本論文は、8章からなり、第1章は研究の動機と目的、第2章は光電子分光実験と光電子分光スペクトルの解析方法、第3章は高分解能光電子分光実験装置について述べられている。第4章では、X線吸収スペクトルにみられるDCNQI-Cu塩の価電子帯の異方性について、第5章では、価電子帯および内殻光電子スペクトルを用いてDCNQI-Cu塩の電子状態について説明されており、第6章では高分解能光電子分光スペクトルをもとに、DCNQI-Cu塩に対する朝永-ラッテンジャー流体の適用について議論している。第7章は高分解能光電子スペクトルをもとにBEDT-TTF塩(ET塩)の電子状態について述べられており、第8章は本研究全体のまとめである。 1970年代に合成されたTCNQをはじめとする有機導体は、1次元あるいは2次元的な伝導帯を持つことで特徴づけられ、金属絶縁体転移、超伝導、反強磁性など多彩な物性を示す物質系として注目されている。近年、これらの特徴的な物性の原因と考えられている伝導電子間の強い電子相関を明らかにするため、光電子分光実験による電子状態の研究が盛んに行われている。本論文は、80Kで金属・絶縁体転移を示すDCNQI-Cu塩、および超伝導を示すBEDT-TFF塩(ET塩)の電子状態について述べたものである。 DCNQI-Cu塩は、DCNQI分子のp軌道が作る1次元伝導帯と、これらを繋ぐCu3d軌道との混成によって単純な1次元性金属とは異なった物性を示す。本研究では、DCNQI-Cu塩(DMe-DCNQI-d7)2Cu)のN1sおよびCu2p内殼X線吸収スペクトルの温度依存性および偏光依存性を測定し、バンド計算との比較を行って、伝導帯が擬1次元的であることを確認するとともに、吸収スペクトルの温度依存性から、金属から絶縁体に転移する際に、Cuの平均価数が増大することを見い出した。また、DCNQI-Cu塩((DMe-DCNQI-h8)2Cu)の価電子帯スペクトルの励起光エネルギー依存性を測定して、DCNQI分子のsp、sp軌道およびCu3d電子状態の結合エネルギーを同定するとともに、N1sおよびC1s内殻スペクトルの形状が、メチル基およびシアノ基の配位数でおおよそ説明できることも示した。 さらに本論文では、従来よりも格段に高いエネルギー分解能で価電子帯スペクトルの温度依存性を測定し、フェルミ準位付近のスペクトル形状に対して朝永-ラッテンジャー流体の適用を試みた。その結果、価電子帯スペクトルは、フェルミ準位のごく近傍では有限のスペクトル強度を持ち3次元フェルミ流体的であること、EFから少し離れた領域ではスペクトル形状は結合エネルギーのベキ乗に比例し、価電子は朝永-ラッテンジャー流体的に振る舞うと考えられることを示した。このことは、DCNQI-Cu塩において伝導電子の1次元性と3次元性のクロスオーバーが生じていることを示唆している。 一方、本研究では、電子相関の大きさがことなるいくつかのET塩(NCS塩、Br塩、d8-Cl塩、KHg塩)についても高分解能光電子スペクトルを測定した。これらET塩の価電子帯スペクトルをHF近似によるバンド計算との比較を行うと、すべてのET塩について価電子帯スペクトルがバンド計算と大きく異なる。モデル自己エネルギーを取り入れたスペクトル計算を行い、スペクトルの再現を試みた結果、ET分子が二量体化し伝導帯の半分が電子に満たされている、NCS塩、Br塩、d8-Cl塩については非常に強い長距離電子相関が実現されていることがみとめられた。 以上のように、本論文では、擬一次元性および擬二次元性有機導体であるDCNQI-Cu塩およびET塩の電子状態について、光電子分光、X線吸収分光などの分光実験によって新しい知見を得ている。特に、高分解能光電子スペクトルの形状解析の結果は、一次元性有機導体の電子状態の研究に強いインパクトを与えるものである。 なお、本論文の放射光を利用した分光実験は、他の研究者と共同で行ったものであるが、論文提出者が主体となって測定、解析を行ったもので論文提出者の寄与が十分であると判断する。 よって、審査委員全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認める。 |