学位論文要旨



No 112397
著者(漢字) 首藤,健一
著者(英字)
著者(カナ) シュドウ,ケンイチ
標題(和) Si(111)表面での塩素及び水素の光脱離・光解離と共吸着
標題(洋)
報告番号 112397
報告番号 甲12397
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3177号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 長谷川,修司
 東京大学 教授 井野,正三
 東京大学 教授 長澤,信方
 東京大学 助教授 末元,徹
 東京大学 助教授 秋山,英文
内容要旨 【序文】

 表面は固体の性質を備えているとともに、表面固有の原子配置や電子状態を持つので、固体内部と異なる反応が起こる。特に半導体の表面状態は真空に向かって生えているダングリングボンドで特徴づけられる。ダングリングボンドは表面の構造をに大きく影響するばかりでなく、吸着物との反応性も高い。塩素や水素を吸着すると、このダングリングボンドの状態が変化する。そのような吸着子の結合に伴う電荷の移動によってどの様な表面反応が生じるかを、主に表面原子配置の構造を調べることによって明らかにした。

 表面反応の中でも光反応は、特定の状態の電子が直接遷移して開始する。従って反応に関係する電子状態を選び出すことが出来て、反応の機構を解明するためには都合がよい。また、光励起は電子が特定の準位に励起されるので、熱平衡ではない分布で励起状態を作り出すことが出来る。この性質から、熱処理では得られなかった表面を作る為の比較的新しい方法として着目されている。

 実験は全て10-10Torrより高い真空度の中で行った。試料にはシリコンの(111)面を用いた。真空中で通電加熱によって清浄表面を得た。この表面のFig.1に示したような下地結晶の7×7倍の長周期を持つDAS模型と呼ばれる構造をしている。特にアドアトム、レストアトムと呼ばれる表面第一、第二層目の原子の配置に着目することが重要である。光の照射の光源にはNd:YAGパルスレーザーをおよそパルスあたり10mJ/cm2の強度で用いた。また、水素の被曝量は1L=1×10-6Torr・secで示す。

 この清浄表面のDAS構造を走査トンネル電子顕微鏡(STM)で観察したのがFig.2である。尖端を持つタングステンの探針で表面の電子軌道の状態密度を原子解像度で走査し、濃淡として実空間上で表した像である。丁度アドアトムの位置で明るくなっているのは、その原子のダングリングボンドを反映している。

【塩素吸着表面】

 塩素の吸着は被曝量を増すにつれてアドアトムがSiCl,SiCl2,SiCl3となることがXPSの実験などから知られている。十分な塩素を付けてから500度程度まで加熱するとアドアトムがSiClxとして脱離し、DASの第二層目の構造からなるレスト面が塩素終端された状態で現れ、その上にクラスターが残っていることが既に明らかにされている。

 清浄表面にわずかな塩素を吸着した時に得られるSTM像はFig.3で、一部の原子が暗くなっていることが分かる。バイアスを上げて行くとこの明暗の差が減少する。この表面では塩素がアドアトムと結合してモノクロライドを作っている。像が暗く見えるのは、塩素によるダングリングボンドの終端で状態密度が減少した為である。この初期吸着表面に4.7eVの紫外光照射を行ってもSTM像は変化しない。その結果から、モノクロライドはこの光照射では脱離しなかったといえる。

 塩素を飽和吸着させて、1.1,2.3,3.5,4.7eVの紫外光照射を行うと全ての波長でFig.4にあるようなレスト面が現れた。このレスト面には熱処理面に比べると欠陥が多くクラスターが見られない。従ってこの面の形成過程は、全ての励起が格子振動と平衡な昇温脱離とは異なる。塩素の吸着でSi-Siバックボンドが弱くなって、弱いエネルギーの光照射でも脱離したと結論出来る。初期吸着から飽和に渡る範囲までの塩素吸着を行った表面のそれぞれに光照射を行ってから表面を観察すると、レスト面の領域が見られ、塩素の量が増えるにつれてその領域が広がる傾向にあった。これはポリクロライドが増えて、これが光脱離した結果だと考えられる。

 光照射の脱離種の質量を調べると、アドアトムはSiCl2の形で脱離してしいることが分かった。脱離収量の波長依存を測った結果がFig.5である。図はある一定脱離収量を得るのに必要な光の強度(フルーエンス)を示したもので、赤外光照射でも脱離するが、下地の吸収の少ない長波長側で強度を上げなくてはならない。これは、脱離の励起源となる光吸収が下地結晶で吸収された事を示唆している。

【水素吸着表面】

 昇温脱離や電子線エネルギー損失分光から、Si(111)清浄表面に原子状水素を被曝すると、初めにモノハイドライドSiHが出来て、吸着量が増えるに従ってポリハイドライドSiHx(x=2.3)が出来ることが知られている。既に他の研究者の手によって、飽和吸着では一様に水素終端されたレスト面が出現し、ポリハイドライドからなるクラスターがその上に出来るというSTM観察の報告がなされている。この表面の形成機構として、被曝量を増やしてポリハイドライドが出来ると表面でSiHxが動いてクラスターになるという描像が作れる。

 吸着初期に数L程度被曝した後では、アドアトムのダングリングボンド終端で形成されるモノハイドライドが、塩素と同じ様にSTMでは明暗のある原子像として観察される。紫外線照射(4.7eV)では暗い原子の数は減少する事はなかった。この波長の光照射ではモノハイドライドのシリコンも水素も脱離しないと結論される。被曝量600Lの水素飽和吸着表面に4.7eVの光を当てても均一な明るさのレスト面の上にクラスターが観察された。これは光照射前と同様の構造であり、レスト面のモノハイドライドも光照射で変化しなかったといえる。

 水素被曝量を数十から数百Lの間で変化させて水素吸着させた面ではFig6にあるような雲状のなSTM像得た。これを見ると細かいクラスター多数が均一に分布している事が分かる。即ちポリハイドライドが少なくてクラスターが成長していない状態の像だと判断できる。

 水素の被曝と同時に紫外光照射(4.7eV)を行うと、雲の様な表面の像を得た。これはクラスターを作る途上の表面とよく似ており、ポリハイドライドが未だ不十分な状態といえる。クラスターになる前にポリクロライドが水素を放出して解離したと解釈できる。清浄面に可視光照射(2.3eV)と同時に水素被曝を行うとレスト面が現れた。長い波長では光解離の効果はない。

 モノハイドライド表面に於けるSi-H間の結合状態と反結合状態の表面準位間隔は半経験的数値計算の結果によると4.7eVよりも広く、ポリハイドライドでは更に広がる。従ってこの実験で用いた光ではSi-H結合が直接励起したとは考えられない。つまり下地結晶の励起電子が結合の切断に関与している。この電子が反結合状態に入る過程がこの機構の第一の候補である。一方Si-Hでは振動の寿命がかなり長いことから、下地電子の緩和に際してこの振動が多重励起されて脱離につながった可能性もある。

【塩素と水素の共吸着表面】

 塩素と水素を両方とも表面に被曝したときにどの様に共吸着するかを調べた。

 塩素だけを吸着した表面は450度まで加熱すると、欠陥の少ないレスト面が現れ、時間と共にその上に載っているクラスターは少なくなって行く。一方、水素だけを吸着した表面は450度まで加熱するとDAS構造が回復する。この時アドアトムには水素が結合しているが、時間と共に水素が脱離する。

 塩素を飽和吸着した表面に水素を被曝した。この試料を450度でおよそ70分間程度加熱すると局所的にDAS構造に戻りつつある事が分かった。この加熱条件での水素吸着のみ或いは塩素吸着のみの面との比較をすると、アドアトムと結合しているかなりの塩素は水素の被曝に水素で置き換わったと解釈してよい。しかしDASに戻るには水素だけよりも長い時間を要するのは、恥部の塩素が加熱時にも残ってアドアトムのダングリングボンドと結合しているからだと考えられる。

 塩素吸着後に加熱して得られたレスト面について、600Lの水素被曝前後で比較を行うと、欠陥が増えていた。欠陥はコーナーホールの周りに多く形成され、その近くではDAS構造の配置からずれているものが観察された。また、ダイマーの溝が深く、アドアトムの像の明るさが不均一に見えた。この試料に対して更に460度で10分加熱すると、下地は基本的にレスト面から構成されて居るのがはっきりと、その上にアドアトムが回復していた。塩素吸着表面に光を照射して得たレスト面に対しても、水素を600L被曝してから450度で10分加熱した表面をSTMで観察したところ、加熱して得られたレスト面に対して行った結果と同じであった。

 これらの結果からm塩素終端されているレスト面は水素被曝によって水素終端になったと断定される。アドアトムがDASの構造に戻ろうとしても、一部のSiClx脱離は起きた為にレスト面のダイマーの溝がはっきりと見えたと考えられる。

 最後には被曝の順序を逆にして、水素吸着に続けて塩素吸着を行った面に対しやや高い温度(550℃)で加熱を行うと、DAS構造がかなり回復し、ステップで囲まれた穴が何段も形成されている事が分かった。この表面に見えるアドアトムの幾つかは他のアドアトムよりも暗い。この明るさの差異は、バイアス電圧を高くしてゆくと明暗差は減少した。穴の形成は、一部のシリコン原子は塩素と結合したままで加熱時に脱離したて、水素と結合した残りのシリコンはDASに戻ったためと推測される。水素のみの表面と比較すると、一部の暗く見えた原子だけが塩素で置換されて加熱後にも残ったと判断してよい。

 いじょうをまとめると、塩素と水素の共吸着ではどちらを先に吸着しても最後には殆ど水素がダングリングボンドを終端し、水素と結合しているアドアトムは基本的にDAS位置に戻る。但し一部は塩素と結合しており、それが加熱後の表面の微妙な差の原因となっている。

Fig.1Si(111)-7×7表面DAS模型Fig.2清浄表面STM像Fig.3塩素初期吸着表面STM像Fig.4レスト面(塩素飽和面に紫外線を照射)のSTM像Fig.7塩素吸着表面の脱離閾値の波長依存性Fig.6微少なポリハイドライド覆われた表面。
審査要旨

 本論文は、塩素および水素を吸着させたシリコン表面にレーザー光を照射し、その時に起こる光解離・光脱離反応過程を原子レベルでの構造の変化の観察を通して実験的に明らかにした研究である。その成果として、反応過程での構造の変化の解明とともに反応機構について新しい知見を得た。実験手法としては、主に走査トンネル顕微鏡(STM)を用い、さらにX線光電子分光法と質量分析法を補助的に併用した。

 本論文は、七章から構成されている。第一章は序論であり、本研究の背景と目的が述べられている。第二章では、本論文の研究対象となっているシリコン表面およびその光反応について従来から知られている研究結果をレビューし、さらに本実験で用いた実験手法の原理を紹介している。第三章において、本研究の実験装置および実験手順、試料作成法が詳述されている。実験結果とその考察は、第四、五及び六章に詳述されており、それぞれ、塩素吸着表面、水素吸着表面、および塩素と水素の共吸着表面について章を分けて述べられている。第七章において、本研究で得られた結論をまとめ、その意義と今後への課題を述べて終えている。

 本研究で取り上げられているシリコン(111)表面の構造と物性は従来からよく研究されており、また、その表面に塩素および水素が吸着した表面についても研究がかなり進んでいる。その理由は、固体表面における典型的な化学反応系と見做されているので、学問としても重要であるばかりでなく、エッチングなど半導体産業で重要な技術の基礎研究となるからである。本研究では、そのような従来の研究の基礎の上に立ち、研究例の殆ど無い光反応過程を解明することを目的として行われた。特に、赤外光から紫外光の範囲のレーザー光の照射によって引き起こされる塩素や水素の解離・脱離反応の過程を、STMを駆使して観察して原子移動と構造の変化を明らかにした。また、同時に光反応機構を電子励起という観点から解明したことに本研究の新規性があると言える。以下、それぞれの吸着表面での光反応について得られた結果を詳述する。

1.塩素吸着表面の光脱離反応について

 Si(111)-7×7清浄表面上に塩素を吸着させると、「アドアトム」がポリクロライドを形成し、それは2.3eV以上のエネルギーの光照射によってSiCl2として脱離することが明かとなった。さらに、その脱離後には塩素終端されたレスト面(モノクロライド)による7×7構造表面が形成されることを見いだした。このモノクロライドは4.7eVの紫外光照射によっても脱離せず、非常に安定であることが判明した。この結果は、X線光電子分光法によるシリコンの内殻準位シフトの測定によっても裏付けられた。SiCl2の脱離収量の光エネルギー依存性を測定した結果、原子間の結合の解離は反結合状態に直接励起されて引き起こされるのではなく、光励起によってシリコン基板中で作られたキャリアが表面に到達して原子結合の解離を引き起こしていることが明らかになった。

2.水素吸着表面の光解離反応について

 原子状水素を吸着させた時に形成されるモノハイドライドおよび水素化物クラスターは、4.7eVの紫外光照射でも解離や脱離などの反応が起こらなかった。しかし、水素化物クラスターが形成される途中でのポリハイドライドは、紫外光照射によって水素を放出して解離し、その結果、水素化物クラスターの形成が阻害されることがわかった。シリコン原子と水素原子間の結合エネルギーと、照射している光エネルギーの大小関係を考えると、この水素化物の解離過程は、塩素の場合と同じく、光によって反結合状態に直接励起されるのではなく、下地バルクで形成されたキャリアが表面に到達して解離を引き起こしていると結論づけた。しかし、そのキャリアが反結合電子状態に共鳴して解離しているか、あるいは原子振動の高励起状態を作り出して解離しているのか、本研究だけでは決定できない。

3.塩素と水素の共吸着表面について

 塩素と木素が共存する状態でのシリコン表面への吸着過程の研究は、塩化シランを使った化学気相堆積法の基礎過程を解明する上で大変重要である。本研究では、上述の塩素および水素を個別に吸着させた場合で得られた知見をもとに、塩素と水素を共吸着された場合の構造を調べた。その結果、最初に塩素が吸着しているシリコン表面に原子状水素を被曝させると、殆ど全ての塩素は水素に置換され、水素化物に変化することがわかった。しかし、逆に、はじめに水素を吸着させておいたシリコン表面に塩素を被爆させても水素との置換は殆ど起こらず、構造の変化は見られなかった。このような置換反応の有無は、シリコン原子と水素原子、あるいはシリコン原子と塩素原子との局所的な結合状態に支配されているとして説明できることを明らかにした。

 以上述べたように、本研究では、塩素と水素の吸着したシリコン表面の光解離・光脱離反応過程をSTMを用いて詳細に観察し、その反応機構を或る程度明らかにした。このような研究は前例の無いもので、表面物性物理の分野での新たな展開に寄与したと認められるので、博士(理学)を授けるに十分な内容を持つものであると審査委員全員一致で認定した。なお、本研究の一部は指導教官をはじめとする所属研究室のメンバーとの共同で遂行されているが、本論文の中核をなす実験の実施およびその解析については、論文提出者が主体的に行ったものと判断した。

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