学位論文要旨



No 112468
著者(漢字) 松森,信明
著者(英字)
著者(カナ) マツモリ,ノブアキ
標題(和) 遠隔C-H核スピン結合定数を用いた天然物鎖状構造の立体配置決定
標題(洋) Stereochemical Assignment for Acyclic Structures in Natural Products Based on Long-Range C-H Nuclear Spin Coupling Constants
報告番号 112468
報告番号 甲12468
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3248号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橘,和夫
 東京大学 教授 奈良坂,紘一
 東京大学 教授 友田,修司
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 瀬戸,治男
内容要旨 序論

 天然有機化合物の立体化学は、作用機構や構造活性相関を検討する上での不可欠の情報として、その重要性が増してきている。しかし、従来のNMR手法ではNOEや3JH,Hをもとに小員環部分の相対配置を決定できるものの、鎖状部分などの立体配置に関してはNMR以外の方法(X線結晶構造解析や分解誘導化、立体異性体の合成など)に頼らざるを得ないのが現状である。というのも、複数の立体配座が存在しうる鎖状化合物ではNOEの解釈が著しく困難となり、多くの場合NMRでは立体配置決定に到らないためである。また、NMR以外の方法にも種々の制約が伴うため、現実に多くの天然有機化合物の立体配置が未解明のまま残されている。

 そこで、NMRによる天然物鎖状部分の相対立体配置の決定法を開発すべく本研究を行った。まず、新たなNMR情報として遠隔C-Hスピン結合定数(2,3JC,H)に着目し、鎖状部分によく見られる隣接する不斉炭素、およびメチレンを挟んだ不斉炭素の相対立体配置の解析方法を考案した。同時に2,3JC,Hの測定法についても検討を加え、この実用を可能とした。さらにこの方法を用い、マイトトキシン、アンフィジノール3、およびゾーザンテラトキシンの鎖状部分の立体配置決定を行った。

第1章(1):隣接およびメチレンを挟んだ不斉炭素間の相対立配置の決定

 2JC,HはHと酸素官能基(OR)との二面角に、また3JC,HはC/H間の二面角に依存することが報告されている。図1に、これらの関係がゴーシュおよびアンチ型をとった場合の典型的な2,3JC,Hの値を示した。以下、これらの値をその絶対値の大きさにより、LargeおよびSmallと表す。

図1 スピン結合定数の角度依存性2JC,Hは当該13Cに酸素官能基が置換した場合に二面角依存性を示す。()内は酸素原子2つが1,2置換した場合の値

 これらの二面角依存性をもとに、まず隣接する不斉炭素間の相対配置について検討した。不斉炭素2つが隣接した場合、ジアステレオマーA,Bそれぞれにつき3つ、合計6つの回転配座が考えられる。これらそれぞれに予想されるスピン結合定数の大きさを図2に示した。この図より、6つの回転配座のうち、A-1,A-2,B-1,およびB-2についてはスピン結合定数の組み合わせがお互いに異なっており、これから各々が区別できる。例えば、観測された3J(H-2,H-3),3J(H-2,C4),3J(Cl,H-3)の値がそれぞれSmall,Large,Largeであった場合、あてはまるのはA-2のみであり、その相対配置はAすなわちトレオ体であると一義的に決定できる。ここでA-3とB-3の回転配座は、スピン結合定数の組み合わせが同じとなるため区別できないが、C1/C4が一方ではゴーシュ型、他方ではアンチ型になるので、これらの炭素上の1Hに関するNOEにより解決可能である場合が多い。

図2 隣接する不斉炭素に可能な6つの回転配座および予想されるスピン結合定数の大きさ

 メチレン炭素上のジアステレオトピックな水素について両側の不斉炭素との間で回転配座の帰属を同様に行えば、メチレンを挟んだ2つの不斉炭素の立体配置を関係づけることもできる。また、鎖状構造によくある二配座混合系においても、後述のようにこの方法が適用可能である。

第1章(2):測定法

 本研究での2,3JC,Hの測定は、既報のhetero half-filtered TOCSY(HETLOC)法を主に用いた。この測定法はHOHAHAに似たスペクトルを与えるが、各1H-1H相関ピークはF1軸方向に1JC,Hで分裂し、F2軸方向に2,3JC,Hでずれた形状をしている(図3)。したがって、このずれから2,3JC,Hの値を決定できる。ただし、HETLOC法はHOHAHAによる磁化移動を用いているため、四級炭素を含む場合や1H-1Hスピン結合定数が小さい場合には適用できない。そこで、Baxらによる位相検出HMBC法と併用することにした。

 位相検出HMBCスペクトルにおいて、ある水素(H)と炭素(Ca,Cb)との相関ピークの相対強度(IC3,H/ICb,H)は以下の式で表すことができる。

 

 ここで、JCa,HがHETLOC法により既知であれば、JCb,Hはこの相対強度から算出される(図4)。すなわち、HETLOCから得られた2,3JC,H値と位相検出HMBCの相関ピーク強度比の併用によって、さらに多くのJ値を得ることが可能となった。また、より効果的な2,3JC,Hの測定のために、これらに関連した測定法(例えば対角シグナルを消去したHETLOC法や,low-pass J filterを導入し1JC,H由来のシグナルを消した位相検出HMBCなど)も併用した。

図3 オカダ酸のHETLOCスペクトル図4 オカダ酸の位相検出HMBCスペクトルのスライス図HETLOCにより得られた2J(C4,H-3pro-R)の値を基に、位相検出HMBCの相関ピーク強度比と式1から、他の2つのスピン結合定数を決定した。
第2章:マイトトキシン両末端鎖状部分の立体配置決定

 上述のように、2,3JC,Hによる二面角情報の導入により、有機化合物の相対立体配置を比較的少量の試料で決定可能となった。そこで、天然有機化合物中最大の分子量(3422Da)を有するマイトトキシン(MTX)に本方法を適用し、既法では解析不可能であった両末端鎖状部分(C1-C15およびC134-C142,図5)の相対立体配置の帰属を試みた。測定試料として、13Cの同位体含量を4%にユニフォームエンリッチしたMTX(9mg)を用いた。

図5 マイトトキシンの両末端鎖状部分

 MTXのC5-C6結合に関する3つの回転配座と予想されるスピン結合の大きさを図6Aに示した。実測値は、H-5/H-6lとH-6h/5-OHが共にアンチになることを示しており、C5-C6の回転配座はIであることが明らかとなった。同様にしてC6-C7結合に関する回転配座を特定した(図6B)。帰属されたメチレン水素に基づきA-IとBをつなげることで、C5とC7の相対立体配置を決定した。

図6 A.MTXのC5-C6に考えられる回転配座(I-III)のスピン結合の大きさと実測値B.実測値に基づくC6-C7の回転配座*H-6h,H-6lはそれぞれ1.62,2.09ppmのプロトンを表す

 NOEデータおよび中間的な3JH,H値から複数の回転配座の共存が示唆されたC7-C8およびC8-C9部分に関しては、平衡に関与する配座を特定することで相対立体配置を決定した。すなわち、C7-C8部分については、得られた中間的な3JH,H,2JC,Hとゴーシュに典型的な3JC,Hを満足するのは、両ジアステレオマーを含めて図7Aに示す一組の配座平衡のみである。同様にC8-C9部分の相対立体配置を配座平衡の特定により決定した(図7B)。以上の結果、C5-C9部分の相対立体配置を5R*,7R*,8R*,9S*と決定した(図8)。

図7 MTXのC7-C8(A)およびC8-C9(B)におけるスピン結合定数と可能な交換配座**1,2置換した酵素官能基により、Bの2JC,Hは典型値に比べて正方向に1-2Hz移行している(図1参照)。

 C1-C15の残り部分については、C9-C12のNOE解析およびC12-C15の本法による解析により、C13-C14を除く全ての相対配置を特定できた。これに基づき、C13-C14に関する2種類のジアステレオマー・モデル化合物が共同研究者により合成され、天然物とのNMRデータの比較によって立体配置が決定された。もう一方の鎖状部分(C134-C142)についても、C134-C138の相対立体配置を本法により特定できた。多スピン系のためピーク強度が弱く解析困難だったC138-C139部分に関しては、可能な4種類の立体および光学異性体が共同研究者により合成され、絶対立体配置も同時に決定された。これにより絶対配置を含むマイトトキシンの全立体化学が決定された(図8)。

図8 NMR解析および有機合成から決定されたマイトトキシン両末端鎖状部分の絶対立体配置
第3章:アンフィジノールの立体配置決定

 渦鞭毛藻Amphidinium klebsiiより単離され平面構造が決定されたアンフィジノール3の立体配置についても同様に検討を行った。NaH13CO3添加条件にてA.klebsiiを200L培養し、13Cが約25%にエンリッチされたアンフィジノール3(8mg)を調製した。本化合物に上記のNMR解析を行い、図9に示す相対立体配置を決定した。

図9 A.アンフィジノール3の相対配置(C27/C32の関係は不明)B.スピン結合定数より得られたC20-C27部分の立体構造 C24-C25についてはNOEを考慮して帰属した。

 これら以外にも、この方法論を用いて渦鞭毛藻由来のゾーザンテラトキシン加水分解物の相対立体配置を決定した。このように、C-H間のスピン結合定数を新しい情報として用いることにより、従来困難であった非環状化合物のNMRによる立体構造解析が初めて可能となった。

審査要旨

 本論文は天然物鎖状構造での不斉炭素間の相対立体配置決定における新しい方法論の提唱と有用性の実証に関するものであり、序論、3章からなる本論、結語、および4項の付録により構成される。序論は研究の位置付け、本論第1章はここで提唱し2章以下で用いた解析法の原理と論理および実験測定手段、同第2章、3章はそれぞれ2種の天然物に関する立体配置決定への本解析法の適用、そして結語は研究成果がもたらす意義と残された問題点について述べられている。さらに研究の主体が他大学にあるもう1種の天然物の加水分解物への本法の適用が付録Iとして添付され、付録IIは立体配置既知の化合物の立体配座解析での本法の有効性が述べられている。さらに付録IIIとして解析に用いられた核磁気共鳴実験でのパルス照射のプログラム・ファイル、付録IVとして印刷公表された出版物の写しが添付されている。

 序論では研究開始時での鎖状構造の立体配置決定法の現状と、より有効な方法の必要性、および別の目的で使用される既知の測定手段を本論文での研究における方法論に用いる着想に至った過程が述べられ、本研究での新規性の範囲が明確に示されている。

 本論第1章では、序に続く第2節で研究に適用した既知の原理である測定値の二面角への依存性(次頁図上)に関して述べた後、第3節で測定結果の組み合わせから立体配置決定に至る論理(図下)が注意深く展開されており、この手順が原理的に可能な適用範囲が明確に示されている。さらに第4節に述べられた核磁気共鳴装置を用いた測定法と付録に添付された実験でのパルス・プログラムにより、読者による追試が可能となっており、上記第3節での解析手順と併せることで第2章以降に研究対象とした化合物以外での立体配置決定にも適用可能となっている。

スピン結合定数の角度依存性2JC,Hは当該13Cに酸素官能基が置換した場合に二面角依存性を示す。()内は酸素原子2つが1,2置換した場合の値隣接する不斉炭素に可能な6つの回転配座および予想されるスピン結合定数の大きさ

 第2章、第3章はともに序、実験法、結果と考察、および結論からなる4節に、結論に至る過程で重要な核磁気共鳴実験の二次元生データが補遺添付されている。第2章では植物プランクトンである鞭毛藻由来の強力な海産毒である高分子量天然物マイトトキシンの分子構造中、これまで有効な手法がなかったため立体配置決定が未決定で残されていた分子両端鎖状部へ、前章での実験解析手段を適用した結果、一部を除く9箇所の立体配置が決定できた経緯が述べられており、これにより前章で提唱された解析法の有用性が明確に示されている。さらに、この結果を踏まえて共同研究者により本分子の完全構造決定に至ったことを述べることで、ここでの論文提出者の寄与の範囲とともに本研究の意義の大きさが明確に示されている。

NMR解析および有機合成から決定されたマイトトキシン両末端鎖状部分の絶対立体配置

 第3章では同じく鞭毛藻由来で大部分が鎖状構造をなす細胞毒性天然物アンフィジノール3(AM3)への上記解析法の適用に関して、培養による分子への13C同位体ラベルの有効性とともに、この解析法の適用限界内での立体配置決定の過程と結果が論理的かつ明解に述べられている。

AM3のC32-C38部分およびC43-C51部分の相対配置(C27/C32の関係は不明)

 以上本論文の研究内容は、論文提出者が提唱した天然物の立体配置決定法での新しい方法論を、提出者自らにより現実にこれが未決定であった天然物に適用することで、その一般的有用性を証明したものである。この結果この方法論が本研究分野での他の研究者に今後広く普及することが予想され、よって天然物化学に大きく貢献する革新的な発見を含むと判断される。

 なお、本論文第2章の研究で用いた測定試料の調達に関して、本学大学院生の野々村太郎、および東北大学農学部の安元健教授と佐竹真幸助手の協力を受けたが、本論文に詳述された部分は全て論文提出者によるものであり、その寄与は十分であると判断する。

 よって、本論文提出者である松森信明は、博士(理学)の学位を授与される資格があるものと認める。

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