学位論文要旨



No 112461
著者(漢字) 武田,亘弘
著者(英字)
著者(カナ) タケダ,ノブヒロ
標題(和) 速度論的に安定化されたセレンおよびケイ素を含む低配位化合物の合成と反応
標題(洋) Syntheses and Reactions of Kinetically Stabilized Low-coordinated Compounds Containing Selenium and Silicon
報告番号 112461
報告番号 甲12461
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3241号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡崎,廉治
 東京大学 教授 奈良坂,紘一
 東京大学 教授 中村,栄一
 東京大学 教授 斎藤,太郎
 東京大学 助教授 岩澤,伸治
内容要旨

 第三周期以降の典型元素の低配位化学種は、反応性が高く容易に多量化するため、通常は安定に存在できないことが知られている。近年、かさ高い置換基の導入による速度論的安定化を用いたこのような活性化学種の合成、単離が数多く報告されるようになり、その興味深い性質が明らかになってきた。既に当研究室では、かさ高い置換基である2,4,6-トリス[ビス(トリメチルシリル)メチル]フェニル基(Tbt基)を利用して様々な高周期二重結合化学種を安定に合成し、その特徴的な構造、性質の解明を行なってきた。本研究では、このTbt基を立体保護基として用いて、未だ十分に研究のなされていない低配位高周期典型元素化合物であるセレノアルデヒド(TbtCH=Se)、および含ケイ素累積二重結合化合物[シラケテンイミン(Tbt(Mes)SiCN-Ar)、1,4-ジシラブタトリエン(R1R2SiCCSiR3R4)]を安定に合成し、その性質を解明することを目的として研究を行なった。

 

1.セレノアルデヒドの合成と反応

 セレノアルデヒドについては、熱力学的に安定化された例が幾つか報告されているが、速度論的に安定化された例は2,4,6-トリ-t-ブチルセレノベンズアルデヒドのみである。一方、筆者は修士課程においてTbt基を利用してチオアルデヒド1aとその-位のビス(トリメチルシリル)メチル基(Dis基)の一つが回転した回転異性体である1bをそれぞれ安定な結晶として合成、単離することに成功した。そこで博士課程においては、Tbt基を利用したセレノアルデヒド3a,bの合成について検討した。

 

 Tbt基を有する環状ポリセレニドの混合物2(=5.1)と過剰量のトリフェニルホスフィンとを室温で反応させたところ、セレノアルデヒド3aの生成が各種スペクトルにより確認された。これは新規なセレノカルボニル化合物の合成法である。しかし、この反応溶液を濃縮すると3aは二量化しジセレネタン4が得られた。3aはメシトニトリルオキシド、2,3-ジメチル-1,3-ブタジエンと反応し、それぞれ対応する[3+2]、[4+2]付加体を与えた。これは、2,4,6-トリ-t-ブチルセレノベンズアルデヒドが立体障害のためにこれらの試剤と付加体を作らないことと対照的であり、3aが希薄溶液中多量化を防ぐだけのかさ高さを持ちながらもこれらの試剤に対して高い反応性を有していることを示している。

 

 4を45℃に加熱したところ、二量体4、単量体3a、および3aの回転異性体であるセレノアルデヒド3bの間で平衡が観測された(4:3a:3b=1:8:3)。この平衡混合物を分離することにより、3bを安定な固体として単離することに成功した。3bにおいては、反転した-Dis基のトリメチルシリル基によりセレノホルミル基周りが効果的に保護されているために二量化を防ぐことができたと考えられる。

 4,3a,bの平衡混合物とW(CO)5・THFとの反応により、3aの1-タングステン錯体5aを安定な結晶として合成した。また、3bとW(CO)5・THFの反応により対応する1-セレノアルデヒド-タングステン錯体5bが得られた。5a,bの構造は各種スペクトルおよびX線結晶構造解析により決定した。これらは1-セレノアルデヒド錯体の初めてのX線結晶構造解析の例である。5a,bのC-Se結合長(5a:1.783Å,5b:1.781Å)は一般のC-Se単結合長(1.970Å)や2-PhCHSe・W(CO)5のC-Se結合長(1.864Å)よりもかなり短く、セレノケトン(RR’C=Se)において報告されているC-Se結合長(1.77-1.79Å)にほぼ等しい。これはタングステンのセレンへの配位がかなり弱いことを示している。また、5bを溶液中室温で数日間放置したところ、ほとんど完全に5aに異性化した。これは5aと5bの間の平衡が5a側に著しく偏っているためと考えられる。

2.含ケイ素累積二重結合化合物の合成と反応

 近年、ケイ素を含む二重結合化学種が注目されており、立体保護を利用して様々な化合物が安定に合成、単離されている。その中で、ケイ素を含む累積二重結合化合物に関しては、ごく最近立体的に保護された1-シラアレン(R1R2Si=C=CR3R4)が安定に合成されたが、その化学は最近緒についたばかりである。

2.1.シラケテンイミンの合成と反応

 ケテンイミン(R1R2C=C=NR3)のケイ素類縁体であるシラケテンイミンについては、反応中間体として提唱されている例はあるものの、安定な合成例は勿論そのスペクトル等による観測すら報告されていない。シラケテンイミンの構造に関しては、クムレン型(I)とシリレン錯体型(II)の二つが考えられ、どちらの構造をとるのか興味がもたれる。そこで、Tbt基を利用して安定なシラケテンイミンの合成について検討を行なった。

 

 既に当研究室において、ジシレン7が容易にシリレン6へ熱解離することが明らかにされている。そこで7と芳香族イソシアニド8a-cとの熱反応を行なったところ、新規な有機ケイ素化合物である9a-cのほぼ定量的な生成が各種スペクトルにより確認された。9a-cは空気や湿気に対しては非常に不安定であったが、熱的には60℃においても数時間安定であった。9a-cの29Si NMRにおいては通常知られているsp2ケイ素のシフト値(=41-144)と比べて著しく高磁場にピークが観測された。また、13Cで標識された8a-cとジシレン7の反応により13C-9a-c(Tbt(Mes)Si13CNAr)を合成し、29Si NMRにより1JSiCを測定したところ、その値はMe4Siの1JSiC(50Hz)よりも小さく、9a-cのSi-C結合が弱い結合であることが判った。これらのことから、9a-cは炭素類縁体であるケテンイミンとは異なり、クムレンIではなくシリレン錯体IIであることが明らかとなった。シリレン-ルイス塩基錯体に関しては数多くの研究が行なわれているが、これまでに室温で安定な例は報告されておらず、9a-cが初めての安定なシリレン-ルイス塩基錯体である。

 

 9a-cとシリレンの捕捉剤として知られているトリエチルシラン、2,3-ジメチル-1,3-ブタジエンとの反応において、いずれの場合にも対応するシリレン付加体が得られた。このことから、9a-cはシリレン6との平衡にあると考えられる。また、9b,cにおいては室温という非常に穏やかな条件でシリレン6が発生しており、これらの化合物はシリレン源としてもその反応性に興味が持たれる。9b,cとメタノールとの反応を行なったところ、いずれの場合にも10が得られた。一方、9aとメタノールとの反応の場合には10とともに11が生成した。通常、ケイ素-炭素二重結合とメタノールとの反応においては11と逆の配向性の付加体が生成することが知られており、このことからも9がシリレン錯体IIであることが確認された。

 

2.2.1,4-ジシラブタトリエンの合成の試み

 反応中間体としての報告例さえもない全く新規な含ケイ素累積二重結合化合物である、1,4-ジシラブタトリエン16の合成についても検討を行なった。前駆体12とリチウムナフタレニドとの反応を行なったところ、リチオ体13の発生は確認されたものの16は生成せず、Si-C結合の切断が起こり15が得られた。これはSi-F結合の強さと14の安定性のためと考えられる。

 

審査要旨

 本論文は3章からなっている。第1章は序論であり、第2章においてセレンを含む低配位化合物セレノアルデヒド、第3章において、ケイ素を含む低配位化合物シラケテンイミン、1,4-ジシラブタトリエンの合成、構造、反応性について研究している。

 第1章では、第三周期以降の典型元素の低配位化学種の化学に関し、特に速度論的安定化の手法の有用性と関連させつつ、適切に位置づけている。

 第2章では、セレノアルデヒドの合成と反応について述べている。チオアルデヒドについて、安定な回転異性体1a,1bの単離が本論文の提出者により報告されているTbt基の立体保護効果を活用してセレノアルデヒドの合成を行った。Tbt基を有する環状ポリセレニドの混合物2(=5.1)と過剰量のトリフェニルホスフィンとを室温で反応させたところ、セレノアルデヒド3aの生成が各種スペクトルにより確認された。これは新規なセレノカルボニル化合物の合成法である。しかし、この反応溶液を濃縮すると3aは二量化しジセレネタン4が得られた。3aはメシトニトリルオキシド、2,3-ジメチル-1,3-ブタジエンと反応し、それぞれ対応する[3+2]、[4+2]付加体を与えた。これは、2,4,6-トリ-t-ブチルセレノベンズアルデヒドが立体障害のためにこれらの試剤と付加体を作らないことと対照的であり、3aが希薄溶液中多量化を防ぐだけのかさ高さを持ちながらもこれらの試剤に対して高い反応性を有していることを示している。

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 4を45℃に加熱したところ、二量体4、単量体3a、および3aの回転異性体であるセレノアルデヒド3bの間で平衡が観測された(4:3a:3b=1:8:3)。この平衡混合物を分離することにより、3bを安定な固体として単離することに成功した。3bにおいては、反転したo-Dis基のトリメチルシリル基によりセレノホルミル基周りが効果的に保護されているために二量化を防ぐことができたと考えられる。

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 4,3a,bの平衡混合物とW(CO)5・THFとの反応により、3aの1-タングステン錯体5aを安定な結晶として合成した。また、3bとW(CO)5・THFの反応により対応する1-セレノアルデヒド-タングステン錯体5bが得られた。5a,bの構造は各種スペクトルおよびX線結晶構造解析により決定した。これらは1-セレノアルデヒド錯体の初めてのX線結晶構造解析の例である。5a,bのC-Se結合長(5a:1.783Å,5b:1.781Å)は一般のC-Se単結合長(1.970Å)や2-PhCHSe・W(CO)5のC-Se結合長(1.864Å)よりもかなり短く、セレノケトン(RR’C=Se)において報告されているC-Se結合長(1.77-1.79Å)にほぼ等しい。これはタングステンのセレンへの配位がかなり弱いことを示している。また、5bを溶液中室温で数日間放置したところ、ほとんど完全に5aに異性化した。これは5aと5bの間の平衡が5a側に著しく偏っているためと考えられる。

 第3章ては、含ケイ素累積二重結合化合物であるシラケテンイミンの合成と反応について述べている。ケテンイミン(R1R2C=C=NR3)のケイ素類縁体であるシラケテンイミンについては、反応中間体として提唱されている例はあるものの、安定な合成例は勿論そのスペクトル等による観測すら報告されていない。シラケテンイミンの構造に関しては、クムレン型(I)とシリレン錯体型(II)の二つが考えられ、どちらの構造をとるのか興味がもたれる。そこで、Tbt基を利用して安定なシラケテンイミンの合成について検討を行なった。シリレン6への容易な熱解離が知られているジシレン7と芳香族イソシアニド8a-cとの熱反応を行なったところ、新規な有機ケイ素化合物である9a-cのほぼ定量的な生成が各種スペクトルにより確認された。9a-cは空気や湿気に対しては非常に不安定であったが、熱的には60℃においても数時間安定であった。9a-cの29Si NMRにおいては通常知られているsp2ケイ素のシフト値(=41〜144)と比べて著しく高磁場にピークが観測された(=-54〜-49)。また、13Cで標識された8a-cとジシレン7の反応により13C-9a-c(Tbt(Mes)Si13CNAr)を合成し、29SiNMRにより1JSiCを測定したところ、その値は1〜39HzでMe4Siの1JSiC(50Hz)よりも小さく、9a-cのSi-C結合が弱い結合であることが判った。これらのことから、9a-cは炭素類縁体であるケテンイミンとは異なり、クムレンIではなくシリレン錯体IIであることが明らかとなった。シリレン-ルイス塩基錯体に関しては数多くの研究が行なわれているが、これまでに室温で安定な例は報告されておらず、9a-cが初めての安定なシリレン-ルイス塩基錯体である。

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 9a-cとシリレンの捕捉剤として知られているトリエチルシラン、2,3-ジメチル-1,3-ブタジエンとの反応において、いずれの場合にも対応するシリレン付加体が得られた。このことから、9a-cはシリレン6との平衡にあると考えられる。また、9b,cにおいては室温という非常に穏やかな条件でシリレン6が発生しており、これらの化合物はシリレン源としてもその反応性に興味が持たれる。9b,cとメタノールとの反応を行なったところ、いずれの場合にも10が得られた。一方、9aとメタノールとの反応の場合には10とともに11が生成した。通常、ケイ素-炭素二重結合とメタノールとの反応においては11と逆の配向性の付加体が生成することが知られており、このことからも9がシリレン錯体IIであることが確認された。

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 Tbt基を活用した1,4-ジシラブタトリエンの合成の試みについても検討している。

 なお、本論文の第2章は岡崎廉治氏、時任宣博氏、第3章は岡崎廉治氏、時任宣博氏、鈴木博幸氏、永瀬茂氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって合成、構造解析、反応性の検討を行ったので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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