本論文は、K-p原子を用いた低エネルギーにおけるN相互作用の実験的研究に関するものであり、8章からなる。第1章はイントロダクション、第2章は測定の原理、第3章は実験装置、第4章は測定、第5章は検出器による解析、第6章はスペクトルの解釈、第7章は結果と議論、第8章は結論で構成されている。 K-中間子水素原子は、K-中間子と陽子がクーロン力によって束縛された系である。K-p原子が励起状態から基底状態に遷移する際に放出されるX線のエネルギーを測定し、K--陽子間の強い相互作用に起因するエネルギー準位のシフトおよび吸収幅を求めることにより、閾値でのN相互作用に関する情報を直接得ることができる。 低エネルギーでのN相互作用を実験的に調べることは、低エネルギーでの強い相互作用の研究を進めて行く上で欠くことが出来ないものである。特に、Nの閾値のすぐ下に存在する∧(1405)共鳴の構造を解明する際に、重要な手がかりになるという観点からも、低エネルギーのN相互作用は重要である。 これまでに行なわれた3例のK-p原子のX線測定は、いずれも引力的なシフトを報告していた。その一方で、K-p散乱実験を含め他の低エネルギーのNのデータの解析からは、斥力的なシフトが報告されていた。この食い違いは、通常の理論的枠組の中で理解するのは不可能と言ってもよく、長年"kaonic hydrogen puzzle"として知られて来た。一方で、過去3例のX線測定実験は、いずれも統計、S/Nともに不十分なものであったため、X線ピークの同定方法に疑問が持たれて来た。 この問題に決着をつけるべく、K-p原子のX線測定実験を、KEK-PSのK3ビームラインで行った(高エネルギー研究所PS実験課題番号E228)。S/Nの良いX線エネルギースペクトルを得るために次の様な実験上の工夫がなされた。 1)静止K-当たりのX線の収量がシュタルク効果によって減少するのを防ぐため、過去の実験とは異なり、高圧・低温の気体の標的を用いた。 2)K-pの反応によって生成する線による背景雑音を除去するため、K-p反応の終状態に2つの荷電粒子が生成した事象(そのような事象では線が生成されない)のみを選び出す。 3)60個のシリコンリシウムSi(Li)検出器を水素標的中に置きX線検出した。このことにより、ベリリウム窓が不要になり、ベリリウムでの吸収によるX線スペクトルの歪みがなくなり、かつ大立体角が得られる。 これらの工夫により、K-シリーズX線のピークを良いS/Nで観測することに初めて成功した。 収集されたデータは、1)K-が水素中に静止し、2つの荷電粒子が生成した事象を選ぶ、2)それらの事象について、入射K-と同期したSi(Li)のX線信号を選び、その上でX線エネルギースペクトルを作る、という手順で解析された。論文提出者は、多量に存在している背景雑音を注意深く取り除き、その結果、過去の実験に比べ遥かにS/Nの良いX線のスペクトルを得た。 このスペクトルから、K-p原子の1s軌道のシフト及び幅は、△E1s=-327±67±11eV(斥力)及び1s=407±208±100eV、という結果を得た。そしてこれらの値は、散乱実験等の他のNデータの解析から得られた値と正に一致した。このことから、過去に行なわれたX線測定実験の結果は誤りであること、そして散乱実験等のデータに基づく結論が正しかったことが明らかにされた。 この様に論文提出者による実験は、過去15年に渡る問題に決着をつけた。これは意義深いものであり、原子核物理学の発展に大きく貢献するものである。 なお、実験は実験課題番号E228による共同研究であるが、論文申請者は、この実験の実験申請承認直後から参加し、実験の準備及び遂行に於いて常に中心的役割を果した。特に実験データの解析は、ほぼすべてを一人で行った。最終的にS/Nの良いX線スペクトルが得られたが、それは申請者による解析上の工夫によるところが多い。 以上のことから、審査委員全員が、博士(理学)の学位を授与できると認めた。 |