スピン・角度分解光電子分光(Spin and Angular Resolved Photoelectron Spectroscopy:以下SARPESと約す)は、スピンを含めた電子状態に関する総てのパメーターを分析することができる測定方法である。測定するエネルギー領域に応じて、適切なビームライン・実験ステーションに移動できるように、私はコンパクトでかつ世界最高効率のリターディング型Mott検出器・可動型SARPES装置を設計・立ち上げることに成功した。この装置の核心の部分は電子のスピン状態を識別するMottスピン検出器である。装置の効率を上げるためには散乱強度か有効Sherman関数を良くしなくてはならない。またMott検出器の設計に当たっては、散乱強度と有効Sherman関数について良く知っておく必要がある。Monte-Carlo法は多重散乱を取り扱うのに有力な方法である。私はこの方法を使って散乱強度と有効Sherman関数を、ターゲットの厚さと非弾性エネルギー損失窓を変えて計算した。ターゲットの厚さを変えた計算結果は、これまでに報告されている実験結果と良く一致することがわかった。また、一般に使われている非弾性エネルギー損失窓においては、有効Sherman関数は広い偏向角に渡り、ほぼ一定であることがわかった。よって、リターディングMott検出器の検知効率を上げるためには散乱強度を大きくしなくてはならない。これは散乱電子の見込み角を大きくすることで達成される。そのため、球及び色収差がとても小さくなるようにリターディング光学系を設計しなくてはならなず、私は荷電粒子光学プログラムを使ってリターディング光学系を注意深く設計した。見積もられた見込み角は約0.6srとなり、今までに報告されている値の3倍になった。評価実験の結果、このMott検出器の効率は1.9×10-4であり、これまでに報告された値の1.8倍になった。 私は、開発した装置を用いて、Ni(110)表面吸着系のスピン・角度分解光電子分光の実験を行った。 強磁性体Niのバンド構造については、実験、理論両面において広く研究されており、SARPESも、Niのスピンに依存した電子構造の測定手段として用いられてきた。しかしながら、今までのSARPE測定は、すべて垂直光電子放出(normal emission)での測定であり、表面ブリルアンゾーンの特定の波数ベクトル(点)における電子状態の情報しか得られていない。 私が開発した新しいSARPES装置は、角度分解光電子エネルギー分析器をサンプルのまわりで回転させることが、簡単にできるという長所をもっている。このことから、垂直光電子放出以外の測定が可能となり、Niにおいても、SARPES測定に関しては、今まで未知であった対称点について電子状態を研究することが可能になった。 金属表面における原子・分子の化学吸着は重要な現象である。その科学的な面白さは、表面の化学効果の輻広い工業的応用だけでなく、表面の基礎的な物理過程探るということにもある。 吸着子と強磁性3d遷移金属表面の相互作用および磁性への影響は、近年、実験的・理論的にも重要な課題となっている。今までは、表面磁性測定方法では、表面磁性は吸着子の影響で減少することを示している。光電子分光法を用いると、化学吸着系における磁気的性質と電子状態の関係を直接観測できると考えられているが、この方法では、Niの表面の電子状態の交換分裂は吸着によって影響されないということが報告されている。同じ系の磁性の側面を、異なる測定の手法で得られた結果はコンシステントではない。しかし、従来の光電子分光実験が垂直光電子放出に限定されているため、バンドの一つの点でのみ議論されているだけである。交換分裂が吸着子によって変化するか否かを言うためには、スピンを含めた全ての波数におけるバンドを観測する必要がある。 最近、SARPES測定によって、基板のFeによって誘起された吸着子の交換分裂について、Fe(110)上の酸素や硫黄、Fe(110)上の酸素について報告されている。しかしながら、Niを基板に用いた実験についてはそのような報告がされていないので、Ni上の吸着子のSARPE測定が必要であると考えた。 私たちは、清浄表面Ni(110)、CO/Ni(110)、p(2×1)O/Ni(110)、c(2×2)S/Ni(110)のSARPES測定を行った。それぞれの系は、Niの表面ブリルアンゾーンの対称線に沿って、初めて測定を行った。 実験によって、明らかになったことを以下に述べる。まず、第一に、これまで報告されてきた、垂直光電子放出の実験からは、Ni3dバンドのスピン偏極度は小さくなるが、交換分裂は、吸着子の存在によって変わらないと報告されてきたが、我々の結果では、対称線上で通常、CO、O、Sの吸着後にスピン偏極度および交換分裂がともに減少することが分かった。 次に、清浄Ni(110)表面においてさえも、フェルミ端から離れた高束縛エネルギー側(約1.3eV付近)のNi3dバンドの構造のいくつかに、異常がみられる。そこでは、スピン偏極度が負になっており、少数(Minority)スピンのバンドが優勢であることを意味すると考えられるが、バルクのバンド計算ではこの結果を説明できない。また、p(2×1)O/Ni(110)については、この1.3eV付近の構造は少数スピンチャネルについて主に小さくなり、清浄表面でみられた異常な負の偏極度が小さくなった。このことは、この異常な構造が、Ni表面に起因した少数スピン状態であると考えられる。 第三にNi(110)表面に吸着後のCO、O、Sについては、束縛エネルギー6eV付近に吸着子の価電子に起因した状態が現れるが、CO/Ni(110)、p(2×1)O/Ni(110)、c(2×2)S/Ni(110)全てについて明確な交換分裂が観測された。これは吸着子自身に長距離秩序を持った磁気モーメントが誘起されることを示している。COとOについては磁気モーメントが、Ni3d電子の磁気モーメントと平行に誘起されることがわかった。一方、Sの交換分裂は、電子のkベクトルによって符号が変化しており、交換分裂に明確なkベクトル依存性があることを初めて明らかにした。 |