提出された山本知幸氏の博士論文は化学反応を抽象化したモデルを構成し、そのシミュレーションを通して生命システムを逐次的な機械でなく並列な多体干渉機械として捉える論理を構築し、その観点から生命の起源を論じたものである。生命の起源を念頭に置いた、新しいモデルを提案し、その広範なシミュレーションを通して生命システムへの新しい見方を構成することに成功したものである。 本論文は5章127ページから成っている。まず第1章では機械として生命を捉えるこれまでの見方をふりかえり、そこで文脈が相互干渉した機械という視点の必要性を論じている。ついで、第2章ではこのような問題を議論するためのバックグランドとして、セルオートマトンから始まり、人工生命研究で提唱されたこれまでのモデルを概観し、その問題点を議論している。ついで機械という視点からロボティックスと計算機システムを振り返り、ここで議論するような生命システムのための基本的な論点を挙げている。第3、第4章がここで提唱されたタイルオートマトンのモデルの導入およびその2つのタイプのモデルでのシミュレーションの結果であり、第5章ではそれらをふまえて生命システムの論理を議論している。 タイルオートマトンモデルではまず、様々な形状をしたタイルで分子を表し、それらが衝突により反応を起こして形を変えることで化学反応を表現している。形を変えるルールは一意的に定められているが、周囲の状況に依存したり多体反応を許容しているので、自明な周期的構造を離れて多様な形をつくりうる。これについて「空間版」と「タンク版」の2つのシミュレータを構成し、その振舞を調べている。前者は平面上をタイルが動きまわり、衝突すると反応が起きるというものであり、後者はよく混ざった溶液の中からランダムにタイルが衝突して反応するというものである。反応のルールは、基本的には衝突しているタイルの衝突部位とその最近傍(反応ゾーンと呼ぶ)の状態をセル・オートマトン的に変化させる(主に、反応・ゾーンの内部の状態を反転させる)ことで行なっている。 空間版では、単純な形状の少数のタイルの初期条件から、多様な形状のタイルが形成され、さらにクラスター化したタイルが継続的な生産を行なって、無限に増殖し続ける構造が出現した。これは自己組織的に生産を行う「工場」の構造の出現という非自明な結果である。ここで、「工場」は既存の「機械」の概念に基いたような機構ではない。周期的・順序的な構造ではなく、カオスにより多様な形を作りつつ増殖していく。様々な反応過程が相互に干渉しあうことで生産性を維持しており、それには、カオスによって周期からはずれることが必要であることも見出された。また、「工場」自体が分裂を起こすことも発見されている。このことは、増殖反応系自体の増殖という、より高次の階層の現象を生じたことを意味しており重要と考えられる。 タンク版では、時間的な構造を見るために反応の中間状態を導入して多体反応を可能にしている。このシミュレーションでは多様なタイルが現われ、そこから一部のタイルが急速に成長してゆく現象が見られた。ここでは単なる結晶成長的な現象とは異なり、成長してゆく反応経路と分解する反応経路が形成されている。成長は結合に適した形のタイルを利用して起こる。この結合的な成長と分解の双方の反応経路は完全に分離されている訳ではなく、あらゆるタイルが双方の経路に組み込まれて動的に共存している。ただし、成長経路と分解経路の間のでは時間スケールが分離しており、このことが成長に本質的である。 これらの結果から、生命の起源において、まず多様な増殖構造が生成され、維持され、多プロセスが干渉した、副産物のネットワークとして生命システムを捉えるという視点を提出している。 当博士論文の研究は、新しいモデルを導入し、生命システムとその起源への新しい視点を導入したものである。むろん、生命の起源は一朝一夕に決着がつけられるような問題ではなく、ここで提出された概念はまだまだ発展させられなければならない。またここで提出された考え方がここでのシミュレーションにより定量的レベルまで完全に確認されたとは一概に言えないかもしれない。しかし、ここで提出された生命システムへの考え方がタイルオートマトンモデルの構築とそのシミュレーションを通して形成された、独創的なものであることは事実であり、この考え方は今後、生命の起源や生命の論理を考える上で鍵となる重要なものに発展していくことが期待されるものである。 この研究は非線型物理、統計力学の理解、生命系やコンピュータシステムへの洞察、高度なシミュレーション技術をふまえて実現したものである。ここで挙げられた結果の一部は既に論文が専門誌に掲載されており、全貌は間もなく投稿予定である。また、空間版、タンク版はそれぞれ人工生命の国際会議で発表され、注目されている。このように、論文提出者の研究は、理論生物学についてコンピュータ科学をふまえた新しい方向を切り開き、この分野への独創的かつ重要な寄与をなしていると考えられる。 以上の点から本論文は博士(学術)の学位を与えるのにふさわしい内容であると審査委員会は全員一致で判定した。 |