学位論文要旨



No 112467
著者(漢字) 古屋,和彦
著者(英字)
著者(カナ) フルヤ,カズヒコ
標題(和) 密度汎関数法を用いた長鎖共役分子の構造と振動解析
標題(洋)
報告番号 112467
報告番号 甲12467
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3247号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田隅,三生
 東京大学 教授 近藤,保
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 中村,栄一
 東京大学 教授 濱口,宏夫
内容要旨 1.

 振動スペクトルの理論計算を行うために非経験的分子軌道法が広く用いられてきた。電子相関の強い共役分子の場合,非対角項を含む力の定数を精度良く求めるためにはHFレベルの分子軌道法計算では不十分であり電子相関を考慮することが必要である。しかしMP2法などの電子相関を考慮した分子軌道法を鎖長の長い共役分子に適用することは、要求される計算機資源から考えて困難である。近年報告が多くなった密度汎関数法は電子相関を取り入れた計算が可能であり、共役分子を含む大きな分子の振動計算への適用が考えられる。

 オリゴフェニルとイオン種は導電性高分子ポリ(p-フェニレン)のモデル化合物であり、赤外・ラマン分光法などを用いてポーラロンやバイポーラロンなどの電荷担体の構造と電子状態に関する研究が広く行われてきた。鎖長の長いオリゴフェニルとイオン種に関して電子相関を考慮した振動解析はほとんど報告がなく、赤外・ラマンスペクトルの帰属や振動モードを明らかにすることは導電機構を理解するために必要である。またストレプトシアニン色素は共役メチン鎖を有する化合物であり、鎖長を変えることで可視から近赤外域の分光感度を銀塩写真システムに付与することができる。ハロゲン化銀上の増感色素の吸着構造を制御し、分光増感反応を効率よく行わせることは写真感度の向上のために重要である。増感色素の分子レベルでの吸着構造を明らかにするための基礎として、増感色素の振動スペクトルを理解することは重要と考えられる。

 本研究では、オリゴフェニルとイオン種および共役メチン鎖を有するストレプトシアニン色素を対象に、鎖長を変えた一連の化合物について密度汎関数法による構造最適化・振動計算と赤外・ラマン測定を行い、分子構造と振動数・振動モード・赤外強度に関する解析を行った。

2.密度汎関数法によるオリゴフェニルとイオン種の振動計算1)ビフェニルとイオン種の振動計算

 6-31G*基底と2種の密度汎関数(BLYP,B3LYP)とを用いてビフェニルとラジカルアニオン、ラジカルカチオンの振動計算を行った。計算には、Gaussian92/DFT及びGaussian94プログラムを用いた。B3LYP/6-31G*レベルで得た環の間の二面角は5.8°(ラジカルアニオン)と19.5°(ラジカルカチオン)であり中性の38.3°より小さいが、ねじれた構造をとることが示された。ラマンスペクトル解析からラジカルカチオンは溶液中でねじれた構造をとるという報告があり、今回の計算はこの実験結果を支持する。中性からイオン化するとベンゼノイド構造からキノイド構造への変化が起きる。BLYP/6-31G*レベルで得たスケーリングしない振動数は、報告されているビフェニルのラジカルアニオン、ラジカルカチオンとそれらの重水素置換体の実測のラマン振動数と良く一致した。ラジカルアニオン、ラジカルカチオンでは、ベンゼノイドからキノイドへ構造変化する方向に2つの環が逆位相で振動する時のモードが大きな赤外強度を持つことが予測された。

2)長鎖オリゴフェニルのラジカルアニオンとジアニオンの構造・振動計算

 BLYP/6-31G*レベルの密度汎関数法を鎖長の長いものに適用し、テルフェニル(PP3)からセキシフェニル(PP6)の中性及びラジカルアニオン、ジアニオンの振動解析を行った。鎖長が長くなるにつれてラジカルアニオン、ジアニオンの環の間の二面角は大きくなり、PP6ではそれぞれ21.0°〜26.2°、12.9°〜16.3°となった。BLYP/6-31G*レベルの密度汎関数計算は、ビフェニルの場合と同様にPP3からPP6までのオリゴフェニルの中性及びラジカルアニオン、ジアニオンのラマンスペクトルの振動数を良好に再現した。

図1 オリゴフェニルの構造

 Naドープしたポリパラフェニレンのラマンスペクトルの帰属のために、PP6ラジカルアニオン、ジアニオンの全対称モードのバンドを、環の振動の位相連鎖に着目して解析した結果、無限鎖のゾーンセンターモードに対応するバンドと、対応しないバンドの2つに分類されることがわかった。後者のラマンバンドが出現することは、ネガティブポーラロンやネガティブバイポーラロンの生成に伴い数個の環の構造が変化すること、すわなち局所的な構造変化が起きることの分光学的な証拠となり、電子相関を考慮した密度汎関数法が長鎖共役分子の構造・振動解析に有用であることが示された。

 更に鎖長が長いPP18までのジアニオンについて、3-21G基底を用いて構造と電荷の鎖長依存性を考察した。BLYP/3-21Gレベルの密度汎関数計算では、鎖の中央部に2つの電荷が集中するバイポーラロン構造は否定され、むしろ中央部の電荷が少なく両端近くの環の付近に電荷がやや多い緩やかなポーラロン対構造を示唆する結果を得た。

3.ストレプトシアニン色素の基準振動解析1)ペンタメチンストレプトシアニン色素(SC2M)の基準振動解析

 共役メチン鎖を有するストレプトシアシアニン色素のBLYP/6-31G*やB3LYP/6-31G*レベルの密度汎関数法による振動解析はオリゴフェニルの場合と異なり、共役メチン鎖の逆対称CC(CN)伸縮モード(図3)の振動数を再現することが困難だった。電子交換に関してHF交換項とBecke88の交換項の平均をとり、電子相関についてはLYPの相関項をそのまま用いるハイブリド形式の密度汎関数法(BHandHLYP)を用いたところ,SC2Mの赤外・ラマンスペクトルの全てのバンドを単一のスケール因子で記述できることを見出した。

図2 ストレプトシアニン色素の構造図3 逆対称CC伸縮モード
2)ストレプトシアニン色素の力の定数の鎖長依存性

 鎖長を1から9まで変えたストレプトシアニン色素(SC0M〜SC4M)について、赤外・ラマンスペクトル測定とBHandHLYP/6-31G*レベルの振動計算とを用いて基準振動解析を行った。メチン鎖の逆対称CC(CN)伸縮バンドの実測振動数の鎖長依存性と、BLYP,BHandHLYPの各汎関数を用いたときのスケールしない計算振動数とを図4に示す。BLYP/6-31G*レベルでは鎖長が短い範囲ではこのバンドの振動数を再現できるが、鎖長が長くなるにつれて実測振動数とのずれが大きくなり、複数のスケール因子を用いても基準振動解析が困難であった。これに対しBHandHLYP/6-31G*レベルでは単一のスケール因子で他のバンドを含む実測の赤外・ラマン振動数を良好に再現した。

 BLYP/6-31G*やHF/6-31G*レベルで得た力の定数をBHandHLYP/6-31G*レベルの値と比較すると、共役メチン鎖の力の定数を求めるためには電子相関項と共に電子交換項を吟味することが重要であることが示された。この汎関数はベンゼンとその同位体置換体に関しても実測の振動数との対応が良好であり,電子相関の強い共役分子の振動力場を解析するのに適している。

 振動数のスケール因子はSC0MからSC4Mについて順に0.937,0.934,0.933,0.931,0.933となり、スケール因子の鎖長依存性は緩やかであった。そこで鎖長を11から21まで更に長くしたストレプトシアニン色素(SC5M〜SC10M)について、BHandHLYP/6-31G*レベルで振動計算を行った。鎖長が短いSC2Mではメチン鎖のCC結合長(計算)はほとんど等しく結合交替が認められない。これに対しSC4Mでは結合長にわずかな差異が現れ始め、SC10Mでは結合交替性が明確になった。

 鎖長が長くなると逆対称CC伸縮バンドの計算振動数はSC1Mの1632cm-1(実測:1626cm-1)からSC4Mの1508cm-1(1507cm-1)まで100cm-1以上に及ぶ低波数シフトを示した。これと同時に吸収強度はより低波数側の位相関係の異なる逆対称CC伸縮バンドに移っていき、さらに鎖長の長いSC10Mでは強度の大きなバンドの計算振動数は881cm-1まで低下することが予測された。これはZerbiがポリアセチレンに適用したEffective Conjugation Coordinate理論を用いて示される振動数と強度の変化に対応している。

 メチン鎖のCC伸縮の力の定数は鎖長が長くなると鎖内で交互に増大と減少を示し、SC10Mでは1mdyn/Åを超える差違を生じた(図5)。またCC伸縮の非対角項は、符号を交互に変えながら指数関数的に減少しつつ鎖内の端から端まで伝搬することが明らかになった。これはトランスーポリアセチレンの場合にCC伸縮の力の定数の非対角項が速やかに減少し、比較的近距離までしか伝搬しないことと対照的である。また共役メチン鎖のCC(CN)伸縮の力の定数とCC(CN)結合長の間にはほぼ直線的な関係が成立することが見いだされた。

図4 逆対称CC伸縮バンドの鎖長依存性図5 CC伸縮の力の定数の鎖長依存性
審査要旨

 本論文は、オリゴフェニルとイオン種およびストレプトシアニン色素を対象に、鎖長を変えた一連の化合物について密度汎関数法による構造最適化・振動計算と赤外・ラマン測定を行い、分子構造と振動数・振動モード・赤外強度に関する知見を得たものである。オリゴフェニルとイオン種は導電性高分子ポリ(p-フェニレン)のモデル化合物であり、ポーラロンやバイポーラロンなどの電荷担体の構造と電子状態に関する研究が行われている。ストレプトシアニン色素は可視から近赤外域の分光感度を銀塩写真システムに付与する増感色素のモデル化合物であり、ハロゲン化銀表面での吸着状態と電子移動反応に関する研究が進められている。論文は全7章により構成されている。

 第1章では、研究の目的と位置づけがまとめられており、密度汎関数法を用いてオリゴフェニルとイオン種およびストレプトシアニン色素の振動スペクトルを詳細に把握することの意義が述べられている。

 第2章では、ビフェニルとラジカルアニオン・ラジカルカチオンのBLYP/6-31G*レベルによる振動計算から、スケールしない計算振動数が、報告されているラマンスペクトルの実測振動数をほぼ再現することが述べられている。ラジカルアニオン・ラジカルカチオンの計算赤外スペクトルについても考察がなされている。

 第3章では、鎖長を長くしたパラオリゴフェニルのラジカルアニオンとジアニオンの振動計算に基づき、負のポーラロンやバイポーラロンに帰属される実測ラマンバンド(文献値)を帰属している。環の振動形の位相解析により、ラジカルアニオンとジアニオンではゾーンセンターモードに対応しないラマンバンドが観測されることが示されている。これらのモードの出現から、ポーラロンあるいはバイポーラロンの形成に伴い環数個にまたがる局所的な構造変化が起きることを分光学的に明らかにしたことが述べられている。

 第4章では、パラオクタデカフェニルまでのさらに鎖長の長いパラオリゴフェニルジアニオンについて、BLYP/3-21Gレベルの密度汎関数法による構造計算を行っている。ドープされたポリパラフェニレンの電荷坦体としてバイポーラロンとポーラロン対の2つの説が提唱されているが、電子相関を考慮するとHF/3-21Gレベルの非経験的分子軌道法計算から得られるバイポーラロン構造ではなく、分布範囲のかなり広い緩やかなポーラロン対となることが示されている。

 第5章では、共役メチン鎖長が5のストレプトシアニン色素を対象に、種々のレベルの非経験的分子軌道法と密度汎関数法による振動計算の比較が行われている。これらの中でBHandHLYP/6-31G*レベルのハイブリッド形式の密度汎関数を用いると、1つのスケール因子でストレプトシアニン色素の実測の構造、振動数、赤外強度を良好に再現することが見いだされている。またベンゼンの振動数と同位体シフトに関しても同様に実測と良く合うことから、このハイブリッド形式の汎関数は共役分子の振動計算に適していることが述べられている。

 第6章では、ストレプトシアニン色素の鎖長を1から21まで変えて振動解析を行い、振動スペクトルの帰属と力の定数の鎖長依存性について考察が行われている。鎖長が短いとCC結合長は結合交替性を示さないが、鎖長が長くなると明確な結合交替性が出現することが理論計算から明らかにされている。鎖長が1から9の色素の赤外スペクトルの振動数・赤外強度とラマンスペクトルの振動数に関して実測と良く合う計算結果を得て、赤外・ラマンスペクトルの帰属を行っている。逆対称CC伸縮バンドの計算振動数は大きな鎖長依存性を持ち、鎖長が長くなると低波数シフトを示し、これと同時に吸収強度はより低波数側の位相関係の異なる逆対称CC伸縮バンドに移ることが実験と理論計算とから示されている。鎖長が長くなると力の定数は鎖内で交互に増大と減少を繰り返し、結合交替性を示すようになるが、これはCC結合長の変化と対応している。また共役メチン鎖のCC伸縮の非対角項は、符号を交互に変えながら指数関数的に減少しつつ鎖内の端から端まで伝搬することが明らかにされている。この結果をCC伸縮の力の定数の非対角項が速やかに減少し、比較的近距離までしか伝搬しないトランスーポリアセチレンの場合と比較している。

 第7章では、密度汎関数法に基づく基準振動解析を電子相関の強い共役分子に適用することの有用性と、密度汎関数法の今後のさらなる発展に対して論文提出者の見解が述べられている。

 本論文の内容について共著者の協力のもとに2編の論文が印刷公表ないし公表予定であるが、いずれも本論文提出者の寄与が大きいと判断される。したがって、本論文の提出者である古屋和彦は、東京大学博士(理学)の学位を受ける十分な資格を有すると認める。

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