を分光することが考えられる。私は博士課程においてこれら二種類の中空原子に注目し、中空原子からの放出X線を通して、その生成および消滅過程に関し実験的に研究してきた。

 まず、第二世代の中空原子に関する研究について述べる。私はアルゴン多価イオンからの放出L-X線分光を行い、標的、価数(q)、イオンの運動エネルギー(Ek)の依存性を系統的に調べた。例として120keV Arq+(q=7〜14)をBe標的に衝突させた際に観測されるAr L-X線スペクトルを図1に示す。8価より低価数ではX線収量の価数依存性はほとんど見られなかった。X線収量は9価以上で価数と共に急激に増加し、X線スペクトルのピーク位置も単調に増加した。X線収量の運動エネルギー依存性を調べると、8価以下では運動エネルギーが増加するとX線収量は急激に増加した。9価ではその依存性は弱く、また11価以上では運動エネルギー依存性はほとんど見られなかった。

 我々の実験結果から、Arからの放出X線(Yp)は、その価数が平衡に達する以前に放出されるX線(Ypn)と、価数が平衡に達した後に放出されるX線(Ype)に分けて考えると良いことが分かった。前者は、入射アルゴンイオンが始めから持っていたL殻空孔の緩和に由来するので、入射アルゴンの価数に依存するがその運動エネルギーには依存しない。後者は、固体中での衝突励起によるL殻空孔生成-緩和過程に由来するので、イオンの運動エネルギーに依存するが価数には依存しない。すなわち、

 

 の関係がある。ここでEはX線のエネルギーである。Arの場合、8価以下ではL殻空孔を持っていないので、X線強度は運動エネルギーのみに依存する。9価以上では価数、運動エネルギー共に依存するが、特に高価数(q≧11)では上式第一項によるX線が第二項によるX線に比べ非常に強くなるので、運動エネルギーに依存しなくなると考えられる。

図1

 さらに、前者の過程は最初から存在しているL殻空孔が一つづつ埋まっていく過程に対応していると考えられる。L殻空孔数がnL個から(nL-1)個に減少するときに放出されるX線(I(nL))は以下のように表すことができる。

 

 但し、nL=q-8。図2に図1のスペクトルから得られたdI(nL)/dEを示す。それぞれの空孔数でのスペクトルのピークエネルギーは、3s-2p遷移に対応しており、電子はs状態に選択的に捕獲されることがわかった。

図2

 次に、第一世代の中空原子に関する研究について述べる。通常この種の原子に関する研究は、平らな表面にイオンを入射することによってなされてきた。この場合、生成された第一世代の中空原子は短時間内に表面と衝突してしまうため、その研究は非常に困難である。我々は多数個の細孔が規則正しく並んでいる薄膜標的(マイクロキャピラリー)に多価イオンを透過させることにした。この場合、生成された第一世代の中空原子は、表面と衝突することなく真空中に取り出されると考えられる。私は標的材質(ニッケル、アルミナ)、イオン種(N6+、Ne9+)、イオンの運動エネルギーを変化させて透過後の価数分布測定、放出X線のエネルギースペクトル測定、透過してきた励起原子の寿命測定を行った。

 図3に2.1keV/u N6+イオンをニッケルマイクロキャピラリーに入射、透過後のNイオンの価数分布を示す。この価数分布は、表面でイオンを小角散乱させた後に得られる分布と定性的にも大きく異なっている。これは、期待した通り、入射多価イオンがマイクロキャピラリー標的を透過する際に、表面と衝突することなく真空中に取り出されたことを示している。

図3

 X線スペクトルの観測から、透過後のイオンのうち一部は、K殻に空孔を持つ励起状態にあることが分かった。特に2.1keV/u N6+イオン入射の場合、透過後N2+イオンまでの価数でその一部は励起イオンであることが分かった。また、X線スペクトルのピーク位置は、固体に正面衝突させたときに得られるX線スペクトル(すなわち第二世代の中空原子からのX線スペクトル)のピーク位置よりも、高エネルギー側にシフトした。これは取り出された励起イオンのL殻電子数が少ないことを意味している。

 図4に2.1keV/u N6+イオン入射の際のX線収量の時間依存性を示す。3〜5価の透過イオンに関して、寿命がnsオーダーの非常に安定化された励起イオンが形成されていることが分かった。励起イオンの電子配位については、まだ良く分かっていないが、9keV/u Ne9+をアルミナマイクロキャピラリーに透過させた際に得られた励起イオンの内殻電子配位に関しては、X線のエネルギーと寿命から、1s2s2p 4P状態であろうと思われる。

図4

 以上まとめると、私は、第一世代、第二世代の中空原子に関して実験的に多くの知見を得ることができた。第二世代の中空原子に関しては、X線観測を通してこの中空原子の緩和過程をとらえることができた。特に、金属中の電子はイオンのs状態に捕獲されることを明らかにした。また、第一世代の中空原子に関しては、N、NeのK殻空孔を持つ長寿命の中空原子を真空中に取り出すことに初めて成功した。この実験手法は第一世代の中空原子の分光手段として、非常に有力な手法となると考えられる。

審査要旨

 本論文は、低速の多価イオンと固体表面の相互作用で生成される多重高励起状態(中空原子、或いは、中空イオンと呼ばれる)を、表面上空で形成される第1世代の中空原子、表面下で形成される第2世代の中空原子に分類し、それぞれを系統的に研究している。本論文を特徴づけているのは、第1世代の中空原子研究のために用いられた「マイクロキャピラリー」標的と、第2世代の中空原子研究のために用いられた「L殼空孔数」の異なる多価イオンである。

 本論文は、1.Introduction、 2.Hollow atom in the second generation、 3.Hollow atom in the first generation、 4.Summary、 の全4章からなっている。

 第1章前半は、本研究の背景、特に、従来行われてきた低速多価イオンと表面の相互作用について、各種の実験事実と標準的な理論モデルを検討し、これまでの研究でなにが明らかにされ、どのようなことが未整理のままで残されているかについて適切にまとめている。特に、多価イオンと金属表面の相互作用をおおよそ説明できるとされている「古典的バリア乗り越えモデル(Classical over Barrier Model)」の適用範囲についてその有効性と問題点について考察している。第1章の後半は、本研究に用いられた各種実験装置の説明に当てられている。

 第2章では、表面下で形成される第2世代の中空原子が研究対象になっている。まず、これまで行われてきた研究について簡単なまとめをした後、入射イオンの内殻空孔数が現象を包括的に理解する上で重要なパラメータになるとの認識が述べられる。次いで、Al,Be、C、Ptといった原子番号、バンド構造等の大きく異なる金属、半金属標的にArイオンを衝突させ、その際、放出されるArLX線のエネルギースペクトルを、入射イオンの運動エネルギー、L殼空孔数などの関数として測定し、これを解析することによって、多重内殼空孔が固体中で継時的に埋められていく過程の一般的なシナリオを提示している。

 第3章は、第1世代の中空原子がテーマとなっている。まず、標的に近づくイオンは、自らの鏡像電荷によって表面方向に加速されるので、たとえ第1世代の中空原子が表面近傍で形成されても、短時間(10-14秒程度)の内に表面と衝突するため、これに起因する信号を明確に分離して観測することが非常に困難であることが指摘される。これは平坦な表面を持った標的では避けることのできない本質的な問題である。この困難を回避するため、本研究では、直線状で内径100nm程度、長さ1-10m程度のNi、及び、Al2O3の微細キャピラリーを標的として採用している。低速多価イオンをキャピラリーに沿って入射することにより、(1)電子を捕獲できる程度にはキャピラリー内側表面に近づきながら、表面と激突する前に標的から逃れ出るイオンが存在する、(2)荷電変換を被っているイオンの割合は、古典的バリア乗り越えモデルが予想する程度の量である、(3)荷電変換により多くの電子を励起状態に持っているイオンのかなりの部分はK殻に空孔を持ったまま非常に安定化され(寿命10-9秒程度)た状態にある、等が明らかにされている。また、観測された長寿命状態のいくつかについては、その電子配置も特定されている。

 このように、本研究は、キャピラリー標的を用いて第1世代の中空原子の形成過程とその性質を、L殼空孔数を変えながらイオンのX線を測定することにより第2世代の中空原子の内殻空孔の消滅過程を系統的に研究し、低速多価イオンと物質の相互作用を新しい視点から光を当てたものといえる。

 本論文に含まれるすべての研究は、数人の研究者との共同作業を必要とするものであるが、論文提出者が主体となって実験計画の立案、実験、そして分析を行ったもので、論文提出者の寄与は十分であると判断される。

 以上の理由により、審査員全員は、論文提出者が博士(学術)の学位を受けるにふさわしく、合格であると判定した。

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