学位論文要旨



No 112379
著者(漢字) 伊藤,健靖
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,タケヤス
標題(和) K-中間子水素原子のX線分光
標題(洋) Observation of Kaonic Hydrogen Atom X Rays
報告番号 112379
報告番号 甲12379
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3159号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 酒井,英行
 東京大学 教授 山田,作衛
 東京大学 教授 赤石,義紀
 東京大学 教授 永嶺,謙忠
 東京大学 教授 山崎,泰規
内容要旨

 K-中間子水素原子は、K-中間子と陽子がクーロン力によって束縛された系で、K--陽子間の強い相互作用のためそのエネルギー準位は電磁相互作用のみの場合の値からシフトし、また吸収による幅をもつ。シフトと幅は1s軌道において特に大きく、K-原子が励起状態から基底状態に遷移する際に放出されるX線のエネルギーを測定することにより実験的に直接求めることが出来る。また一般にs軌道のシフトと幅はs波の散乱長と非常に簡単な関係で結び付けられる。このため、K-原子のK-シリーズX線の測定により閾値でのN相互作用に関する情報を直接に得ることができる。

 低エネルギーでのN相互作用を実験的に調べることは、低エネルギーでの強い相互作用の研究を進めて行く上で欠くことの出来ない課題である。特にNの閾値のすぐ下には構造の良く分かっていない∧(1405)共鳴が存在し、その構造を解明する重要な手がかりになるという観点からも低エネルギーのN相互作用は興味の対象になって来た。K-原子のX線測定は閾値でのN相互作用の情報を直接に引き出すことが出来るので特に重要である。

 これまで3例のK-p原子のX線測定が行なわれており、これらはいずれも引力的なシフトを報告している。しかしながらK-p散乱実験等の他の低エネルギーのNのデータの解析によるとシフトは斥力的でなければならない。この食い違いは通常の理論的な枠組の中では理解するのは不可能と言ってもよく、長年"kaonic hydrogen puzzle"として知られて来た。一方で、過去3例のX線測定実験はいずれも統計、S/Nともに不十分なものであったため、X線ピークの同定方法に疑問が持たれて来た。このため精度の良いK-p原子のX線測定の重要性が長年指摘されて来た。

 我々はこの問題に決着をつけるべく新たな実験を行ない、その結果として、K-シリーズX線のピークを良いS/Nで観測することに初めて成功した。本論文では、本実験の原理、方法、及び得られた結果について論ずる。

1 原理及び装置

 実験は図1に示す様な装置を用いて行なった。600MeV/cのK-ビームを炭素ブロックを用いて減速し、水素ガスの標的に静止させた。静止したK-はK-p原子を生成するが、そこから放出されるX線を標的ガス内に置かれたSi(Li)X線検出器を用いて検出した。ここで我々が気体の標的を用いたことは、我々の実験の大きな特徴のうちのひとつである。過去の実験に於いては、静止K-の収量を最大にするため液体水素の標的が用いられたが、シュタルク効果(K-原子が回りの水素原子との衝突により基底状態にX線を出して到達するまえに壊れる)のため、静止K-当たりのX線の収量が少なくS/Nが悪いことの原因となっていた。我々は静止K-当たりのX線収量を上げ良いS/Nを得るために気体(4気圧、100K)の標的を用いた。

 また気体の標的を用いることで、ベリリウム窓を取り払い、X線検出器を直接標的中に置くことが可能となった。これにより、ベリリウムでの吸収によるX線スペクトルのゆがみもなくなり、かつ大立体角を得ることが出来た。さらに立体角を増やすため、過去の実験では数個しか使われていなかったSi(Li)を60個用いた。標的容器の内側にはチタンの箔を張り、入射するK-によっチタンが励起されて放出される特性X線をX線検出器の較正に用いた。

 静止したK-は最終的には強い相互作用のため陽子に吸収されるが、この際に0等の反応生成物が崩壊して生成される高エネルギーの線は、e+e-を対生成し、それらが制動放射のX線を出すため深刻なバックグラウンド源となる。ただ、という反応が起こり、さらに±±nと崩壊した場合には、線は生成されない。終状態に2つの荷電が生成されるのはこれらの事象以外にはないため、荷電を2つ生成する事象を選ぶことにより、線のない事象を選ぶことが出来る。さらに、これら2つの荷電の飛跡を測定し、その交点を求めることによりK-の反応点を求めることが出来る。また標的の密度が低く阻止能が極めて小さいため、K-が静止するまでにかかる時間は反応生成物が標的から出て来る時間を測ることにより十分に測定可能である。このため、2つの飛跡の交点が水素中にあり、かつK-のガス中での飛程と反応までの時間のが正しい相関を持つことを要求することにより、K-が水素中で静止した事象のみを取り出すことが出来る。この目的のため、標的を2層のMWPCとシンチレーション計数管アレイで取り囲み、更に最外層にはK-p反応からの±線の転換によって生じたe+e-を分けるための水チェレンコフ計数管を配置した。

2 解析及び結果

 解析は、1)MWPC及びシンチレーション計数管の情報から、K-が水素標的中に静止し、2つの荷電が放出された事象を選び、2)それらの事象について、入射K-に同期しているX線の信号を選びだしX線のスペクトルを作るという2つの手続きからなる。荷電が2つ放出された事象を選ぶ際には水チェレンコフ計数管だけではなく、の速度(0.8)とe+e-のそれ(1)が違うために、標的を取り囲むシンチレーション計数管の波高にも差が現れることも援用した。水素標的中に静止しているK-を選ぶのには、2つの荷電の飛跡の交点が水素中にあること及び、K-の飛程とK-の反応時間の関係が、静止したK-のものであることを要求した。このようにして得られたX線のスペクトルが図2である。

図1:実験装置(断面図)

 図で4.5keVに見えるのは較正用のチタンのピークである。X線検出器の分解能はおもにマイクロフォニックノイズで決まっているため観測対象のX線領域では定数とみなすことが出来る。6keV付近と8keV付近に見えるのが、K-p原子のX線で、それぞれ、線(2p→1s)及び、(3p→1s)以上が重ね合わさったもの(Kcomplexと表記)に対応する。点線で示したのは、電磁相互作用のみから計算された線のエネルギーで、明らかにシフトの符号は負(斥力的)である。

 得られたスペクトルをfitしてシフトと幅を求めた。その際、各々のX線の強度比が知られていないため、以下のような手続きを取った。1)はっきりと見えている線のピークのfitのみからシフトと幅を求め、2)次にシフトと幅をその値に固定し、Kcomplexの形を再現するように、強度比を決める。その際にチタンのX線の強度も決める。3)再びの領域だけをfitしシフトと幅を決めるが、その際、前に求めたKcomplexおよびチタンのX線からの領域への洩れ込みはバックグラウンドの一部として取り扱う。2)と3)をシフトと幅の値が収束するまで繰り返した。収束は速く、Kcomplexの洩れ込みの影響は小さかった。fitした結果を図2に示す。fitの結果得られたシフト△E1sと幅△1sはそれぞれ、

 

 であった。この結果を図3に示す。比較のために、過去に行なわれた実験の結果、散乱データ等の解析から予想される値、および様々なN相互作用のモデルに基づく計算の結果をしめす。図から分かるように、我々の結果は、特にシフトの符号が、過去の実験のものとは逆であり、散乱データなどの解析から得られたものと一致する。したがって、本実験により、長年の懸案であった"kaonic hydrogen puzzle"に決着をつけることが出来たと考えられる。

図2:得られたX線スペクトル。囲みの中にfitの結果を示す。図3:我々の結果と過去の実験の結果、および理論予想との比較。
審査要旨

 本論文は、K-p原子を用いた低エネルギーにおけるN相互作用の実験的研究に関するものであり、8章からなる。第1章はイントロダクション、第2章は測定の原理、第3章は実験装置、第4章は測定、第5章は検出器による解析、第6章はスペクトルの解釈、第7章は結果と議論、第8章は結論で構成されている。

 K-中間子水素原子は、K-中間子と陽子がクーロン力によって束縛された系である。K-p原子が励起状態から基底状態に遷移する際に放出されるX線のエネルギーを測定し、K--陽子間の強い相互作用に起因するエネルギー準位のシフトおよび吸収幅を求めることにより、閾値でのN相互作用に関する情報を直接得ることができる。

 低エネルギーでのN相互作用を実験的に調べることは、低エネルギーでの強い相互作用の研究を進めて行く上で欠くことが出来ないものである。特に、Nの閾値のすぐ下に存在する∧(1405)共鳴の構造を解明する際に、重要な手がかりになるという観点からも、低エネルギーのN相互作用は重要である。

 これまでに行なわれた3例のK-p原子のX線測定は、いずれも引力的なシフトを報告していた。その一方で、K-p散乱実験を含め他の低エネルギーのNのデータの解析からは、斥力的なシフトが報告されていた。この食い違いは、通常の理論的枠組の中で理解するのは不可能と言ってもよく、長年"kaonic hydrogen puzzle"として知られて来た。一方で、過去3例のX線測定実験は、いずれも統計、S/Nともに不十分なものであったため、X線ピークの同定方法に疑問が持たれて来た。

 この問題に決着をつけるべく、K-p原子のX線測定実験を、KEK-PSのK3ビームラインで行った(高エネルギー研究所PS実験課題番号E228)。S/Nの良いX線エネルギースペクトルを得るために次の様な実験上の工夫がなされた。

 1)静止K-当たりのX線の収量がシュタルク効果によって減少するのを防ぐため、過去の実験とは異なり、高圧・低温の気体の標的を用いた。

 2)K-pの反応によって生成する線による背景雑音を除去するため、K-p反応の終状態に2つの荷電粒子が生成した事象(そのような事象では線が生成されない)のみを選び出す。

 3)60個のシリコンリシウムSi(Li)検出器を水素標的中に置きX線検出した。このことにより、ベリリウム窓が不要になり、ベリリウムでの吸収によるX線スペクトルの歪みがなくなり、かつ大立体角が得られる。

 これらの工夫により、K-シリーズX線のピークを良いS/Nで観測することに初めて成功した。

 収集されたデータは、1)K-が水素中に静止し、2つの荷電粒子が生成した事象を選ぶ、2)それらの事象について、入射K-と同期したSi(Li)のX線信号を選び、その上でX線エネルギースペクトルを作る、という手順で解析された。論文提出者は、多量に存在している背景雑音を注意深く取り除き、その結果、過去の実験に比べ遥かにS/Nの良いX線のスペクトルを得た。

 このスペクトルから、K-p原子の1s軌道のシフト及び幅は、△E1s=-327±67±11eV(斥力)及び1s=407±208±100eV、という結果を得た。そしてこれらの値は、散乱実験等の他のNデータの解析から得られた値と正に一致した。このことから、過去に行なわれたX線測定実験の結果は誤りであること、そして散乱実験等のデータに基づく結論が正しかったことが明らかにされた。

 この様に論文提出者による実験は、過去15年に渡る問題に決着をつけた。これは意義深いものであり、原子核物理学の発展に大きく貢献するものである。

 なお、実験は実験課題番号E228による共同研究であるが、論文申請者は、この実験の実験申請承認直後から参加し、実験の準備及び遂行に於いて常に中心的役割を果した。特に実験データの解析は、ほぼすべてを一人で行った。最終的にS/Nの良いX線スペクトルが得られたが、それは申請者による解析上の工夫によるところが多い。

 以上のことから、審査委員全員が、博士(理学)の学位を授与できると認めた。

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