学位論文要旨



No 112465
著者(漢字) 西村,民男
著者(英字)
著者(カナ) ニシムラ,タミオ
標題(和) 電子衝突によるC2v群分子の振動励起についての理論的研究
標題(洋) Theoretical study of vibrational excitation in C2v group molecules by electron collision
報告番号 112465
報告番号 甲12465
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3245号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 市川,行和
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 助教授 柳下,明
 東京大学 助教授 永田,敬
 東京大学 助教授 岡本,裕巳
内容要旨 1.

 電子と多原子分子の衝突に関する断面積データは、プラズマプロセッシング、放射線化学、天体物理及び大気科学などの分野で様々な物理現象の理解に重要である。特に電子衝突による標的分子の振動励起は重要な素過程として注目されている。しかし今のところ測定データは非常に狭い衝突エネルギー範囲で、かつ極く限られた標的分子についてのみ存在する。さらに理論的研究はその実験と比較してもかなり遅れた状態にある。その理由は、分子のもつ振動、回転状態や非球対称ポテンシャルの取り扱いが困難であるからである。また多原子分子を標的とした場合には分子のもつ多様な振動モードを考慮する必要がある。各々の振動モードのもつ性質(対称性など)が振動励起断面積にどのような影響を与えるかを解明することは興味深い。

 本研究ではそのような研究の手始めとしてC2v群に属し、構造が簡単で、実験データもいくつか存在する水、硫化水素分子を標的に選び、電子衝突による振動励起断面積を理論的に求めた。ここでは、標的分子の基底状態(振動量子数:n=0)から最も低い励起状態(n=1)への遷移のみを考える。両分子の基準振動には対称伸縮(100),変角(010),逆対称伸縮(001)振動が存在する。その中で2つの伸縮振動の振動エネルギーは互いに接近しているので、実験ではこれらの励起断面積が分離されて測定された例はない。また微分断面積は、前方(散乱角が0deg.付近)と後方(180deg.付近)の領域では実験装置の都合により測定することができない。これらの実験のもつ弱点を補完するという見地からも、理論的研究は不可欠である。

2.理論

 振動励起を扱うためには、電子と標的分子の相互作用ポテンシャルに分子が平衡配置からずれた効果を考慮する必要がある。その手法として相互作用ポテンシャルを平衡配置のまわりに分子の核座標で展開し、1次の項までとることにした。ここで振動の波動関数は調和振動子として扱う。また標的分子の電荷密度は分子軌道法プログラムを用いてSCFレベルで決定した。この電荷密度を用いて、静電、電子の交換、相関;分極ポテンシャルを局所的な形で形成した。標的分子の回転状態については断熱近似を用いた。これは衝突中は分子は回転しないと仮定する近似で、入射電子のエネルギーが極端に小さくない限り妥当である。一方、振動状態は始状態(基底状態)と終状態(各基準振動状態)の2状態を考慮した緊密結合方程式に従うとする。この方程式に適当な境界条件を課して解くと遷移行列が得られ、微分及び積分断面積が求まる。またこの散乱過程における長距離相互作用の寄与を調べるために、双極子および四極子相互作用の効果を考慮したBorn近似による計算を行なった。

3.結果と議論

 実験では(100)と(001)状態についての振動励起断面積を分離して測定することができないので、計算では実験と比較する際には2つの状態の励起断面積の和をとり、(100+001)のように表記する。本研究で計算した衝突エネルギーは水、硫化水素分子についてそれぞれ4〜50eV、3〜30eVである。図1に衝突エネルギーが6eVのときの(010)状態への遷移についての微分断面積の計算結果(実線)を示す。実験との一致は良い。水分子の場合は、後述する一部の例外を除いて、一般に実験値を良く再現することができた。これまでに行われた振動励起断面積の計算としてはJain and Thompsonによるものがある。彼らは(100)と(010)状態についての振動励起断面積は計算しているが、(001)については報告していない。彼らの計算値(△印)と比較すると、70deg.よりも大きな散乱角ではいくらかの不一致が見られた。彼らの計算は振動についても断熱近似を用いており、標的の基底関数や電子の相関ポテンシャルも本計算値とは異なっている。故に不一致はこれらの違いから生じたものと考えられる。硫化水素分子については後述する3eVの場合を除いては、比較すべき実験が報告されていない。しかし水分子についての結果から推測すると5〜30eVの領域では信用できる値を与えていると考えられる。よってこの領域での振動励起断面積の実験が望まれる。尚、両分子を通じて実験では分離して測定できなかった個々の基準振動の励起断面積のデータを、初めて明らかにすることができた。特に(001)状態への励起断面積は、長距離相互作用のみを考慮したBorn近似による計算を除くと、本計算で初めて求められた。

 水の場合、6eV付近の衝突エネルギーでは(100+001)についての本計算による微分断面積は、実験値と比較するとかなり小さい(図2)。硫化水素の場合も3eVでは同様の結果が得られた。水の6eV、硫化水素の3eV付近の領域では、入射電子が標的分子のポテンシャル内に一時的に捕獲されることによって起こる形状共鳴が存在すると考えられている。故に他のエネルギー領域よりも精度の高い取り扱いが要求される。したがってこの領域での実験との不一致を改善するためには、まず分子内の電子相関を考慮した高精度の波動関数を標的分子について構築する必要があると考えられる。さらに局所的モデルポテンシャルにより近似した電子の交換、相関;分極効果についても改良する必要があると思われる。

 一方図1に示したように水の6eV付近の衝突エネルギーの場合でも、(010)についての微分断面積の計算結果は実験とかなり良い一致を示す。この場合は双極子モーメントに代表される遠方からの相互作用の効果が散乱過程に与える影響が著しく、共鳴散乱の効果が(100+001)の場合と比較して相対的に小さくなっていると考えられる。この場合には、双極子および四極子モーメントによる長距離相互作用のみを考慮したBorn近似の計算(破線)でも実験値を比較的良く再現できる。但し硫化水素の場合には、(010)についても3eVでの本計算結果は実験と比較するとかなり小さく、またBorn近似では微分断面積の実験値を全く再現することができない。その理由は硫化水素分子の長距離相互作用が水の場合よりもかなり小さく、共鳴散乱の効果が強く現れるからであると考えられる。

電子衝突による水分子の振動励起の微分断面積
審査要旨

 本論文は5章より成る。第1章は序論であり、第2章では電子衝突による多原子分子の振動励起について本論文で用いる理論的手法が述べられている。第3章は数値計算の詳細をまとめたもので、第4章でH2OおよびH2S分子についての計算結果が示され、実験や他の計算と比較される。第5章は本論文の結論である。

 電子と多原子分子の衝突過程は、地球や他の惑星の上層大気、星間空間などでの素過程として、また物質と放射線の相互作用の初期過程として重要である。また最近では、プラズマプロセス用低温プラズマにおける主要過程としてその重要性が増しつつある。特に分子の振動励起は、10eV程度以下の電子にとっては最も重要なエネルギー損失過程である。また、その結果として生成される振動励起分子は他の粒子との反応において特異的な振る舞いをすることが知られている。本論文では電子衝突による多原子分子の振動励起について、その断面積を計算する手法の定式化を行い、それを具体的にC2v対称性をもつ分子(実際にはH2OおよびH2S)に適用した。多原子分子の振動励起断面積の計算はこれまでほとんど存在せず、C2v群分子に限ってもその三つの基準振動モード全てについて励起断面積を求めたのは本研究が初めてである。

 第2章では、振動励起断面積を計算する公式を量子論の第一原理から出発して導出する。計算を簡単にするために、衝突の間は分子の向きが変わらないとする。これは振動励起を起こすようなエネルギーでは十分妥当な近似である。入射電子の角運動量と分子の振動状態とで指定されるチャネルに関する連立方程式が得られるが、それを有限個のチャネルに限ることによって解く(緊密結合近似)。この方法は結合させるチャネルの数を大きくすれば正確な解に近づくことが保証されている。電子・分子間の相互作用としては静電相互作用、電子交換相互作用、相関・分極相互作用を考える。ただし、後二者は局所的モデルポテンシャルで近似する。いずれも非経験的分子波動関数を用いて求めた分子の電荷分布を基にして構成する。振動励起を計算するには、分子の核配置が平衡状態からはずれた場合の相互作用ポテンシャルを知らなけれならない。本論文では、ポテンシャルを核座標について平衡配置のまわりに展開し、その一次の項までとる。このようにするとポテンシャルについて平衡配置での値とそこでの一次の微係数のみを求めておけばよい。

 H2OおよびH2Sを標的とした数値計算の具体的内容は第3章に示されている。電子と分子が十分離れているときの静電相互作用は分子の電気的多極子モーメントを用いて表わすことができる。本研究で用いた相互作用の漸近形から求めた標的分子の双極子モーメント、四極子モーメントおよびそれらの微係数の値は、実験や他の計算で求められているものとおおむね良く一致する。このことは本計算で用いたポテンシャルが妥当であることの一つの検証となる。

 第4章はH2OおよびH2Sについての計算結果を示す。計算は、それぞれ4-50eV,3-30eVのエネルギー範囲で行われ、微分断面積および積分断面積が求められた。三つの基準振動の最も低い励起状態への励起断面積が計算された。H2OおよびH2Sの振動励起についてはこれまでに微分断面積の測定がいくつかある。それらの結果と本計算とを比べると、一部(主に、共鳴散乱が起こる領域)を除いては一致が良い。共鳴効果が支配的とされているエネルギー領域では、本計算の結果はかなり小さ過ぎる。これは相互作用ポテンシャル、特にその核座標依存性が十分精度良く与えられていないからであろうと推測される。なお励起エネルギーが互いに接近しているので、実験では二つの伸縮振動の励起を分けて測定することができない。すなわち、本計算ではじめて個々の励起についての断面積の情報が得られたわけである。

 以上、本論文は電子衝突による多原子分子の振動励起断面積を量子論の第一原理から非経験的に求める理論的手法を定式化し、具体的にH2OおよびH2Sに適用したものである。これまでほとんど理論的研究のなかった多原子分子の振動励起について、具体的な計算手法を確立したことは電子・分子衝突の今後の研究に大きく貢献するものである。また本研究で得られた結果は、実験データを補う意味で応用分野にも寄与すると思われる。本論文の研究は市川行和との共同研究であるが、主要部分は論文提出者が主体となって行ったものと判断される。よって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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