少数自由度系でも、カオス発振状態にある系は、周期的発振状態にある系に比べて、極めて多様な発振パターンを示す。ところがカオス系は、初期条件やノイズに非常に敏感に依存してその振る舞いを変化させるため、実際の系では、特定の発振パターンを意図的に実現することは難しい。そこで近年、カオス状態にある系に外部変調を加えることにより、初期条件やノイズの存在によらずに、特定の発振パターンを実現しようとする研究が盛んに行われている。変調を加える方法としては、目標とする状態と現在の状態との差をフィードバックする方法と、現在の状態に依存しない変調信号を加える方法がある。前者では、引き込みが起きるメカニズムは理解しやすいが、リアルタイムに変数の値を計測し、それに応じたフィードバックを加えなければいけないので、時間変化の速い系には応用しにくい。これに対して後者は、時間変化の速い系にも簡単に応用できるが、引き込みが起きるメカニズムは十分に理解されていない。 これまでに、定常状態にある系や周期的な振る舞いを示す系に外部変調を加えたときに、系の運動が変調に引き込まれる現象や、反対に系がより複雑な運動に変化する現象は広く調べられている。これに対し、カオス系が変調に引き込まれてより秩序だった振る舞いに変化する現象の解明を通して、カオス発振状態にある非線形系の外部変調に対する応答を調べることは興味深い。また、外部変調により特定の発振パターンを意図的に実現することができれば、カオス状態にある系がもつ多様な振る舞いは、暗号通信や信号発生器などに応用できる。 本研究では、共振器中に可飽和吸収体を含むCO2レーザー系(CO2LSA:Laser with Saturable Absorber)を用いて、カオス発振状態にある系のパラメータを変調したときに、系が変調に引き込まれた発振状態に移行する現象について調べた。具体的には、微少振幅のsin変調を加えたときにカオス発振が周期的発振に移行する現象(第3章)、あらかじめ記録したカオス発振の時系列に基づく変調を加えたときに、現在の系におけるカオス発振が記録した発振パターンに引き込まれる現象(第4章)、および、あらかじめ記録した時系列をオンオフ信号に変換し、これに基づくオンオフ変調を加えたときにも、現在の系におけるカオス発振が記録した発振パターンに引き込まれる現象(第5章)を実験と数値計算の両面から調べた。さらに、変調パラメータを幅広く変化させて数値計算を行い、カオス系が、このようなフィードバックを用いない変調信号に引きこまれる現象のメカニズムについて考察した。 第2章では、本研究で用いているCO2LSAについて説明する。この系は、次のような理由で、非線形系の外部変調への応答を研究するには理想的な系といえる。(1)制御性に優れ、ガス圧や放電電流を変化させることにより様々な非線形現象を示しうる。(2)可飽和吸収体に加えるシュタルク電場を時間変化させることにより、簡単にその吸収断面積を変調することができる。さらに(3)単一モードCO2レーザーは、発振のダイナミクスが簡単で、簡単なレート方程式に基づく数値計算により実験結果を再現できる。このため、数値計算では、実験では観測することが難しい変数に着目して系の振る舞いを調べたり、実験的に得ることが難しいパラメータ領域における系の振る舞いを調べたりすることができる。これにより、引きこみが起きるメカニズムに関する議論や新しい現象の予測をすることができる。 第3章では、パラメータに微少振幅のsin変調を加えたときに、カオス発振状態にある系が、変調に引き込まれて周期的発振に移行することを実験と計算により明らかにした。さらに、変調パラメータを様々に変化させて数値計算を行い、可飽和吸収体の吸収断面積の関数として描いた分岐図を用いて系の振る舞いを調べることにより、以下のことを明らかにした。変調がないときの周期窓におけるレーザー発振の周期をT0とすると、変調周期TがT0に近いときには、分岐図中で周期窓が移動する。このとき、(1)窓の移動する方向は2つある。(2)窓の中では、レーザーは変調に引き込まれた周期的発振をしているが、その発振の変調信号に対する相対的な位相は(1)の2つの方向で異なる。(3)窓の移動量は変調振幅に比例する。(4)周期窓の幅は変調振幅の線形関数である。 さらに、より簡単な一次元離散力学系においても(1)-(3)と同様な現象が現れることを示した。 第4章では、あらかじめ記録したカオス発振の時系列に基づく変調信号をパラメータに加えると、現在の系におけるカオス発振が、記録した時系列と同じ発振パターンに引き込まれる現象(カオスの同期現象)を観測した。これ以前に、同時にカオス発振している2つのレーザー系を用い、一方(マスターレーザー)の出力を他方(スレーブレーザー)の可飽和吸収体に入射した系において、スレーブレーザーのカオス発振がマスターレーザーのカオス発振に同期する現象が観測されている。マスターレーザーの出力を可飽和吸収体に入射して、飽和によりその吸収断面積を減少させる代わりに、本研究では、あらかじめ記録した発振が仮想的に可飽和吸収体に入射されたとして、シュタルク変調によりその吸収断面積を減少させた。可飽和吸収体(CH3OH)の緩和は、レーザー強度の時間変化に比べて十分に速いので、レーザーに共鳴した準位間の分子数密度差は、直ちに、そのときのレーザー強度に依存した平衡値に収束する(断熱近似)。このような近似のもとでは、パラメータ変調を加えたときも、光入射をしたときと同じメカニズムで同期が起きることを示した。 次に、パラメータ変調を用いた同期現象により、カオス発振状態にあるCO2LSAの振る舞いを、特定の発振パターンに引き込むことができることを、実験と数値計算の両面から示した。つまり、記録したカオス発振の時系列に含まれる、任意の非周期的な発振パターン、および周期的発振パターンに、現在の系における発振を引き込むことができる。周期的な発振パターンへの引き込みは、記録した時系列に含まれる不安定な周期的発振の部分を選び、それを変換したものを繰り返し変調信号として用いることにより実現した。同時に発振しているレーザー系における同期現象の場合には、敏感な初期条件依存性のために、マスターレーザーの発振パターンを恣意的に選ぶことは困難である。これに対し、記録した発振を用いた同期現象の場合には、記録した発振パターンの中から任意の発振パターンを選び、そのパターンに恣意的に系を同期させることができるのである。 さらに、数値計算によりノイズの存在がこのような同期現象にどのような影響を与えるかを調べた。その結果、記録した発振が、最大のパルスの高さに対して数%のノイズを含んでいても、同期が起きることを示した。このことから、変調信号がどの程度可飽和吸収体を飽和させるかよりも、いつ飽和させるかがこのような同期現象に本質的であることがわかる。しかし、ノイズの振幅がパルスの高さに対して無視できないほど大きくなると、変調信号によりランダムに飽和が起きるので、可飽和吸収体による受動的。Qスイッチが有効でなくなり、系はcw的な発振を示すことがわかった。 第5章では、記録した発振を変形して、同期現象が起きるためには、変調信号のどの情報が本質的であるかを実験により調べた。このために、記録したカオス発振の時系列をある強度(しきい値)を基準にオンオフ信号とし、これに基づくオンオフ変調信号を系のパラメータに加えたときも、現在の系が記録した発振パターンに引き込まれることを示した。このとき、しきい値は個々のパルスが識別できるような大きさに選ばなければならない。 さらにこの現象を応用すると、記録した発振以外にも、系が示しうる発振パターンを実際の系で実現できることを示した。系が示しうる発振パターンは、2つの相関、つまり、連続するパルスの高さの相関(リターンマップ)、および、パルスが立ち上がる時間間隔とパルスの高さとの間の相関から類推できる。この類推された発振パターンからオンオフ変調信号を作り、それを用いて系のパラメータを変調すると、類推された発振パターンを実際の系で実現できることを示した。このとき、変調をオンにする時間幅を適当な値に固定しても、引き込みが起きることも示した。これにより、有限の長さにわたってカオス発振の時系列を記録し、その系がもつ相関を求めれば、その逆変換として得られる無数の発振パターンを意図的に実現できることを明らかにした。 これらの結果から、CO2レーザーにおけるカオス発振を、意図的に特定の発振パターンに引き込むためには、その発振パターンがもつ時間間隔で可飽和吸収体の吸収断面積を減少させることにより、系の発振の時間間隔を制御すればよいことが明らかになった。レーザー発振の時系列中で、パルスの高さとパルス間の時間間隔との間には強い相関があるので、このような現象が起きるのは、パルスの高さの情報が時間間隔の情報に含まれているためと理解できる。 第4章および第5章では、カオス状態にある系に変調を加えた場合について考察したが、これらの引き込み現象は、カオス発振が現れる直前の周期倍加を起こしているようなパラメータ領域においても起きることが数値計算によりわかった。しかし、パラメータをカオス領域から遠ざけると、このような引き込みは起こらなくなる。このことから、記録した発振と近い性質をもつ系に、記録した発振の時系列に基づく変調信号を加えたときに、このような引き込みが起きることがわかる。 本研究では、カオス発振状態にある系のパラメータを変調したときに、系が変調に引き込まれた発振に移行する現象について、実験と数値計算の両面から調べた。少数自由度の非線形系では、ローレンツプロットなどの位相幾何学による定性的な議論が成り立つような系が多いため、位相空間における解析のアナロジーから、本研究で得られた結果は、ほかの非線形系における現象の解明と予測に役立つと考えられる。 |