本論文は、オリゴフェニルとイオン種およびストレプトシアニン色素を対象に、鎖長を変えた一連の化合物について密度汎関数法による構造最適化・振動計算と赤外・ラマン測定を行い、分子構造と振動数・振動モード・赤外強度に関する知見を得たものである。オリゴフェニルとイオン種は導電性高分子ポリ(p-フェニレン)のモデル化合物であり、ポーラロンやバイポーラロンなどの電荷担体の構造と電子状態に関する研究が行われている。ストレプトシアニン色素は可視から近赤外域の分光感度を銀塩写真システムに付与する増感色素のモデル化合物であり、ハロゲン化銀表面での吸着状態と電子移動反応に関する研究が進められている。論文は全7章により構成されている。 第1章では、研究の目的と位置づけがまとめられており、密度汎関数法を用いてオリゴフェニルとイオン種およびストレプトシアニン色素の振動スペクトルを詳細に把握することの意義が述べられている。 第2章では、ビフェニルとラジカルアニオン・ラジカルカチオンのBLYP/6-31G*レベルによる振動計算から、スケールしない計算振動数が、報告されているラマンスペクトルの実測振動数をほぼ再現することが述べられている。ラジカルアニオン・ラジカルカチオンの計算赤外スペクトルについても考察がなされている。 第3章では、鎖長を長くしたパラオリゴフェニルのラジカルアニオンとジアニオンの振動計算に基づき、負のポーラロンやバイポーラロンに帰属される実測ラマンバンド(文献値)を帰属している。環の振動形の位相解析により、ラジカルアニオンとジアニオンではゾーンセンターモードに対応しないラマンバンドが観測されることが示されている。これらのモードの出現から、ポーラロンあるいはバイポーラロンの形成に伴い環数個にまたがる局所的な構造変化が起きることを分光学的に明らかにしたことが述べられている。 第4章では、パラオクタデカフェニルまでのさらに鎖長の長いパラオリゴフェニルジアニオンについて、BLYP/3-21Gレベルの密度汎関数法による構造計算を行っている。ドープされたポリパラフェニレンの電荷坦体としてバイポーラロンとポーラロン対の2つの説が提唱されているが、電子相関を考慮するとHF/3-21Gレベルの非経験的分子軌道法計算から得られるバイポーラロン構造ではなく、分布範囲のかなり広い緩やかなポーラロン対となることが示されている。 第5章では、共役メチン鎖長が5のストレプトシアニン色素を対象に、種々のレベルの非経験的分子軌道法と密度汎関数法による振動計算の比較が行われている。これらの中でBHandHLYP/6-31G*レベルのハイブリッド形式の密度汎関数を用いると、1つのスケール因子でストレプトシアニン色素の実測の構造、振動数、赤外強度を良好に再現することが見いだされている。またベンゼンの振動数と同位体シフトに関しても同様に実測と良く合うことから、このハイブリッド形式の汎関数は共役分子の振動計算に適していることが述べられている。 第6章では、ストレプトシアニン色素の鎖長を1から21まで変えて振動解析を行い、振動スペクトルの帰属と力の定数の鎖長依存性について考察が行われている。鎖長が短いとCC結合長は結合交替性を示さないが、鎖長が長くなると明確な結合交替性が出現することが理論計算から明らかにされている。鎖長が1から9の色素の赤外スペクトルの振動数・赤外強度とラマンスペクトルの振動数に関して実測と良く合う計算結果を得て、赤外・ラマンスペクトルの帰属を行っている。逆対称CC伸縮バンドの計算振動数は大きな鎖長依存性を持ち、鎖長が長くなると低波数シフトを示し、これと同時に吸収強度はより低波数側の位相関係の異なる逆対称CC伸縮バンドに移ることが実験と理論計算とから示されている。鎖長が長くなると力の定数は鎖内で交互に増大と減少を繰り返し、結合交替性を示すようになるが、これはCC結合長の変化と対応している。また共役メチン鎖のCC伸縮の非対角項は、符号を交互に変えながら指数関数的に減少しつつ鎖内の端から端まで伝搬することが明らかにされている。この結果をCC伸縮の力の定数の非対角項が速やかに減少し、比較的近距離までしか伝搬しないトランスーポリアセチレンの場合と比較している。 第7章では、密度汎関数法に基づく基準振動解析を電子相関の強い共役分子に適用することの有用性と、密度汎関数法の今後のさらなる発展に対して論文提出者の見解が述べられている。 本論文の内容について共著者の協力のもとに2編の論文が印刷公表ないし公表予定であるが、いずれも本論文提出者の寄与が大きいと判断される。したがって、本論文の提出者である古屋和彦は、東京大学博士(理学)の学位を受ける十分な資格を有すると認める。 |