学位論文要旨



No 112359
著者(漢字) 松下,未知雄
著者(英字) Matsushita,Michio
著者(カナ) マツシタ,ミチオ
標題(和) 水素結合性有機強磁性体の構築
標題(洋) Construction of Hydrogen-Bonded Organic Ferromagnet
報告番号 112359
報告番号 甲12359
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第116号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 助教授 増田,茂
 東京大学 助教授 瀬川,浩司
 東京大学 助教授 阿波賀,邦夫
内容要旨 1.

 近年、有機分子を基本とした分子結晶の磁性が注目を集めている。それは、天然の有機磁性体が存在しないからというだけではなく、有機分子の持つ内部自由度に基づき、高い機能を有する磁性体の実現が見込まれるためである。しかしながら、通常の有機ラジカルの結晶中では、スピンを互いに反平行に向け合い共有結合を形成しようとする力(反強磁性的相互作用)が支配的である。分子磁性研究においては、いかにしてこの自然の反強磁性的相互作用を抑え、スピン間相互作用を制御するかが重要である。有機ラジカルの結晶内で分子間のスピン整列を実現するための指針としては、ラジカル分子内のスピン分極に着目し、正に分極した原子と負に分極した原子を分子間で接近させることで分子間のスピンを整列させる機構が提唱されているものの、オングストローム単位の精密な分子配列制御を要求しているため、この機構によるスピン整列は非常に困難であった。そこで、この要求を満たすため、分子間力として水素結合を利用することを検討した。本研究では、水素結合性部位を組み込んだ安定ラジカルを設計・合成し、その結晶中での分子配列とスピン間相互作用を解析することにより、水素結合を用いて有機ラジカル結晶内のスピン間相互作用を制御する手法を確立するとともに、結晶工学的に構築されたスピン系の特徴を解明することを目的とする。

2.水素結合性ラジカルの設計と合成

 水素結合性ラジカルの設計に当たっては、安定ラジカルであるフェニルニトロニルニトロキシド(PhNN)を基本とし、スピン分極により互いに反対向きのスピンが誘起されている2位及び5位に、水素結合性部位として水酸基を導入した分子(HQNN)を合成した。これらの水酸基が互いに水素結合した場合、水素結合部位における局所的な反強磁性的相互作用に基づき、分子間のスピン整列が実現すると期待される。一方、この対照化合物として、同符号のスピンが誘起されている3位及び5位に水酸基を導入した分子(RSNN)を合成した。これらの水酸基が互いに水素結合した場合には、HQNNの場合とは逆に、反強磁性的な分子間相互作用が働くと期待される。

 

3.水素結合性ラジカルの結晶構造と磁気的相互作用

 X線結晶構造解析を行った結果を図1、図2に示す。HQNNの分子構造の特徴として、以下の諸点が挙げられる。i)ニトロニルニトロキシド(NN)に対してオルト位の水酸基がNNの酸素原子と分子内水素結合を形成している。ii)このオルト位の水酸基に対し、c軸方向に並進した分子のメタ位の水酸基が接近し、c軸方向にHQNNの1次元鎖が形成されている。iii)この方向には同様な一次元鎖が平行に走っており、分子内水素結合を向けあった二叉分岐型の水素結合で結ばれて、2本ずつ対を作っている。iv)異なる対の間には水素結合は無いものの、負のスピン密度を有するNNのメチル基が他分子のNNの酸素原子と接触している。

図1 HQNNの結晶構造図2 RSNNの結晶構造

 一方、RSNNにおいては、水酸基がプロトンドナー、ニトロニルニトロキシドがプロトンアクセプターとなり、互いに点対称の関係にある隣接分子との間に、それぞれ2本づつの水素結合を形成している。反対側の分子とも同様な水素結合を形成し、(-10 1)方向に一次元鎖を形成している。

 上記の結晶構造をもとに、水素結合を通じたスピン分極の伝達様式を考察すると、HQNNにおいては強磁性的な、RSNNにおいては反強磁性的な分子間相互作用の発現が期待される。

 磁化率測定の結果を図3に示す。HQNNの値は20K以下で徐々に増加し、分子間に強磁性的なスピン間相互作用が存在することを示している。それに対し、RSNNの値は単調に減少し、分子間に反強磁性的相互作用が働いていると推論される。

 以上の結果は、水素結合を通じて磁気的相互作用が働いているとの考察と矛盾しない。

図3 磁化率の結果
4.HQNNの強磁性相転移

 磁化率測定によって、HQNNの結晶中では強磁性的相互作用が働いていることが明らかになったが、最低温まで値が上昇し続けているため、より低温における磁気挙動に興味がもたれる。そこで、3He-4He希釈冷凍機を用い、40mKまでの交流磁化率を測定したところ、0.5Kで磁化率の急激な上昇が見られた。磁化の磁場依存性を測定したところ、転移温度より高温側の733mKでは、磁場の変化に対して磁化は直線的に変化するのに対し、転移温度より低温側の80mKでは、100Oe付近で急速に磁化が飽和すると共に、200e程度と小さいながら、磁化の履歴現象が観られた。また、磁化の飽和値はほぼ1B・mol-1であった。これらのことから、0.5Kで強磁性体への相転移が起こることが分かった。

 転移点付近の比熱の測定を行ったところ、0.42Kを頂点とする型のピークが得られ、転移のエントロピー変化は5.4J・mol-1・K-1と見積もられた。この値は、強磁性体への転移のエントロピー変化である、Rln2=5.76J・mol-1・K-1と誤差の範囲内で一致しており、磁化率とは独立に強磁性体への転移であることが明らかになった。また、Tc前後のエントロピーの比率から、この結晶におけるスピン間相互作用は3次元的であることが分かった。この3次元的な強磁性的相互作用は水素結合だけでは説明できず、NNとメチル基間の接触が大きく寄与していることが明らかになった。

図4 HQNNの磁化の磁場依存性図5 HQNNの比熱
5.水酸基の重水素化による磁気的相互作用への影響

 水素結合の水素原子を重水素化することにより、O-H距離が減少するとともに水素結合距離が伸びることが知られている。上記の水素結合性ラジカルにおいて、スピン間相互作用が水素結合を通じて働いていることを確認するため、HQNN及びRSNNの重水素化を行った。重水素化したHQNNのX線結晶構造解析より、O-Hの原子間距離が0.89(3)Åから0.74(6)Åへ減少し、それに伴い水素結合の酸素原子間距離が2.752(2)Åから2.765(6)Åに伸びていることが判った。約70%の重水素化体を用いた磁化率測定の結果、HQNNの強磁性的相互作用とRSNNの反強磁性的相互作用の双方が弱まった。また、HQNNの比熱の測定より、重水素化により比熱のピークが0.39Kに低下することが判った。以上の結果は、重水素化による水素結合の距離の変化が、磁気的相互作用に影響を与えていることを強く示唆するものである。

6.まとめ

 水素結合性ラジカルHQNN及びRSNNについて、結晶構造解析及び磁気測定に基づき、結晶内におけるスピン間相互作用を検討した。HQNNとRSNNで水素結合様式の違いに応じて分子間の相互作用が逆転したことは、スピン間相互作用が水素結合部位を通じて働いているとの考察と矛盾しない。水酸基の重水素化によって水素結合距離が伸びるとともに相互作用の大きさが減少したことは、この解釈を支持している。一方で、HQNNについては、交流磁化率及び比熱の測定によって、0.5Kで強磁性体に転移することが明らかになった。これは純粋な有機強磁性体としては世界で4例目であるばかりでなく、水素結合性の有機強磁性体の最初の例である。

 本研究は、水素結合という強い分子間力を導入することにより、有機ラジカルの分子間のスピン間相互作用を制御することが出来ることを示した点で、重要な知見を与えたといえよう。

審査要旨

 磁性は、本来無機化合物、特に遷移金属に特有の性質とされてきた。無機磁性体では格子点に存在する原子(遷移金属イオン)が電子スピンを担うのに対し、有機ラジカルの結晶では、各格子点に分子があり、その上にスピン分極に基づく特徴あるスピン密度が分布しているという点に大きな特徴がある。しかしながら、分子内のスピン分極を巧妙に設計すれば、有機分子でも希土類イオンを凌駕するスピン多重度(S=8/2)を有する高スピン分子を実現しうることが示されて以来、分子磁性と呼ばれる分野が急速な発展を遂げた。純有機物質からなる有機強磁性体が発見されるに至ったのは、1991年のことである。

 本来反磁性物質である有機物質を用いて有機磁性体をつくるには、分子上の電子スピンのもつ磁気的情報をどのようにして分子間に伝達するかが、鍵となる。本論文では、有機ラジカル分子に見られるスピン密度の交替(分子内に生じたスピン密度波)に着目し、「分子間で相互作用しているサイトのスピンは、基本的に反平行になるので、分子間でスピン密度波の位相を合わせることにより、最もスピン密度の高いサイトを整列させることができる」というMcConnellの理論を、磁性体構築の基本的指針としている。しかしながら、この指針に従い強磁性的相互作用を得るためには、分子の配列をオングストローム単位で制御しなければならず、結晶構造制御の重要性が認識されている現状であってもなお、極めて困難かつ挑戦的な課題といえよう。

 申請者は本論文において、ラジカル結晶内における分子配列制御に関する一つのアプローチとして、水素結合の利用を提案している。さらに、この水素結合を単に構造制御部位として用いるのではなく、水素結合にスピン伝達部位としての役割を担わすことにより、水素結合型結晶を用いたスピン整列を実現することを目的とし、以下のような手法でその可能性を検証している。まず、分子設計の段階で、分子内のスピン分極が詳細に調べられているフェニルニトロニルニトロキシド(PhNN)を基本骨格として取り上げ、この骨格への水素結合部位の導入位置に着目し、2個の水酸基を、互いに反対向きのスピンが誘起されている2位および5位に導入したHQNN、同符号のスピンが誘起されている3位および5位に導入したRSNNを、具体的に提案している。さらに、このようなスピン系に直結した水酸基上に、置換位置に応じた向きのスピンが誘起されることを、モデル化合物のESRスペクトルなどにより確認している。前出の作業仮説に対して、単に理論的な考察をするにとどまらず、実際の分子設計・合成に基づく検証方法を提起している点は、高く評価されよう。

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 次いで、X線結晶構造解析により明らかにされたHQNN、RSNNの水素結合様式について論述している。即ち、HQNNでは反対向きのスピンを有する2位および5位の水酸基が互いに分子間で水素結合を形成しているのに対し、RSNNでは、スピン源と同じ符号のスピンを持つ3位と5位の水酸基が、隣り合った分子のラジカル部位の酸素原子との間に水素結合を形成していることを明らかにしている。その上で、もしこれらの結晶内で水素結合を介して磁気的情報が伝達されるならば、HQNNでは強磁性的な、RSNNでは反強磁性的な相互作用が生ずることを指摘している。

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 磁化率測定によって判明した磁気的相互作用は、まさにこの予想通りであり、HQNNでは強磁性的な、RSNNでは逆に反強磁性的な分子間相互作用が見出された。従って、以上の実験事実は「水素結合が磁気的情報の伝達に関与しており、また、その様式を変えることで相互作用の方向が逆転する」という解釈を強く示唆するものである。

 さらに、有機化合物の中では稀少な、強磁性的相互作用を示したHQNNについて、磁化率のより詳細な解析により、磁気的相互作用の経路を検討している。HQNNの磁化率の温度依存性は、強磁性的なダイマーが、他のダイマーと等方的・強磁性的に相互作用しているモデル(正のワイス温度=0.93Kを導入したJ=0.46KのS-Tモデル)で良好に再現された。結晶構造との対応から、このダイマーは2位の水酸基と隣接分子のニトロニルニトロキシドの水素結合による対構造に帰属されるが、ダイマーどうしの等方的な相互作用は、1次元的に形成されている水素結合だけでは説明できない。この点に関し、本論文では、結晶構造を基に水素結合以外の磁気的相互作用のルートを探索し、メチル基とニトロキシドラジカル間のCH…ON型の2次元的な相互作用の重要性を指摘している。

 低温まで強磁性的相互作用が働いていることが明らかになったHQNN結晶について、申請者は極低温領域での交流磁化率・比熱を測定した。そして、HQNNが0.5Kに転移点をもつ強磁性体であることを発見した。即ち、この強磁性体の磁化は、100Oe程度で急速に飽和し、20Oe程度の保磁力を持つ履歴性のある磁場依存性を示す。磁化の飽和値がほぼ1B・mol-1であること、比熱から得られた転移のエントロピーが、スピン系の転移の値であるRln2に一致していることは、この結晶全体が強磁性体へ転移したことを支持する。さらに、比熱の転移点Tcと磁気測定におけるワイス温度の比率(Tc/)、および、転移点前後におけるエントロピーの比率(SH/SL)を考察することにより、HQNNのスピン系は、「3次元ハイゼンベルグモデル(単純立方格子、6配位)」で最もよく解析されることを明らかにした。以上、極低温域での磁気測定・比熱測定に基づき、HQNNのスピン系の本質を詳細に論述したあたりは、本論文の中でのハイライトといえよう。

 このようにして、本論文における当初の問題提起であった、「水素結合を介した磁気的情報伝達の有効性」が示された訳であるが、申請者はさらにこの点を直接的に実証すべく、以下の実験を行っている。1)大阪大学の武田博士との共同研究により、高分解能1H-MAS NMRスペクトルの測定を行い、Knight-shiftの温度依存性から、HQNNの水酸基上に十分なスピン密度が誘起されていることを明らかにした。2)HQNNの水素結合ダイマーの理論計算を、大阪大学の山口教授との共同研究で行ない、このダイマー間に水素結合を介した強磁性的相互作用が存在することを明らかにした。3)HQNN、RSNNのフェノール性水酸基の重水素化を行ない、HQNNの強磁性的相互作用、RSNNの反強磁性的相互作用の双方が重水素置換により減少することを見出している。また、比熱測定の結果、HQNNの転移のピークが低温側にシフトすることを確認した。以上の実験事実1)〜3)は、水素結合が磁気的相互作用の経路として働いていることを裏付けるものといえよう。このように、分子設計の際に提出された作業仮説を、着実な実験・理論両面から証明したことの意義は大きい。

 以上、申請者は、水素結合性部位を組み込んだ新規安定ラジカルを合成し、その磁気的特性を克明に解明している。中でも、0.5Kで強磁性体に転移することが明らかになったHQNNは、純粋な有機強磁性体として世界で4例目であるばかりでなく、水素結合性の有機強磁性体の最初の例であり、その成果は特筆に値しよう。本論文は、堅牢な構想力のもとに組み上げられた完成度の高い研究内容を有しており、有機分子性物質の物性研究の一つの典型例として、高い価値を有するものといえよう。

 以上のことから、審査委員会は本論文を博士(学術)の学位授与の対象として十分なものであると判定した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54554