学位論文要旨



No 112466
著者(漢字) 原田,潤
著者(英字)
著者(カナ) ハラダ,ジュン
標題(和) 結晶中におけるアゾベンゼンおよびスチルベン類の配座変換
標題(洋)
報告番号 112466
報告番号 甲12466
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3246号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 友田,修司
 東京大学 教授 岡崎,廉治
 東京大学 助教授 時任,宣博
 東京大学 助教授 錦織,紳一
 東京大学 助教授 加藤,礼三
内容要旨

 結晶中における有機分子の運動は,相転移,固相反応などの様々な現象と密接に関係している.筆者はこれまで,スチルベンおよび類似した分子骨格を持つ化合物の結晶中での分子内運動が,これらの分子の中央付近の結合が異常に短く観測される原因となっていることを明らかにした.これらの化合物の結晶では,分子の向きが互いに180°異なるような配向の乱れ(disorder)がしばしば観測される.本研究ではこのdisorderの性質を温度変化X線結晶解析を用いて検討し,これが結晶中における非常に大きな振幅の分子内ねじれ振動による配座変換に由来することを明らかにした.さらに,固体NMRを用いてその速度定数を決定した.

アゾベンゼン類のX線結晶解析

 アゾベンゼン(1)の結晶においては単位胞中に2つのサイトが存在し,その一方には室温でdisorderのあることが報告されている.

図1 アゾベンゼン(1)(296K)

 そのdisorderの性質を調べるために,同一の単結晶を用いて,室温および82Kにおける結晶構造を決定した.配向の異なる2分子の存在比は室温では81.5:18.5であったのに対して(図1),82Kではdisorderは完全に消失した.このことは結晶中で,(1)がその配向を変化させていることを示している.

 3,3’-ジメチルアゾベンゼン(3)においても(1)と同様のdisorderが室温で観測され(図2),その存在比は92:8と決定された.この場合にも温度の低下とともに存在比は変化し,90Kではdisorderは消失して,正常な構造が観測された.また170K付近で構造相転移が観測され,低温相では分子の中心対称性が失われることが分かった.

図2 3,3’-ジメチルアゾベンゼン(3)(296K)図3 4,4’-ジメチルアゾベンゼン(90K)

 4,4’-ジメチルアゾベンゼン(4)は,このタイプのdisorderが起こる代表的な化合物として古くから知られている.これまではその存在比が1:1であると仮定して解析が行われていたが,今回,より精度の高い測定を行うことにより,存在比が室温では53.5:46.5,90Kでは57.8:42.2とわずかながら温度依存性を示すことが分かった(図3).

 これらの化合物で観測されたdisorderはいずれも次のような配座変換に由来するものとして説明できる(図4).結晶中においてN-Ph結合のねじれ振動は,2つのベンゼン環を互いに平行に保ったまま,結晶格子に対するベンゼン環の向きを変えず,N=N結合の向きが変わるようにして起こる(図4b).その振幅が非常に大きくなると,C-N=N-Cユニットがベンゼン環に対して垂直になった構造(図4c)を経て,180°配向の異なる配座へと変化する(図4d).2つの配座(図4a,d)の結晶中での安定性は異なるため,その存在比は温度によって変化する.

図4 結晶中におけるアゾベンゼン類の配座変換

 2,2’-ジメチルアゾベンゼン(2)ではdisorderは観測されなかった.(1)のdisorderのないサイトおよび(2)においてはN=N結合長の短縮と温度依存性が見いだされた.この現象はスチルベン類および1,2-ジフェニルエタン類にも共通してみられ,N-Ph結合のねじれ振動により説明することができる.すなわちこれらの分子では配座変換に至るほど大きな振幅ではないものの,同じタイプの振動が起こっていることが分かる.これらの分子では温度の低下に伴い,振幅が小さくなり,観測されるN=N結合の長さは真の値に近づく.低温における結晶解析の結果からアゾベンゼン類のN=N結合の長さは1.26Åであることが分かった.

 アゾベンゼン類の固体NMRスペクトル

 温度変化X線結晶解析からアゾベンゼン類が結晶中で配座変換を起こしていることが分かった.しかし,その配座変換の速度定数および活性化パラメータを決定することはできない.またdisorderの存在比が1:1に近い場合,その温度依存性は小さくなるため,配座変換の有無を決定することも困難となる.そこで,これらの問題を解決するために固体NMRスペクトルの測定を行った.

図5 [2,2’,6,6’-d4](4)の温度変化13C CP/MASスペクトル

 アゾベンゼン類の2,6-位の13C化学シフトは,配座が固定されると十数ppmの大きな差を生じることが知られている.配座変換が遅い場合には1分子当たり2本に分離した共鳴線が観測されるが,変換が速くなると1本に融合することになる.従って,disorderのある場合には,存在比に応じた強度の4本のピークが等強度の2本のピークに変化するものと予想される.

 アゾベンゼン類(1)-(4)の温度変化13C CP/MASNMRスペクトルはX線結晶解析の結果と矛盾しないものであったが,スペクトルが複雑であるために定量的解析には至らなかった.そこで,(4)の-位の4つの水素原子を重水素化し,dipolar dephasing法を用いて,m-位のピークのみを消去することにより,スペクトルを単純化した(図5).完全線形解析から交換の速度定数を求め,アイリングの式から活性化エンタルピーを76kJ mol-1と決定した.さらに,同一試料の2H広幅NMRスペクトルから,この運動は,C-D結合の向きを静磁場に対してほとんど変化させないものであること,言い換えればフェニル基の回転によるものでないことが確認できた.

 スチルベン類の固体NMRスペクトル

 スチルベン類の結晶のなかにもアゾベンゼン類と同様にdisorderのあるものが多く知られている.スチルベン(5)は(1)と同じ結晶形であり,disorderの存在が知られている.この化合物について温度変化13C CP/MASスペクトルの測定を行ったところ,線形の温度変化が観測された.したがって,(5)においてもアゾベンゼン類と同様に,速い配座変換が起こっていることが分かった.一方,,-ジメチルスチルベン(6)および,-ジクロロスチルベン(7)は結晶解析ではdisorderが観測されているが,13C CP/MASスペクトルでは線形の温度変化は見られなかった.これから(6)および(7)ではアゾベンゼン類で観測されたような配座変換は起こっていないことが分かる.これはメチル基あるいはクロロ基のかさ高さのために,C-Ph結合のねじれ振動が阻害されているためであると解釈できる.

 ベンゼン環のp-位に大きな置換基を導入した4,4’-ジイソプロピルスチルベン(8)の結晶構造では室温で71:29のdisorderがあることがわかった.(8)の,-位の2つの水素原子を重水素化した化合物の2H広幅NMRスペクトルから,結晶中で速い配座変換を行っていることがわかった.一方,(8)の-位の4つの水素原子を重水素化した化合物の2H広幅NMRスペクトルから,フェニル基の回転も起こっていることがわかった.これはイソプロピル基を導入することにより,結晶中でフェニル基の周りに大きな隙間ができ,隣接した分子による回転の阻害が起こらなくなったためであると解釈できる.

 

審査要旨

 本論文は7章から成り,第1章が序論,第2章がアゾベンゼン類のX線結晶解析,第3章がアゾベンゼン類の固体NMR測定,第4章がスチルベン類のX線結晶解析,第5章がスチルベン類の固体NMR測定,第6章が結論,第7章がビ(アントラセン-9,10-ジメチレン)光異性体のC-C結合長と結晶相反応という構成である.内容としては,第6章までと第7章とに分かれる.両者の間には直接的な関係はないが,結晶中における有機分子の動的な挙動の解明という点では,共通した主題の範疇にはいる.

 第6章までの内容は,スチルベン型化合物の結晶で広く見られる構造の乱れが,非常に大きな振幅のねじれ振動による配座変換に由来するものであることを,X線結晶解析と固体NMRによって明らかにしたものである.スチルベン型化合物の結晶では,分子の向きが180°異なるような配向の乱れがしばしば観測される.論文提出者は,アゾベンゼン類およびスチルベン類の温度変化X線結晶解析から,この構造の乱れによる2つの配座の存在比が温度によって変化することを見いだし,構造の乱れが結晶格子に対するベンゼン環の向きの変化を最小限に保ったまま起こるN-Ph結合の内部回転による配座変換に起因することを明らかにした.また,固体NMR(13C CP/MASおよび2H広幅NMR)スペクトルの解析から,4,4’-ジメチルアゾベンゼンにおける配座変換の活性化エンタルピーを76(3)kcalmol-1と決定した.一連の化合物の固体NMR測定から,アゾベンゼン類およびスチルベン類のうち結晶構造にdisorderがあるものでは,置換基によるねじれ振動の阻害がなければ,いずれにおいても配座変換が起こっていることを明らかにした.この結果は,一般性が高く,スチルベン型化合物の固体としての性質や結晶中での反応性を考える際の重要な基礎的知見として高く評価される.

 第7章は,ビ(アントラセン-9,19-ジメチレン)光異性体における中央のC-C結合が1.77Åという異常に長い結合長を示す原因が,結晶相反応に由来する外見上の結果であることをX線結晶解析によって示したものである.これによって,30年以上におよぶ積年の問題が解決されたことになる.この結果は,Angew.Chem.Int.Ed.Engl.誌(1997年第1号)のハイライトに取り上げられるなど,国際的にも高い評価を受けている.

 なお,本論文は,小川桂一郎と友田修司との共同研究によるものであるが,論文提出者が主体となって遂行したもので,論文提出者の寄与が十分に高いと判断する.

 よって,博士(理学)の学位を授与できるものと認める.

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