学位論文要旨



No 112367
著者(漢字) 千葉,尚志
著者(英字)
著者(カナ) チバ,タカシ
標題(和) 密度揺らぎと宇宙の熱史
標題(洋) Density Perturbations and the Thermal History of the Universe
報告番号 112367
報告番号 甲12367
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3147号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 牧島,一夫
 東京大学 教授 折戸,周治
 東京大学 教授 野本,憲一
 東京大学 教授 鈴木,洋一郎
 東京大学 助教授 山本,智
内容要旨

 宇宙は、ビッグバン以降膨張してどんどん温度が下がり、誕生後30万年経った頃、プラズマ状態の原子が中性化(再結合)し、それまで散乱を繰り返していた光子と電子の相互作用が切れたため、宇宙を満たしていた光子はこれ以降直進できるようになった。このいわゆる「晴れ上がり」以降、さらに温度を下げた宇宙の中で、光子による妨げのなくなった通常の物質(バリオン)は、その密度の濃淡が重力的に増幅されて、やがて銀河や星、さらには宇宙の大規模構造を生成するようになったと考えられている。またこの密度の濃淡は、初期宇宙での量子的揺らぎに起因して生じたと推測されている。現在の宇宙に明らかに一様でない構造があることは、この宇宙初期の揺らぎの存在を証明する証拠である。また、電磁的な相互作用を持たない、現在では重力的にのみ他の物質に影響を及ぼす暗黒物質が宇宙で支配的であれば、バリオンは再結合後は自己重力ではなく暗黒物質の作り出す重力によって、構造を造ることになる。

 「晴れ上がり」以降、光が直進できるということは、その時期に解放された光を現在直接観測できるということである。これが宇宙背景輻射であり、ほとんど完全な黒体分布で、空間的にもその温度は全く同じ値を示す。このことが、宇宙は一様等方であり、かつて熱平衡状態にあったという、いわゆるビッグバン宇宙論の決定的とも言える証拠となったのである。

 しかし、物質の密度分布に揺らぎがあったならば、相互作用を通して光子の分布にも、同様の揺らぎが生じるはずである。ところが、実際に宇宙背景輻射の非等方性を観測しようとしても、非常に等方的で、常に観測の精度から演繹される観測値の上限が統計的に与えられるだけで、揺らぎを観測することができなかった。これは、大気のゆらぎによる雑音が常に問題となる、地上からの観測の限界であった。

 1992年にCOBE衛星の検出装置の一つであるDMRによって、温度揺らぎが初めて観測された。その大きさは理論の予測とほぼ等しく、およそ十万分の1であった。だが、その角度分解能や、感度は決して高いものではなく、銀河などの構造と直接結び付くような小さなスケールでの温度揺らぎの強度を測定するには至らなかった。しかしその後の理論的研究によって、そのような小さなスケールの温度揺らぎの大きさを観測的に求めることができれば、宇宙に存在している暗黒物質も含めた物質密度の総量、水素原子の総量、ハッブル膨張速度など、重要な宇宙論パラメータを決定できることがわかってきた。そこでアメリカとヨーロッパで各々COBEの次の人工衛星による温度揺らぎのプロジェクトとして、MAPとCOBRAS/SAMBA計画が推進されている。これらによって、温度揺らぎは細かい角度スケールに至るまで、非常に高い精度(1%程度の誤差)で決定されると期待されている。

 しかしながら、もし宇宙で再加熱が起きたとすれば、その程度によって温度揺らぎの理論強度は大きく影響を受ける。一旦水素原子が再結合した後、宇宙が再びイオン化したであろう事は、中性水素の存在量を決定できる、いわゆるGunn-Petersonテストと呼ばれる観測の結果から推定されている。即ち、宇宙はその進化の過程で生成された何らかの天体が出したであろう輻射により加熱され、ある時期以降再びイオン化されたのである。

 この再イオン化で、再び電子と宇宙背景輻射が相互作用を行うようになる。また、加熱により電子が運動エネルギーを得て、その温度が無視できなくなる。その結果、電子、バリオンのつくるプラズマ流体に圧力が生じる。重力的に収縮しようとする構造は、この圧力によってその収縮を妨げられる。その結果、ちょうど重力と圧力が釣り合うスケールより小さいスケールでは構造が形成されないことになる。このスケールをジーンズスケールと呼ぶ。このようなジーンズスケールが存在すると当然、物質の密度揺らぎの進化の様子、ひいては宇宙の構造の形成のされ方が変わってくる。

 そこで、水素原子の再結合の後、宇宙がどのような熱史をたどったか、またその結果密度揺らぎ、そして温度揺らぎが定量的にどれだけ影響を受けたのかを知ることが重要となる。本論文ではこの問題について大きくわけて次の2つの方法で解答を与えることを試みた。

(1)密度揺らぎの計算における2次揺らぎの寄与について

 宇宙モデルを設定して、宇宙背景輻射の温度揺らぎを数値計算するには、バリオン、光子、ニュートリノに対するBoltzmann方程式を解かなければならない。通常は揺らぎが小さいという仮定をおき、線形近似によって取り扱う。しかし、一旦再結合した後にイオン化する場合には、これに加えて、プラズマのドップラー効果に起因する2次(線形の次のオーダー)の温度揺らぎの寄与を考えねばならないことが明らかになった。これは、もとあった揺らぎがイオン化により等方化される過程で消されること、また新たにドップラー効果で引き起こされる揺らぎのうち線形の部分は、光子が電子にランダムに散乱されるため、宇宙の光学的厚み以下のスケールではダンピングしてしまうことから、相対的に2次の項の寄与が効いてくるに依っている。

 ここで、我々はこの寄与の定式化に含まれる誤りを正した上で、宇宙定数のある場合も扱えるように定式化を拡張した。その上で、PIB(Primeval Isocurvature Baryon)モデルと呼ばれる、暗黒物質を仮定しないバリオン優勢な等曲率モデルの検証を行なった。PIBモデルでは、小スケールでかなり早い時期に構造を造り、宇宙を再イオン化させることができる。我々は簡単化のため、宇宙は再結合の直後に、再びイオン化したと仮定した。またこのモデルでは、従来Boltzmann方程式を解く際に用いていたfree-streaming近似が効かないため、Boltzmann方程式は現在まで正しく解いた。結果的に、現在の観測結果を満足させるようなPIBモデルを構築することは非常に困難であり、宇宙パラメータをうまく調節する必要があることを明らかにした。

(2)構造形成(熱史)と揺らぎの進化を互いのback reactionを取り込んで解くこと

 我々は、従来全く別個に行われて来た、宇宙の構造形成(本質的に揺らぎの非線形成長)及び熱史を数値計算して求める問題と、宇宙の密度揺らぎの線形進化を追う問題とを、同時に互いの影響を採り入れながら計算する事に成功した。

 十分に早い時期ではどのスケールでも、密度揺らぎは線形近似で取り扱ってよい。しかし、一旦揺らぎの相対的な大きさが1を越えると非線形効果が効いてきて、銀河などの構造が造られると考えられる。現在主流となっているhierarchical clusteringの考え方は、まず、小さな講造から非線形になって形成され、順々に大きな構造ができて行くというものである。この小さな構造である天体、それは例えばクェーサーであり、銀河であるわけだが、この天体から出る紫外線により、宇宙の水素原子がイオン化されるのである。

 これまでは、揺らぎの線形成長の部分についてはよく調べられてきていて、密度揺らぎや温度揺らぎのパワースペクトル(スケールごとの大きさ)の計算などは盛んに行われてきた。また、構造形成と宇宙の熱史の方は、その結果得られた線形のパワースペクトルを用いて、例えばガスを含めた、重力多体系の巨大な数値計算などが実行されている。しかしながら、その両者を結び付けた完全な計算はこれまで全く行われていなかった。実際には小さいスケールで構造ができ、宇宙が再加熱されると、その影響はより大きなスケールでの密度揺らぎの線形成長に及ぶ。先に述べたように、バリオンのジーンズスケールが増大し、構造ができにくくなったり、密度揺らぎのパワースペクトルの形が変わってしまったりする。すると、その線形密度揺らぎのパワースペクトルを基にして計算している構造形成の方もまた、影響を受けるはずである。また、温度揺らぎも大きく変化する。これまではわずかに、構造形成を解いた結果得られた水素原子のイオン化率を、非常に荒く近似をして取り入れ、温度揺らぎを計算した仕事があるのみである。それは例えば、宇宙の膨張とともにイオン化率を変化させる代わりに、すべての水素原子がある時期一気にイオン化したとするような近似である。構造形成と密度揺らぎのの間の相互作用を取り入れた計算などは皆無であった。

 我々はPress-Schechter formalismという、重力によって形成される構造の数密度とその質量の関係を与える解析的手法を用いて、構造形成を取扱い、その結果できる天体による宇宙のイオン化を計算した。この数値計算のコードを密度揺らぎの線形成長の計算コードと組合せ、同時に構造形成、熱史そして、揺らぎの線形成長を互いの間の相互作用を含めて計算できる数値コードを開発したのである。この強力な計算コードを使い、我々は構造形成論の2大主流モデルである、CDM(Cold Dark Matter)モデルと呼ばれるモデルとPIBモデルに関して、調べてみた。その結果として、先ず、バリオンのジーンズスケールが実際に出現する様子を見る事ができた。これは、コードの正当性を証明する事にもなった。またバリオン量が比較的少ない為、再イオン化の影響が少ないと考えられていたCDMモデルの場合でさえ、この効果のために、密度揺らぎの成長がわずかではあるが変わってしまうことがわかった。実際に温度揺らぎを見てみると、明らかに我々の計算モデルの結果は何も再加熱が生じなかった場合の結果とは大きく異なることがわかった。これは、現在計画が進んでいる人工衛星による細かい角度スケールの観測結果が得られた際、それを基に理論モデルの是非を判断する際に有為な違いを与える。我々は、コードの中でコンプトンのyパラメータや種族IIのメタル量等さまざまな観測量を計算し、それを観測と比べてみた。その結果、CDMモデルでもPIBモデルでも、我々の採用した宇宙論パラメターの組は、観測とは大きく矛盾せず、むしろ良く合うものである事が分かった。我々の本研究の最大の成果は、宇宙の再イオン化のその構造形成に及ぼす影響が、当初考えられていたよりもずっと大きいことを明らかにし、実際の宇宙の構造形成を調べる際には、その影響を考慮することが不可欠であることを明らかにしたことである。

審査要旨

 宇宙マイクロ波背景放射(CMB)は宇宙の進化の観測的な鍵であり、そのスペクトルは0.01%以上の精度で、温度2.73Kの黒体放射に一致する。またCMBの温度は驚くほど一様で、温度ゆらぎは10-5程度しかない。ところが宇宙の物質は、星、銀河、銀河団などから成るきわめて非一様な構造を示す。この性質はビッグバン宇宙の描像から、次のように説明される。初期宇宙の物質は高温のため電離しており、電磁相互作用を通じて、放射と物質はつねに熱平衡にあった。しかし宇宙の膨張により、ある時点でイオンと電子は再結合して中性ガスになり、放射と物質の相互作用は急激に小さくなった(宇宙の晴れ上り)。その後は放射と物質が独立にふるまい、放射は断熱膨張して温度を下げつつ、現在のCMBとして観測されるに至った。物質は、この時点でのわずかな揺らぎをもとに重力凝集し、現在のような分布に到達したと考えられる。そのさい、見えている物質の10-100倍に及ぶ「暗黒物質」があると考えると都合がよいことが多い。

 以上が標準的なシナリオであるが、観測によれば「晴れ上り」後の宇宙は必ずしも中性ではなく、いったん中性になったバリオンが再び再電離したことが示唆される。とすれば「晴れ上り」以後にも、光子とバリオンが再び相互作用した時期があったはずである。再電離の原因としては、物質が星やクエーサーとなり、そこから放射される紫外線が中性ガスを光電離したと考える説が有力である。その場合、揺らぎの成長につれて天体が形成されると、そこからの紫外線がバリオンを再電離することにより、揺らぎの成長そのものに反作用を及ぼす可能性がある。よって宇宙の構造形成を理論的に扱うさいには、この反作用をきちんと取り込む必要があるはずである。第1章では、こうした問題点が提示される。

 宇宙初期の揺らぎがどのように成長するかを計算するため、ゲージ不変摂動論とよばれる理論体系が作られており、第2章はそのレビューに当てられている。第3章ではその体系に従って発展方程式が解かれるが、標準的な扱いに比べ、2つの新しい試みが導入されている。第1に、再電離の効果を手っ取り早くみる便宜として、宇宙の晴れ上りは起きず、バリオンは電離したまま現在に至ったという仮定が置かれる。第2に、単なる線形摂動論に加えて、バリオンの密度揺らぎと、凝集する物質が背景の光子に対してもつ速度vとの2次の摂動項・vが考慮される。宇宙モデルとしては、冷たい暗黒物質が質量の大部分を担うという標準的なCDMモデルに加え、バリオンのみで宇宙の物質が構成されるというPIBモデルも検討する。それぞれに対し、密度パラメータ0、バリオンの割合B、宇宙定数∧0、揺らぎのスペクトル指数n、ハッブル定数H0などを変えて計算を繰り返し、現在の宇宙に近い状況が実現可能かどうか検討された。計算結果を、観測されるCMBのスペクトルや温度揺らぎなどに照らし合わせたところ、PIBモデルではn<-1.5でB>0.5ならば観測と矛盾しないことが示された。しかしこれは初期元素合成のシナリオから得られる小さいBの値と矛盾し、非現実的である。

 より現実的には、密度揺らぎの成長を計算で追いかけ、その中に天体形成のシナリオを織り込み、発生する紫外線による宇宙の再電離を同時に計算し、それを密度揺らぎの発展方程式に反作用として戻してやらねばならない。第4章では、そのための準備が行われる。密度揺らぎが成長すると、密度の濃い部分で星や銀河が形成されると考え、プレス=シェヒターの理論を応用することで、それらが発する放射のスペクトルを計算し、水素の電離を予測する。第5章では、その結果をコンピュータコードの中に統一的に組み込み、再電離の反作用まで考慮して揺らぎの成長が計算される。仮定する宇宙モデルは第3章のものと同様である。この計算から次のような結果が得られた。

 1.宇宙が晴れ上がった後、水素やヘリウムがほぼ完全に再電離し、現在に向かって再び中性化するという状況が再現された。宇宙の熱史が記述できたことになる。

 2.再電離により電子温度はひとたび〜104Kまで上昇するが、CMBスペクトルをコンプトン散乱で歪めるには至らず、観測と無矛盾なモデルを構築することができた。

 3.一般に揺らぎの質量がある限界(ジーンズ質量)以下だと、圧力の効果が勝ち、重力凝縮は進行しない。再電離の反作用を含めると、放射圧が効くためこの効果が顕著になり、太陽質量の約104倍より小さい揺らぎは成長できないことが示された。

 4.再電離の影響まで含めると、細かい角度スケールでは、期待されるCMBの温度揺らぎのパワーが最大20%ほど変わることが示された。現在の観測はそれに匹敵する精度をもたないが、より感度の高い将来の観測では検出可能である。

 これまで宇宙論においては、揺らぎの成長の計算と、天体の形成にともなう宇宙の熱的変遷とは、ほとんど独立に扱われて来た。しかしもとより、この2つの効果は互いに相手に影響を及ぼす立場にあり、統一して扱う必要がある。本論文は、そのような研究の先駆的な試みであり、またその効果が将来の観測で検出可能であることを示した。これらは宇宙物理学に対して、新しい知見をつけ加えるものである。

 本論文のうち第3章は須藤靖氏および杉山直氏との、また第5章の一部は川崎雅裕氏との共同研究であるが、いずれも論文提出者が中心となってモデルの構築および計算を行っており、その寄与が十分であると判断される。同意承諾も完備している。

 以上により、博士(理学)の学位を授与に値すると認定される。

UTokyo Repositoryリンク