過去数十年間の地震学的な観測から、マントル内の深さ400〜700km(マントル遷移層)に地震波速度の不連続面(410kmと660km)が二つあることが分かってきた。特に660km不連続面が物質境界なのか、それとも、化学組成は同じでも相転移によって生じた"相境界"なのかは、地球の進化・ダイナミクスを考える上で極めて重要な問題である。今のところ、660km不連続面がそのどちらなのかは、まだ完全には決着がついていない。このように、マントル遷移層の性質の理解は常に固体地球科学の中心課題とされてきた。 地震計をアレー状にならべて地下構造を調べることは地震学の様々な分野で広く使われている手法である。私の修士論文の研究では、日本列島に400点以上ある地震計による微小地震観測網(J-array)のデータの解析から、Tongaをはじめ3つの沈み込み帯で下部マントルの深さ920km付近にも地震波速度の不連続面が存在することが分かった。本研究の目的は、様々な地震波形データを解析することにより、この920km不連続面が一体下部マントルの局所的な構造を反映したものなのか、それとも、グローバルにひろがっているのかを究明することである。 深発地震の震源の下の不連続面でSP変換された波は直達P波のすぐ後に来ると予想され、この変換波とP波との走時差は,震源から変換点までの距離の関数として表される。従って、変換波とP波との走時差を測ることにより、不連続面の深さを求めることができる。SP変換波は、P波に比べて小さな入射角で観測点に入る。個々の観測点ではP波の後続フェーズを同定することが難しいが,多数のアレー観測点で得られた地震波データを特定の傾き(slownessと呼ぶ、入射角に対応)の勾配で時間差をつけて重ね合わせること(stacking)によって、データのS/N比が高まり弱いフェーズが読みやすくなるだけでなく,同時に位相の最もよく合う走時曲線の傾きからフェーズの入射角がわかり、これによってフェーズの同定を行うこともできる。 インドネシア地域で起こった8個の深発地震のJ-array記録では920km不連続面でのSP変換がすべて見られ、特に西端で起きた3つの地震については、個々の観測点波形上でも明瞭に観測された。920km不連続面の深さは東端での945kmに対して西端では1080kmにも達していて、不連続面はインドネシア弧下で東から西へ向かって140kmも深くなっていることが分かった。また、地震波速度はこの不連続面を境に下側のほうが大きくなっていることもSP変換波のpolarityから強く示唆された。南Kurile、日本海及び伊豆-小笠原弧で発生した11個の、深発地震の米国カリフォルニア州の微小地震観測網でのデータを解析した結果、これらの地域の920km不連続面にもかなり凸凹があることが分かった。一方、920km不連続面を境にしたimpedance contrast(密度と速度の積の差)にもかなりの地域的なばらつきがあり、南Kurile、日本海及び伊豆-小笠原弧でやや小さいのと対照的に、インドネシア弧の下では相対的に大きいことが分かった。 このように、西太平洋の沈み込み地域では、若干の違いがあっても920km不連続面が存在している。しかし、上記のSP変換波を用いた手法では深発地震の起こる周辺、即ち沈み込み帯しか調べられないため、ほかの地域についてPS変換波を用いて920km不連続面の検証を行った。遠地記録SV成分のP波直後の波形は観測点直下の地震波速度不連続面でPS変換した波を足し合わせたものであるから、SV成分波形を直達P波でdeconvolveすることにより、深さやimpedance contrast等の不連続面の性質を知ることができる。この方法は従来receiver function法と呼ばれ、地殻などの浅い構造を調べる時に主に使われてきたが、マントルのような深い構造に応用するとノイズの観点から長周期帯域で行わざるを得ず、テクトニクスの複雑な地域の微細構造を調べることが不可能になる。本研究ではdeconvolutionを使わず、観測データと理論波形を合わせることにより、discontinuity response function(以下DRFと呼ぶ)をインバージョンする方法を提唱した。 まず、DRF解析を日本と中国東北地域に局地的に応用した。解析に当たっては、S/N比が比較的良い深発地震の記録だけを選んでインバージョンした。解析した1つの観測点MDJ(中国黒竜江省)はちょうど、日本海溝から沈み込んだ太平洋プレートが660km不連続面とぶつかって停滞しているところの直上に位置している。このMDJの波形記録から得たDRF上では他の2つの観測点で見られない複雑な構造、すなわち、深さ660km、740kmと780kmに地震波速度不連続面が3つもあることが示された。この現象は最近の物性理論からも可能性が指摘されており、沈み込むスラブ周辺の温度・物性をよりよく理解するために極めて重要である。 最後に、DRF解析法を全地球上に展開している広帯域地震計観測網に適用した。解析に用いたデータはIRISデータ・センターの1990〜1994の5年間分のFARMデータで、Mw5.5以上の1174個地震の広帯域記録である。この期間中に稼動していた広帯域地震計観測点118個のうち比較的S/N比の良い波形を10個以上記録した50個の観測点についてのみ調べた。選んだ50個の観測点は殆どユーラシア大陸と北米大陸に集中していたため、実際ここで調べた構造は大陸の下のマントルの構造である。大半の観測点のDRF上では、410kmと660km不連続面が見える。観測された410kmと660km不連続面の深さが観測点直下の上部マントル構造に影響され、かなりの不確定性があるため、これらのマントル不連続面が本来持っている凸凹をマッピングするのは難しい。しかし、比較的上部マントルの不均質の影響を受けにくい両不連続面の深さの差、即ち遷移層の厚さについてはばらつきが小さく、殆ど±20km以内に収まっていることが分かった。20km以内の厚さ変化から物性理論により、各大陸下の温度差が±100度以内であることも推定できる。また、観測された410kmと660km不連続面でのPS変換係数の相対値から推定した両不連続面でのimpedance contrastの比は、PREMやIASP91等の地球標準モデルと調和的である。 数値実験では、地震波速度変化が660km不連続面の40%以上に相当する不連続面が観測点下に存在すれば、DRF上で同定できるという結果が分かった。にもかかわらず、50個の観測点でのDRF上では、920km不連続面を示す十分なピークが見られなかった。DRF上、660km不連続面の40%以上に相当するピークを地震波速度不連続面と見立てて作成した深さ方向の不連続面頻度のヒストグラムからも、深さ920kmのところに明瞭なピークの存在を確認することができなかった。 以上の観測事実から、920km不連続面は西太平洋沈み込む帯に限られた存在である可能性が濃い。しかし、地震波速度がこの不連続面を境に下側へ向かって増加していることから、920km不連続面が単なる地震波速度トモグラフィで示されたような、沈み込んだプレートの溜まり場である高速度領域の底部に対応する可能性は否定される。スラブ内のローカルな相転移か、あるいは沈み込み帯内だけで観測可能な弱いグローバルな相転移なのか、いずれにしても、沈み込んだスラブ周辺の特殊な温度・圧力構造と深く関わっていることは疑いない。 |