学位論文要旨



No 112353
著者(漢字) 青木,優
著者(英字)
著者(カナ) アオキ,マサル
標題(和) メタステーブル原子を用いた電子分光による有機超薄膜の研究
標題(洋)
報告番号 112353
報告番号 甲12353
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第110号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 増田,茂
 分子科学研究所 助教授 永田,敬
 東京大学 教授 山崎,泰規
 東京大学 教授 小林,啓二
 東京大学 教授 小島,憲道
内容要旨 【序論】

 最近、Langmuir-Blodgett(LB)膜や自己組織化膜など有機分子や有機金属錯体を集合化させて新しい物性や機能性を発現させようとする研究が盛んである。これは素材としての有機分子や錯体が多種多様な電子構造や立体構造を持つためであるが、高度な秩序構造を持つ薄膜を構築することは必ずしも容易ではない。その大きな要因として、有機超薄膜を作製する際に単分子層ごとの膜成長過程や分子の集合状態を追跡・検出する有効な手法が乏しいことが挙げられる。

 本研究では、塩化アルミニウムフタロシアニン(1)-(3)、チタニルフタロシアニン、ハロゲン化アルキルトリクロロシラン自己組織化膜を取り上げた。これらの有機超薄膜の電子状態や分子配向を鋭敏にとらえるために、希ガスの準安定励起原子を励起源とするメタステーブル原子電子分光(MAES)と紫外光電子分光(UPS)を用いた。ここでは紙面の都合上、図1のような塩化アルミニウムフタロシアニン(ClAlPc)の結果のみを示す。

図1 ClAlPcの分子構造

 またペロブスカイト型酸化物であるLaCoO3(4)も試料として取り上げた。

【原理】

 MAESはHe(23S:19.8eV)などの準安定原子を固体試料に衝突させ、放出された電子をエネルギー分析する方法である。絶縁物や本研究で取り上げた有機超薄膜では、Heは主にペニングイオン化過程で脱励起する。この過程で得られるスペクトルを以下ではペニングイオン化スペクトル(Penning lonization Electron Spectrum:PIES)と呼ぶ。

図2吸着分子の配向とPIES

 Heはフォトンや電子とは異なり、固体内部には浸入できないので、PIESでは固体表面最上層の電子状態が選択的に反映される。またスペクトルの相対バンド強度を解析することにより薄膜最上層の電子分布や分子配向に関する情報が得られる。なぜならば、図2のようにAB分子がA原子を真空側に向けて配向した場合、A原子に分布している1軌道はHeと有効に相互作用するので強いバンド強度を与えるが、B原子に分布している2軌道は弱いバンド強度を与えるからである。

【実験】

 UPSとPIESの測定は超高真空電子分光装置で行った。超薄膜の作製は真空蒸着法で行い、その膜厚制御には水晶振動子膜厚計を用いた。以下では蒸着量の単位として、平面性分子が平滑な基板上で平らな配向をとり、緊密にかつ均一に並んだ単分子層を形成するのに必要な分子の量(monolayer equivalence:MLE)を導入した。基板にはグラファイト(グラフォイル)とMoS2結晶を用いた。グラファイトは超高真空中で〜400℃に加熱することにより清浄化した。MoS2は超高真空中で劈開することにより清浄面を得た。

【結果と考察】(1)ClAlPc/グラファイト

 図3にグラファイト上に室温で作製したClAlPc薄膜のPIESを示す。スペクトルの横軸は放出された電子の運動エネルギー、縦軸は放出電子強度である。下から基板、1/2、1、2、3、5、10MLE蒸着した膜のスペクトルである。ClAlPc分子に基づくバンド(A-F)が観測された;A:フタロシアニン内骨格のCN結合性の軌道((ring))、B:フタロシアニン外骨格の4つのベンゼン環の軌道((benzene))+(ring)、C:Cl原子の非結合性の軌道で分子平面に対して平行なもの(Cln)、D:Cl原子の非結合性の軌道で分子平面に対して垂直なもの(Cln)、E:+軌道、F:軌道。

図3ClAlPc/グラファイトのPIES膜厚依存性

 1/2MLE蒸着した膜ではグラファイトのバンドが観測されているが、このバンドは1MLEの膜ではほとんど消失する。これはPIESでは表面最上層の情報が選択的に反映されることを示す。また蒸着量の定義から、この膜では分子は基板に対して平らな配向をしていることがわかる。スペクトルの相対バンド強度を比較するとC、Dバンドが非常に強調されていることがわかる。これはHeがClの非結合性軌道と有効に相互作用しているからであり、分子はCl原子を真空側に向けて配向していることを示す。膜厚が増加するにしたがってC、Dバンドが弱くなり、Fバンドが強く観測されるようになる。これはHeが分子の軌道と相互作用できることを示しており、分子は多分子層で傾いた配向をとることを示す。

 図4にグラファイト上に-170℃でClAlPcを1MLE蒸着した時のPIESの温度依存性の結果を示す。まず-170℃で蒸着した膜では下地のグラファイトのバンドが観測されている。これは分子が蒸着された直後の状態、すなわちランダムで相互に積み重なった配向がそのまま凍結されていることを示している。100℃まで加熱すると、グラファイトのバンドはほぼ消失し、C、Dバンドが非常に強く出現する。これは分子が熱エネルギーによって基板上に拡散し、さらにCl原子を上にして平らな配向をとることを示す。この膜を-90℃に再び冷却してもスペクトルはほとんど変化しないことから、このような構造がが最も安定であることがわかった。

図4 1MLE ClAlPc/グラファイトのPIES温度依存性
(2)ClAlPc/MoS2

 図5にMoS2基板上に室温で作製したClAlPc薄膜のPIESを示す。下からMoS2基板、1、2、5MLE蒸着した膜のスペクトルである。1MLEの膜では分子によるバンドとともにMoS2のバンドが観測され、またCバンドがほとんど観測されずDバンドもClを上にして配向している膜よりかなり弱い。これは分子-基板間の相互作用が弱いことを示しており、分子が基板上で重なり合い、膜最表面の分子がCl原子を下にして配向していることがわかる。従って1MLEの膜の場合、分子は結晶構造に近い、Cl原子が上下交互に向いているアイランドを形成していると考えられる。ただし軌道に基づくFバンドが観測されないことから、分子は基板に対して平らに配向していることがわかる(これは角度分解UPSの結果(3)からも支持される)。2MLEの膜のスペクトルでは1MLEのものと比べて基板のバンドが減少した以外にはほとんど変化が見られないことから、膜の配向に関しては1MLEの場合と同じであることがわかる。さらに膜厚が増すと、Fバンドが観測され、膜最上層の分子は傾いて配向することがわかる。

図5 ClAlPc/MoS2のPIES膜厚依存性

 図6にMoS2基板上に室温でClAlPcを1MLE蒸着した時のPIESの温度依存性の結果を示す。室温で蒸着した直後は分子はアイランド構造をとっている。基板温度を100℃にするとMoS2のバンドはほぼ消失し、C、Dバンドが非常に強く出現する。これはグラファイトの単分子層膜と同じように熱エネルギーによって分子が基板上で拡散し、Cl原子を上にした平らな配向をとることを示す。この膜を再び室温に冷却してもスペクトルはほとんど変化しないことから、MoS2基板上においてもこのような構造が最も安定であることがわかった。

図6 1MLE ClAlPc/MoS2のPIES温度依存性

 グラファイトとMoS2基板では主に単分子層膜において分子配向に違いが見られた。このような基板の違いによる分子配向の違いは、分子-基板間の相互作用の強さが両者で異なることを示す。

<参考文献>(1)M.Aoki,S.Masuda,Y.Einaga,K.Kamiya,N.Ueno,and Y.Harada,Mol.Cryst.Liq.Cryst.,267,217(1995).(2)T.Pasinszki,M.Aoki,S.Masuda,Y.Harada,N.Ueno,H.Hoshi,and Y.Maruyama,J.Phys.Chem.,99,12858(1995).(3)M.Aoki,S.Masuda,Y.Einaga,K.Kamiya,A.Kitamura,M.Momose,N.Ueno,Y.Harada,Y.Miyazaki,S.Hasegawa,H.Inokuchi,and K.Seki,J.Electron Spectrosc.Relat.Phenom.,76,259(1995).(4)S.Masuda,M.Aoki,Y.Harada,H.Hirohashi,Y.Watanabe,Y.Sakisaka,and H.Kato,Phys.Rev.Lett.,71,4214(1993).
審査要旨

 最近、有機分子を素材にした超薄膜に関する研究が盛んである。これは有機分子が多種多様な電子構造や立体構造を持ち、また化学合成によって官能基を導入し分子を修飾できるからであるが、反面、高度な秩序構造を持つ有機超薄膜を構築することは容易ではない。本論文は、準安定原子電子分光(MAES)が固体表面最外層の電子状態に極めて敏感であることに注目し、これを用いて有機超薄膜における単分子層毎の膜成長過程や熱による分子集合状態の変化、有機超薄膜と準安定原子との相互作用について解析した結果をまとめたものである。

 本論文は7章からなる。1章では研究目的、2章・3章では実験の原理と方法、4章〜6章では各有機超薄膜の結果、7章では遷移金属酸化物の結果がまとめられている。本論文によって解明された点は以下の通りである。

1.塩化アルミニウムフタロシアニン(AlClPc)超薄膜

 AlClPcはフタロシアニン骨格の中心からCl原子が突起状に突き出した、言わば表裏のある分子である。グラファイトに室温で蒸着すると、AlClPc薄膜は各分子がCl原子を真空側に向けた配向をとりながらlayer-by-layer成長するが、低温ではランダムな配向をとることを明らかにした。またMoS2上では、AlClPcはアイランド構造をとり、加熱によって最安定な構造に変化することを見出した。

2.チタニルフタロシアニン(TiOPc)超薄膜

 TiOPcも表裏のある分子である。AlClPcの場合と同様に、グラファイト上超薄膜における分子配向や集合状態を系統的に解析した結果、分子間相互作用の違いを反映して、TiOPc薄膜ではO原子を真空側に向けた分子とO原子を基板側に向けた分子が交互に積み重なることなどを見出した。

3.自己組織化膜

 Si(100)自然酸化膜上に作製したハロゲン化アルキルトリクロロ自己組織化膜を取り上げた。MAESによって、ハロゲン原子が最表面に〜5Å程度の間隔で分布していること、He(21S)はこの膜に衝突すると、スピンフリップによって21S状態に変換された後、基底状態に脱励起することを明らかにした。

4.遷移金属酸化物

 LaCoO3について共鳴光電子放出の実験から、Co3dの主バンドと多電子効果に基づくサテライトバンドを帰属した。またMAESにおいて、サテライトバンドが異常に強調される現象を初めて見出し、基底状態においてMott-Habbard型の電子配置が重要な役割を果たすという結論を得た。

 なお、以上の結果の一部は既に4編の論文(共著)として学会誌に掲載されているが、これは論文提出者が中心になって実験をおこない、その成果をまとめたものである。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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