最近の高温超伝導体関連の実験的研究はその関連物質に興味関心がシフトしてきた。膨大な物質群の中から、スピン励起にギャップを示す興味深い物質もいくつか発見されている。元素組成が無限層超伝導体と同じで、Cu2O3面内が実質的に1次元2本鎖の集合体とみなされているSrCu2O3や、2次元物質としては始めてスピンギャップを示したCaV4O9などが典型的な例である。これらの物質は絶縁体であり、NMRや帯磁率の実験等でスピン励起に本物のギャップが観測されている。また、SrCu2O3のCuを磁性不純物のZnで置換すると、わずかな置換量(0.5%)ですらスピンギャップがつぶれて反強磁性が観測されるということも実験的に分かった。何故ギャップが出来るのか、そこにキャリアを入れたり、不純物を入れた時、系の性質はどのように変わるのか、などを研究することは高温超伝導体の機構解明に何らかの手がかりを与えるものと考えられ、価値のあることであり、本博士論文の研究の動機ともなっている。 本博士論文では、上記のような高温超伝導関連物質の絶縁体のモデルとなる様々な格子構造に対し、解析計算、及び数値計算を通じて各系の基底状態、低励起状態の性質を中心に研究を行い、その物理的な考察を行う。具体的には以下に挙げる4つの格子構造を持ったハイゼンベルグモデルに対して研究を行った(各格子構造は図を参照)。 1、異方的な2次元正方格子ハイゼンベルグモデル 2、2次元2重層正方格子ハイゼンベルグモデル 3、CaV4O9(2次元正方格子から規則的に20%サイトを取り除いた格子) 4、SrCu2O3の不純物置換効果(2本鎖に不純物混入) 図表 各モデルに対するアプローチの仕方、研究目的を以下で詳述する。 1、このモデルはスピンギャップを持たない系であるが、1次元鎖を1本ずつ重ねていったときの系の性質が不連続に変わる振る舞いとの相違を見る意味において、重要な研究と思われる。系の1次元から2次元への変化をxy方向の反強磁性結合比(Jx/Jy)を変えることにより連続的に調べることが出来るからである。一般にJx/Jy=0の時はベーテの厳密解が示すように反強磁性はないことが知られているが、Jx/Jy=1の時は2次元正方格子となり反強磁性が絶対零度で存在する。問題の焦点はJx/Jyを変化させたときに相転移点がどこにあるかである。 2、YBCOの母物質のモデルでもあるこの系は、面間/面内の反強磁性結合比J‖/J⊥を変えることにより系の性質が不連続に変わる。比が0、つまり2枚の平面間に相関がない時、系は反強磁性であるが、比を大きくすると反強磁性は消失しスピン励起にギャップが出来、その間に相転移点が存在する。相転移点の値、相転移前後の静的構造因子、励起スペクトル、スピン波速度の変化などを調べることがが研究の目的である。 3、CaV4O9という物質は図に示すように2次元正方格子から20%サイトを取り除いたダイマーとプラケットを規則的に敷き詰めた構造をしている。それぞれの結合比を変えることにより両極限でギャップが生じるのは容易に分かるが、実験的にはこの結合比は1と信じられスピン励起にギャップが開くのだが、発見直後これが単に格子欠損の効果なのか、次最近接のフラストレーションによる効果なのか分からなかった。この格子に対し、ダイマーとプラケット結合比が同じで、なおかつ最近接の相関の範囲で基底状態は反強磁性秩序になるのか、励起スペクトルはどうなるか等を調べた。 以上のモデルに対しては、RVBスピン液体による平均場計算、及びその結果を利用して2重占有を排除して作られた変分波動関数による変分モンテカルロ計算を行い、それぞれの系での絶対零度での性質(ボンド間エネルギー、交替磁荷、スピン相関、静的構造因子)、及び低エネルギー励起(励起スペクトル、スピン波速度)などを計算する。この変分波動関数は以下の3つの点において優れている。1つ目の利点は変分により計算されたエネルギーの値が非常に正確な固有エネルギーに近くなっているという事である。例えば正方格子の場合、最良波動関数によるエネルギー値は、一般に信じられている値の99.9%である。従ってこの波動関数により計算される他の物理量、例えば交替磁荷やスピン相関の振る舞いも精度の良いものになると期待できる。2つ目の利点は変分波動関数が系の性質(例えば系が長距離秩序を持っているか否かなど)によらずにRVB状態で統一的に状態を記述できるという事である。これは摂動展開などが効きづらい中間領域にも、全く何の問題もなく適用できることを意味する。3つ目の利点はSMA(single mode approximation)が適用でき、系の低エネルギー励起について調べられることである。運動量空間での分散を計算できるので、系がギャップレスか否かや、スピン波速度の定量的な見積もりなどが出来る。 4、SrCu2O3は1次元2本鎖ハイゼンベルグモデルで記述され、スピンギャップがある物質として知られている。この物質のスピンサイトを非磁性不純物に置換するとわずかな不純物濃度でも反強磁性が現れるという事が実験的に分かった。この反強磁性発生のメカニズムをミクロに知ることが目的である。この不規則不純物混入系に対して量子モンテカルロ法で様々な不純物濃度、温度の関数としてはT/J=0.005という低温領域までに渡り、一様帯磁率及び、交替帯磁率を計算した。また、その結果に3次元性を考慮した平均場近似を適用することにより、ネール温度の不純物濃度依存性を求め、実験との比較をした。 上記のモデルに対する計算結果とその物理的解釈、仕事の意義は以下の通りである。 1、平均場計算では相転移点が有限のJx/Jyに現れてしまうが、変分計算では相転移点はJx/Jyが0の時である。QMCの研究などから判断して相転移点は0と考えられており、1次元に近い系では平均場が良くないことが分かった。変分計算では、励起スペクトルは常にギャップレスでありスピンギャップはどのパラメーター領域にも存在しない。この結果は1本差を1つずつ重ねていく場合とは著しく異なっている。この研究の意義は、少しでも2次元的な相関が入れば系は基本的に2次元的に振る舞い、その性質はカップリングの比により連続的に変化することが分かったということである。 2、RVB変分計算による相転移点はJ‖/J⊥=3.51である。これ以下の時は励起スペクトルはk=(0,0,0)とk=(,,)の2点でギャップレスになっている。静的構造因子S(k)の振る舞いは相転移前後で劇的に変わる。磁性があるときはギャップレスの2点近傍でにkに比例していたS(k)が、相転移後はkの2乗に比例するようになる。これに伴って反強磁性が消えると同時にギャップレスだった2点共、スピン励起に有限のギャップが開く。ギャップが出来たときの最低エネルギー励起はk=(,,)に存在し、これは反強磁性スピン揺らぎの名残と解釈できる。スピン波速度は反強磁性の大きさに反比例するように振る舞い、磁性が消失した時に発散する。この研究の最大の意義は、RVB波動関数が変分波動関数としてあらゆるJ‖/J⊥に対し連続的に取り扱え、特に相転移前後を含んだ中間領域の研究手段として非常に有効なことが分かったことである。 3、計算されたエネルギー値は他の手段で見積もられているエネルギー値のどれよりも低く、最良波動関数は非常に精度の高いものであることが分かる。プラケット/ダイマーの結合比(Jp/Jd)が同じ場合、最近接の相関の範囲では基底状態は反強磁性秩序になり、単純な格子の欠損ではスピンギャップは開かない事が分かった。この結果は平均場近似、QMCの結果などと照らし合わせても矛盾はなく、実験事実を説明するためには、次最近接間の相互作用が必要なことが分かる。励起スペクトルは、正方格子のそれと非常に似ており、スピン波速度は最近接点が正方格子に比べて1つ少ないためか、比較すると少し小さくなっていた。この研究の最大の意義は、ハミルトニアンの結合比Jp/Jdが同じであっても、ボンド間の相関エネルギーは、ダイマーに比べプラケット間の方が1.1倍も大きい事が分かったことである。このことは格子構造そのものがプラケット間結合を強めていることを意味している。QMCによりJp/Jdを1から少し大きくすると系はフラストレーションがなくてもギャップを持つことが分かっているが、このボンド間の結合エネルギーの相違は、格子構造がギャップを作るか否かに直接拘わっているという意味で興味深い。 4、不純物を入れると一様帯磁率、交替帯磁率共にT=0発散するように見える。一様帯磁率に対しては、単純なフリースピンの描像は1%濃度の時成立するのだが、それ以上になると適用できない。また、交替帯磁率の結果から、低温、同濃度で一様帯磁率の数十倍のスピンが寄与していることが分かった。QMCの結果からだけでは低濃度領域での不純物間の相関があるかないかは分からなかったが、空間的に一様ではあるが3次元性を考慮した平均場の計算を交替帯磁率の結果に適用するにより、低濃度を除いた部分の実験的に得られている相図の定性的な説明をする事が出来た。実験で見える1%の反強磁性の理論的説明は今後の課題として残る。 [本博士論文の位置づけ] 本博士論文では一貫して高温超伝導関連物質の絶縁相のスピン系を調べた。系の性質は、特定ボンド間の強いカップリングや、不純物の有無などでスピンギャップ系となるか、反強磁性が現れるかが決まる。ギャップが出来た場合も反強磁性短距離秩序の影響は残り、スピンの揺らぎが強いことが分かった。ギャップと反強磁性の競合が一貫した研究テーマとなった。2枚、3枚のCuO2面への不純物置換効果、3本鎖の場合どうなるか、などが今後の課題として残る。 |