本論文は5章より成る。第1章は序論であり、第2章では電子衝突による多原子分子の振動励起について本論文で用いる理論的手法が述べられている。第3章は数値計算の詳細をまとめたもので、第4章でH2OおよびH2S分子についての計算結果が示され、実験や他の計算と比較される。第5章は本論文の結論である。 電子と多原子分子の衝突過程は、地球や他の惑星の上層大気、星間空間などでの素過程として、また物質と放射線の相互作用の初期過程として重要である。また最近では、プラズマプロセス用低温プラズマにおける主要過程としてその重要性が増しつつある。特に分子の振動励起は、10eV程度以下の電子にとっては最も重要なエネルギー損失過程である。また、その結果として生成される振動励起分子は他の粒子との反応において特異的な振る舞いをすることが知られている。本論文では電子衝突による多原子分子の振動励起について、その断面積を計算する手法の定式化を行い、それを具体的にC2v対称性をもつ分子(実際にはH2OおよびH2S)に適用した。多原子分子の振動励起断面積の計算はこれまでほとんど存在せず、C2v群分子に限ってもその三つの基準振動モード全てについて励起断面積を求めたのは本研究が初めてである。 第2章では、振動励起断面積を計算する公式を量子論の第一原理から出発して導出する。計算を簡単にするために、衝突の間は分子の向きが変わらないとする。これは振動励起を起こすようなエネルギーでは十分妥当な近似である。入射電子の角運動量と分子の振動状態とで指定されるチャネルに関する連立方程式が得られるが、それを有限個のチャネルに限ることによって解く(緊密結合近似)。この方法は結合させるチャネルの数を大きくすれば正確な解に近づくことが保証されている。電子・分子間の相互作用としては静電相互作用、電子交換相互作用、相関・分極相互作用を考える。ただし、後二者は局所的モデルポテンシャルで近似する。いずれも非経験的分子波動関数を用いて求めた分子の電荷分布を基にして構成する。振動励起を計算するには、分子の核配置が平衡状態からはずれた場合の相互作用ポテンシャルを知らなけれならない。本論文では、ポテンシャルを核座標について平衡配置のまわりに展開し、その一次の項までとる。このようにするとポテンシャルについて平衡配置での値とそこでの一次の微係数のみを求めておけばよい。 H2OおよびH2Sを標的とした数値計算の具体的内容は第3章に示されている。電子と分子が十分離れているときの静電相互作用は分子の電気的多極子モーメントを用いて表わすことができる。本研究で用いた相互作用の漸近形から求めた標的分子の双極子モーメント、四極子モーメントおよびそれらの微係数の値は、実験や他の計算で求められているものとおおむね良く一致する。このことは本計算で用いたポテンシャルが妥当であることの一つの検証となる。 第4章はH2OおよびH2Sについての計算結果を示す。計算は、それぞれ4-50eV,3-30eVのエネルギー範囲で行われ、微分断面積および積分断面積が求められた。三つの基準振動の最も低い励起状態への励起断面積が計算された。H2OおよびH2Sの振動励起についてはこれまでに微分断面積の測定がいくつかある。それらの結果と本計算とを比べると、一部(主に、共鳴散乱が起こる領域)を除いては一致が良い。共鳴効果が支配的とされているエネルギー領域では、本計算の結果はかなり小さ過ぎる。これは相互作用ポテンシャル、特にその核座標依存性が十分精度良く与えられていないからであろうと推測される。なお励起エネルギーが互いに接近しているので、実験では二つの伸縮振動の励起を分けて測定することができない。すなわち、本計算ではじめて個々の励起についての断面積の情報が得られたわけである。 以上、本論文は電子衝突による多原子分子の振動励起断面積を量子論の第一原理から非経験的に求める理論的手法を定式化し、具体的にH2OおよびH2Sに適用したものである。これまでほとんど理論的研究のなかった多原子分子の振動励起について、具体的な計算手法を確立したことは電子・分子衝突の今後の研究に大きく貢献するものである。また本研究で得られた結果は、実験データを補う意味で応用分野にも寄与すると思われる。本論文の研究は市川行和との共同研究であるが、主要部分は論文提出者が主体となって行ったものと判断される。よって、博士(理学)の学位を授与できると認める。 |