学位論文要旨



No 112358
著者(漢字) 星名,賢之助
著者(英字) Hoshina,Kennosuke
著者(カナ) ホシナ,ケンノスケ
標題(和) 炭素鎖分子の電子スペクトル-C4H,C4D,and C3N
標題(洋) Electronic Spectra of Carbon Chain Molecules-C4H,C4D,and C3N
報告番号 112358
報告番号 甲12358
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第115号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 遠藤,泰樹
 東京大学 助教授 永田,敬
 東京大学 助教授 山内,薫
 東京大学 助教授 染田,清彦
 茨城大学 教授 天埜,堯義
内容要旨 【背景】

 近年、分子分光学は星間化学、大気化学といった化学と他の分野の境界領域に対して、反応活性な分子種を検出する強力な手段として、その中心的な役割を担っている。現在のこのような分子分光学の立場は、気相中の実験室分光におけるさまざまな分子種の、量子論に基づいた分光学的データの下に支えられている。本研究は星間空間、燃焼中、プラズマ中の炭素クラスター生成過程における反応活性な中間体として興味が持たれている長い炭素鎖分子、C4H(CCCCH)、C4D(CCCCD)、およびこれらの等電子分子種C3N(CCCN)の実験室における分光学的研究である。

 C4HとC3Nはともに1977年に電波天文観測によりIRC+10216と呼ばれる赤色巨星周辺部で検出され、四原子以上の炭素鎖ラジカルの気相スペクトルとしてはその存在がに初めて明らかにされた分子種である。現在までC4HやC3Nを含めて長いものでC9Hなど多くの炭素鎖ラジカルの存在が分光学的に確認されているが、それらは主に基底状態の純回転スペクトルによるものであり、電子状態、振動構造に関する分光学的研究はほとんどないのが現状である。特に星間空間に多く存在するC4HとC3Nについては、その星間雲中での振る舞いを考察する上で重要視されている非常に低い第一電子励起状態()、および光反応に関連する可視・紫外領域に存在する電子状態に関する分光学的データが長い間待たれていた。本研究ではレーザー誘起蛍光法を用いて、C4H,C4D及びC3Nの低い第一電子励起状態、近紫外領域に存在する第二電子励起状態を初めて観測し、分子定数を決定するとともに、多原子直線分子に特徴的な振電相互作用、および励起状態の緩和過程について考察した。

【実験】1)炭素鎖分子の生成法:パルス放電ノズル(Pulsed Discharge Nozzle:PDN)法

 反応活性な炭素鎖分子を効率よく生成させるためにPDNを用いた。PDNはGeneral Valve社製の高速電磁弁型パルスバルブとその先端に取り付けた放電ユニットからなり、バルブから噴出されるサンプルガスに同期して1.0-1.5kVのパルス放電をかけることによりプラズマ中に炭素鎖分子を生成した。生成した炭素鎖分子は真空チェンバー中に噴出される際、超音速ジェットになり回転温度が冷やされるため、そのスペクトルは非常に簡略化され、また他の生成物によるスペクトルの重なりを最小限に抑えることができる。C4H、C4DはそれぞれC2H2/ArとC2D2/Arを、またC3NはHC3N/HC5N/Arを放電することにより生成した。

2)測定法:レーザー誘起蛍光法

 本研究では、生成したそれぞれの炭素鎖分子について(1)レーザー誘起蛍光(Laser-Induced Fluorescence:LIF)スペクトルおよび(2)分散蛍光(Laser-Induced Dispersed Fluorescence:DF)スペクトルを測定した。前者からは状態の振電回転構造および緩和過程、後者からは状態の振電構造を明らかにすることができた。

【C4H,C4DのLIF分光】1)遷移の観測

 C2H2/ArおよびC2D2/Arの放電生成物の24000-25000cm-1(416.7-400.0nm)の領域におけるLIFスペクトルをFig.1に示す。*でラベルした強いピークはC3遷移に対応する。その間にC4HおよびC4Dの(v=0)遷移に対応する振電バンドがそれぞれ20、17個観測された。観測された振電バンドは2-2+、および2種の2-2バンド、(1)2+-2+、(2)-2+に帰属される構造を示した。各バンドの回転解析から状態の振電状態の分子定数を精度よく決定した。2-2+バンドはスピン軌道相互作用により分裂したP=3/2(lower)と1/2(upper)成分からなり、電子励起状態が2iであることを支持している。また2種類の2-2バンドについては前者がRenner-Teller効果の強い変角振動に由来する状態、後者はRenner-Teller効果の弱い変角振動に由来する状態への遷移に対応し、複数の変角振動を持つ多原子直線分子に特徴的なものである。一例として-2+の高分解能LIFスペクトルをFig.2に示す。-2+バンドは、本来禁制な2--2+遷移が励起状態における2+2-の状態混合により2+-2+のキャラクターを借りて誘起された遷移であり、O、QおよびS枝からなる非常に珍しいケースである。回転解析から決定された振電対称性をもとにFig.1のようにv5(CCH変角)およびv6(CCC変角)モードのプログレッションの帰属を行なった。またのオリジンをC4H、C4Dについてそれぞれ24033.432cm-1、24099.191cm-1と決定した。v5(CCH変角)モードの振動構造は強い振電相互作用により不規則であり、C4Dについてはv5(2+)がオリジンよりも低くなっている。これはCCH変角モードが擬直線的であることを示唆している。

Fig.1 C4H及びC4D-遷移のLIFスペクトル。Fig.2 C4Hの(a)-2+(b)-2+バンドそれぞれFig.1のバンド[D]と[E]に相当する。

 遷移は垂直遷移であるのに対し、観測された強い振電バンドはすべて対称禁制な-平行遷移であり、対称許容な-垂直遷移は非常に弱く観測された。これは観測された-バンドが、基底状態との振電相互作用によりの強い平行遷移モーメントを借りた振電許容な遷移であるためと解釈される。この結果は、低い電子状態の存在と、-状態間の強い振電相互作用を示唆する結果である。

 また蛍光減衰曲線は、短時間成分(=15ns)と量子ビートを伴った非常に弱い長時間成分(>2s)からなる。これはへの励起後、の高振動励起状態への内部転換による速い緩和が起きているためと解釈される。したがって、C4Hは400nm程度の近紫外光ではほとんど解離しないことが考えられる。(Chapter2)

2)状態からのDFスペクトル

 からのDFスペクトルでは状態のv7(CCC変角)のプログレッションが観測され、その振動数をC4H、C4Dについてそれぞれ7=118,114cm-1と決定した。また励起状態をv6()、v6()と変化させたときに強度パターンが交代する2組のピークをのプログレッションと帰属した。これらの結果からエネルギーの低い状態について振電構造を再構築することにより、状態のオリジンを約230cm-1と決定した。これは、我々と同時に進行中のNeumarkらのグループによるC4H-の光電子スペクトルから見積もった226cm-1とよい一致を示している1)。(Chapter3)

【C3NのLIF分光】1)遷移の観測

 C3Nの遷移に対応するLIFスペクトルは28600-29200cm-1(349.7-342.5nm)の領域に6つの振電バンドとして観測された。観測したバンドはC4Hと同様に2-2+2+-2+および-2+の3タイプに帰属された。のオリジンは、もっとも低エネルギー側に観測された2バンドをオリジンとすると28799.64cm-1となる。

 観測された振電バンドの強度は-垂直遷移と振電許容な-平行遷移でほぼ同じであった。これはC4Hと比べて基底状態における-振電相互作用が相対的に弱いことを示唆しており、ab initio計算から予想されているように-のエネルギー差がC4Hに比べて大きいことを間接的に示している。

Fig.3 C3NおよびC4Hの蛍光減衰曲線の比較。

 またC3Nの蛍光減衰曲線はC4Hと同様に2つの成分からなっているが、相対的に短時間成分の減衰時間が長く(=120ns)、また長時間成分の強度が強くなっている(Fig.3)。内部転換の緩和速度は、近似的に緩和する状態の密度に反比例するので、C3Nでは原子数が少なくの高振動励起状態の状態密度がC4Hに比べて小さいということから、観測された減衰曲線の違いを定性的に説明できる。(Chapter2、4)

2)状態からのDFスペクトル

 C3Nの状態からのDFスペクトルでは基底状態の振動構造と、明らかにによるものと思われる強いプログレッションが観測された(Fig.4)。スペクトルの強度分布は、遷移モーメントがのものよりも大きいことを顕著に示している。のDFスペクトルの結果とあわせて状態のオリジンを1845±5cm-1と決定した。また、オリジンから始まる強い約220cm-1間隔のプログレッションは骨格振動v5モードのものである。(Chapter4)

Fig.4 C3N状態からの分散蛍光スペクトル

 以上のように炭素鎖分子C4H,C4DおよびC3Nの、第一電子励起状態と第二電子励起状態を実験的に初めて明らかにした。C4HとC3Nは等電子分子でありその電子構造はFig.5のように類似している。本研究の成果は星間化学に関する寄与のみならず、分光学的データの少ない長い直線分子(ラジカル)の振電構造に関する新しい知見を与えたといえる。

 1)T.Travis and D.M.Neumark私信

Fig.5 C4HおよびC3Nの電子状態
審査要旨

 直鎖炭素鎖を持つ分子CnXは、炭化水素の放電プラズマ中や星間空間などに様々なものが見出されており、その構造や炭素鎖の成長過程などに興味が持たれている。これまでに炭素鎖の長さnとして、10を越えるものまでが同定されているが、その研究のほとんどは、マイクロ波分光による純回転スペクトルの観測によるものであり、これら炭素鎖分子の反応ダイナミクスの解明の鍵となる電子スペクトルの報告は極めて限られたものであった。本研究は、このような炭素鎖分子の中でもとりわけ興味を持たれているC4HとC3Nの近紫外の電子遷移をレーザー分光法で初めて観測し、詳細な解析を行ったものである。

 論文は全部で5章からなっている。第1章はこれら炭素鎖分子の高分解能分光の意義、現在の研究状況などを概観したものであり、特にこのような炭素鎖分子の電子スペクトルの観測の意義を強調している。また、第5章は全体のまとめである。

 第2章は、C4Hの近紫外電子スペクトルの観測とその解析結果について述べている。C4Hは電子基底状態、励起状態ともに直線構造をとると考えられるが、特に電子励起状態は、縮重した2状態であるため、Renner-Teller効果が存在する。これまでに3原子分子のRenner-Teller効果は詳しく研究されてきているが、C4Hは5原子分子であり、Renner-Teller効果の存在する変角振動が3種類も存在するためスペクトルは極めて複雑になっている。本研究では、観測されたスペクトルの中にRenner-Teller効果の大きな変角振動モードと非常に小さな変角振動モードが存在していることを見出し、振電バンドの多くを帰属した。このように複数の変角振動モードを持つ直線分子のRenner-Teller効果の解析例は極めて少なく、本研究の意義は大きい。

 第3章は、C4H分子の蛍光分光スペクトルの解析について述べている。この分子は、2の電子基底状態のすぐ上に2の電子励起状態が存在すると予測されていたが、その位置は、理論計算による予測のみであり、実験データは全く存在しなかった。本研究では、蛍光分光スペクトルの中に基底状態への蛍光と共にこの第一電子励起状態への蛍光も帰属し、その位置が電子基底状態から約200cm-1上に存在することを確定した。また、電子基底状態とこの励起状態は極めて強い振電相互作用をしており、レーザー分光で観測した近紫外の電子遷移が、遷移強度のほとんどをこの振電相互作用により第一電子励起状態から得ていることを説明した。

 第4章はC4Hと電子数が等しく、同系統に属する分子と考えられるC3Nのレーザー分光の結果について述べている。C3N分子の紫外スペクトルはC4Hのそれとほぼ対応するものとして解析された。特に興味深いのはその蛍光分光スペクトルで、この分子の場合は、第一電子励起状態が約1800cm-1付近に存在するため電子基底状態と、第一電子励起状態への蛍光が明確に区別できるものとして観測されたことである。また、この分子の蛍光にはゼロ場量子ビートが観測され、その結果をC4Hの場合と比較している。どちらの場合にも基底状態および第一電子励起状態の高振動励起状態との振電相互作用が存在し、それがC4HではDouglas効果として、C3Nでは量子ビートとして観測されていることを見出した。これらは、電子励起状態からのエネルギー移動、電子励起状態の反応性などを解明していく上で重要な結果である。

 以上、本論文は、炭素鎖分子C4HとC3Nの電子スペクトルをレーザー分光法で初めて観測し、詳細な解析を行ったものである。これらの分子の電子スペクトルの観測は多くの研究者が長い間切望していたものであるが、それを初めて観測し、解析できた意義は大きい。本論文の研究は、すべて論文提出者が中心となって遂行されたものであり、本論文中の2-4章の内容を3編の論文として論文提出者本人を筆頭著者として学術誌に公表予定である。よって審査員全員は、論文提出者が博士(学術)の学位を授与されるにふさわしいと認定した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54553