学位論文要旨



No 112485
著者(漢字) 石橋,百枝
著者(英字)
著者(カナ) イシバシ,モモエ
標題(和) 濡れによる光合成阻害とそのメカニズムに関する生理生態学的研究
標題(洋) EFFECTS OF CONTINUOUS LEAF WETNESS ON PHOTOSYNTHESIS AND THE MECHANISM OF INHIBITIONS
報告番号 112485
報告番号 甲12485
学位授与日 1997.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3265号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡邊,昭
 東京大学 教授 石井,龍一
 東京大学 教授 近藤,矩朗
 東京大学 助教授 池内,昌彦
 筑波大学 助教授 寺島,一郎
内容要旨 はじめに

 陸上植物に水は不可欠であり、降雨量の少ない地域ではとくに植物への乾燥の影響に関する研究が盛んである。日本を含む東アジアは多雨多湿で、欧米のような乾燥した気候とは風土が異なるにも関わらず、日本においても乾燥ストレスに関する研究が多く、雨に関する研究は極めて少ないのが現状である。雨はまた大地を潤すだけでなく、葉を水滴で覆う。二酸化炭素の水中での拡散速度は大変遅く、水滴が葉の表面を覆った時の光合成速度が低下することが予想される。修士課程の研究において恒温室内における24時間の噴霧処理(以後「雨処理」)が、インゲンマメ(Phaseolus vulgaris L.)の初生葉の光合成を低下し、植物体の生育を阻害することを見いだした。そこで、本研究では濡れが葉の光合成に及ぼす影響や阻害のメカニズムについて、そしてその直接の原因について解析を行った。

1雨が葉の光合成に与える影響a)降りはじめの葉の反応;

 修士課程での研究から、気孔は濡れにすばやく反応して閉じ、1時間ほどかけて徐々に開度を増すことが明らかになったが、気孔の開閉とともに光合成速度がどのように変化するのか、濡れたまま光合成速度を測定し、雨の中での光合成速度を測定した。光合成速度は雨処理開始後すぐに35%程まで低下し、そして気孔開度の増加とともに1時間後には処理前の約70%で安定した。このとき葉を乾かして、二酸化炭素の拡散阻害のない条件で、その葉の持つ潜在的な能力としての光合成速度を測定すると全く阻害はなかった。

b)光合成の阻害;

 さらに処理を続けた結果、雨処理開始後2時間では影響がみられないものの(図1)6時間後に高二酸化炭素分圧領域の光合成速度に差が生じはじめ(図1)、24時間後には大気条件下(35PaCO2)での光合成速度は大きく低下した。この時の光合成速度は雨処理中止後3日を経ても回復しなかったが、高二酸化炭素分圧下の光合成速度は3、4日で回復した。高二酸化炭素分圧領域での光合成速度の低下が可逆的なのに対して、大気条件下での光合成速度は不可逆であることから、雨による光合成の阻害には2種類の阻害機構が存在することが示唆される。

d)雨処理時の光環境;

 修士課程の研究では、雨処理時の光環境に関係なく光合成が阻害を受けるという結果を得たが、さらに光強度を低くして雨処理を行ったところ、雨処理による光合成阻害率は一日の積算光量子密度が5mol m-2day-1の時にもっとも大きく(これは雲霧地帯や、明るい雨の日など、自然界でもみられる明るさである)それ以下の光強度では阻害率は徐々に減少し暗黒下では全く阻害効果がないことが示された(図2)。

図1.雨処理前後の光合成速度1400mol m-2s-1の光量子密度下、葉温25℃で、測定時の二酸化炭素分圧を変えて光合成速度(A)を側定し、計算によって求められた葉内二酸化炭素分圧(Ci)に対してプロットした.異なるシンボルは植物個体の違いを示し、白はその個体の雨処理前.風は雨処理後の光合成速度を示す.図2.雨処理時の光量子密度と光合成阻害率24時間の雨処理中に観測された積算光量子密度に対する雨処理前後の光合成速度の比(雨処理後/雨処理前の光合成速度)図3.RuBisCO量と光合成速度の相関関係大気条件下で測定された雨処理前(〇△□)と24時間雨処理後の光合成速度(●▲■).異なるシンボルはそれぞれ異なる実験シリーズを表している.相関係数r2-0.84
2.光合成阻害のメカニズム

 一枚の葉の持つ光合成能力は光-光合成曲線や葉内二酸化炭素-光合成曲線(ACi曲線)の形に反映される。とくにACi曲線では気孔開度の影響を排除できるので、ACi曲線における光合成の律速段階を炭酸固定酵素RuBP Carboxylase/Oxygenase(RuBisCO)のcarboxylation反応の律速条件で説明できる。二酸化炭素量が少ないときのcarboxylation速度は、二酸化炭素を獲得するRuBisCOの活性で律速を受ける。しかし、高い二酸化炭素分圧領域で二酸化炭素量が飽和してくると今度はcarboxylation反応のもうひとつの基質であるRuBP量がその反応速度を律速する。つまり、RuBPの生成に必要な光化学系からのエネルギー(ATP)と還元力(NADPH)が律速するのである。雨処理前後でACi曲線が著しく異なり、初期勾配でも高二酸化炭素分圧領域でも光合成速度の低下がみられることから、要因を次のふたつに分けて考え、解析を進めた。

a)ACi曲線の初期勾配の低下;

 ACi曲線の初期勾配はRuBisCOのinsitu活性を反映していることから、まずRuBisCOの活性を測定した。十分に活性化させたときの酵素活性(最大活性)も、葉の破砕直後に測定した活性(初期活性)も、大きく減少しており、活性率の変化よりも酵素量自体の変化を示唆している。そこでRuBisCO量をSDS-PAGEによって測定したところ、著しい酵素量の減少が見られ大気条件下で測定した光合成速度をRuBisCO量に対してプロットすると、良い相関が見られた(図3)。このことから、雨処理による光合成阻害の一因は、RuBisCO量の減少にあることが明らかになった。初期勾配の低下が不可逆的であることも、酵素量の減少で説明できる。

b)高二酸化炭素分圧領域での光合成の低下;

 雨処理後の高二酸化炭素分圧領域での光合成速度の低下は、RuBisCO量の低下では説明できない。この部分はRuBPの生成速度で律速される部分であり、アンチセンス突然変異種を用いた解析からも50%程度のRuBisCOの低下ではACi曲線の高二酸化炭素分圧領域の光合成速度は低下しないことが知られている。つまり、高二酸化炭素分圧領域の光合成速度の低下の原因はまた別に考察しなくてはならない。そこで、ATPやNADPHの供給量の変化を通して光合成速度を律速しうる光化学系の電子伝達活性を測定した。すると、光化学系の全鎖の活性は雨処理によって低下していた。これを高二酸化炭素分圧領域での光合成速度に対してプロットした図4から光合成速度低下の主原因は電子伝達活性の低下にあることが示された。では、電子伝達鎖のどの部分が阻害されているのだろうか。光化学系Iや系IIの活性には変化がなくP700量の測定や系II活性の指標となる蛍光値にも変化がみられなかったことは、b/f複合体など系IやII以外の部分であることを示唆している。

図4.電子伝達速度と光合成速度の相関関係高二酸化炭素分圧領域での光合成速度は90PaCO2で測定した光合成速度で表し、全鎖の電子伝達速度は水からMVまでの酸素吸収速度で示した.図5.低二酸化炭素処理後の光合成速度葉内二酸化炭素分圧(Ci)に対する.a 7PaCO2処理後(●■▲)と末処理(〇□△)の葉の光合成速度と.b 6PaCO2処理後(●■)と未処理(○□)の葉の光合成速度.処理時の光量子密度1000mol m-2s-1
3.葉にとって濡れとは何か

 降雨時には通常雨粒の落下に伴って、雨雲の発生による光強度や葉温の低下、湿度や土壌水分量の増加が起こる。しかし、本研究では葉に対する「濡れ」以外の影響を排除したので、光合成の阻害原因は水滴が葉に付着すること自体にある。水滴の効果とはいったい何なのだろうか。以下の3点を考察した。

a)光の効果;

 水滴が葉の表面に付くことによって葉の内部光環境が変化する可能性がある。これについてはBrewer et al.(1991)が詳しく述べているが、水滴の形によってはレンズ効果によって光を葉の内部に集めたり、逆に影を落としたりする。しかし、葉の内部光環境に変化があればクロロフィル量の変化が予想できるが、長期の雨処理後の葉のクロロフィル量に有意差がみられず、葉の内部光環境の変化は光合成阻害の原因となるほどに存在するとは考えにくい。

b)水の効果;

 Stenlid(1958)は自然界の降雨によってイオンなどさまざまな物質が葉から水へ流失するリーチングという現象を見いだし、Tukeyら(1970)は放射性物質を利用して冠水時に葉からイオン、糖類、アミノ酸や植物ホルモンなどが溶け出すことを示した。雨処理による光合成阻害はリーチングが原因なのだろうか。Tukeyらと同様に水中に葉を浸し、その後の光合成速度を測定した。すると300m-2s-1の光の下ではACi曲線でみると、光合成速度が対照にくらべてどの二酸化炭素分圧でも低下した。しかし、暗黒下で水のみの影響を見ると光合成速度の低下はみられなかった。

c)二酸化炭素欠乏の効果;

 水滴が気孔を塞ぐと、先に述べたとおり二酸化炭素の細胞への拡散速度は著しく遅くなる。そこで、雨処理や冠水処理での効果が二酸化炭素の不足によるものかどうか、インゲンの二枚の初生葉のうち片方の葉を低二酸化炭素分圧にさらし、1000m-2s-の光を照射した。処理二酸化炭素分圧を雨処理時の推定葉内二酸化炭素分圧である7PaCO2まで低下させたところ、図5のように高二酸化炭素分圧領域で顕著な光合成速度の低下を示した。さらに、推定分圧がより低い可能性も考え、処理分圧を6PaCO2まで低下させたところ、図5にあるようにACi曲線は雨処理後と同様に顕著な光合成速度の低下を示した。また、雨処理後の葉と同様に系Iや系IIの傷害を引き起こさずに全鎖の電子伝達活性が低下していることがわかった。しかし、雨処理におけるようにルビスコの分解は引き起こさず、ルビスコの活性低下にとどまった。この結果から雨処理による光合成の阻害原因の一部が二酸化炭素欠乏による可能性を示された。

おわりに

 乾燥ストレス下の葉の葉内二酸化炭素分圧は、気孔の閉鎖によって低下していることが知られている。本研究の結果から、水の有無という点で大きく異なってはいるものの乾燥ストレスと雨処理が二酸化炭素欠乏という点で共通していることが明らかになった。二酸化炭素欠乏下では、ATPと還元力に変換された光エネルギーは行き場を失い、葉緑体内で傷害を引き起こすのだと考えられる。また、低温障害も低温で酵素活性が抑えられることによる光エネルギーの過剰で起こるといわれている。乾燥ストレスや低温障害を含む多くのストレスも、葉の光合成システムにおける光エネルギーの需要と供給の不均衡という点で雨処理と共通しており、本研究は植物の葉における多様なストレスを統一的に理解する一助になると考える。

審査要旨

 本論文は三章からなり、第一章には長期間の濡れが葉の光合成や気孔反応にどのような影響を与えるか、第二章には葉の濡れによって引き起こされた光合成の阻害のメカニズムについて、そして第三章には二酸化炭素欠乏の影響について述べられている。

 第一章では、葉の濡れに対する気孔開閉反応とともに分という時間スケールで光合成が変化することを明らかにするとともに、光合成の阻害がどれくらいの時間、濡れに晒されると起こるのか、そして処理時の光環境の阻害への影響など、濡れによる光合成阻害の条件を特定している。濡れに対する光合成の反応が気孔反応と同じように変化し、その一時的な濡れによる光合成の低下が可逆的なのに対して、6時間以上の葉の濡れによって引き起こされる光合成の阻害は不可逆的であり、光合成研究の長い歴史の中で見逃されてきた全く新しい特性の発見である。そして、その阻害が処理時の積算光量がある程度以上にならないと誘発されないことも明らかにしている。

 第二章では、濡れによる光合成阻害のメカニズムについて、ふたつの要因に分けて議論している。ひとつは炭酸固定酵素ルビスコの分解で、酵素の初期活性、最大活性とともに、タンパク量やウェスタンブロットでの確認など適切な操作を行って、リブロース二リン酸カルボキシラーゼ(RuBisCo)が24時間の濡れによって処理前の約半分にまで減少し得ることを立証している。これは、脅威的な速さであり、その分解の詳細なメカニズムをここでは明らかにしていないとはいえ、濡れによってこのようなタンパク質の分解が起こることはひとつの発見であると高く評価できる。もうひとつの、RuBisCoの減少に前もって起こる光合成阻害の原因を電子伝達速度の低下と特定している。これについては、クロロフィル蛍光の経時変化や電子伝達速度の計測によって、これまで知られていたような光化学系Iや系IIの光傷害ではなく、全体としての電子伝達速度が低下していることなどから系Iと系IIの間の部位の傷害であることを推察している。間接的な結果からチトクロームb/f複合体の傷害ではないかと予測しているが、その可能性については今後の検証が必要であろう。しかし、これは全く新しいタイプの光阻害であり、阻害部位の特定は光エネルギーの需要供給のバランスの制御メカニズムを考える上でも大変興味深い。

 第三章では、濡れの直接の原因として二酸化炭素欠乏の可能性を考え、濡れた葉に予想される二酸化炭素分圧で植物体を処理し、その光合成や酵素活性、クロロフィルの蛍光など、第二章で検証した濡れによる阻害部位を比較している。光合成速度は二酸化炭素分圧6Paの処理によってどの測定二酸化炭素分圧でも光合成速度が低下し、濡れによる阻害を受けた葉と同様に光化学系Iでも系IIにも傷害がない状態で電子伝達活性が低下していた。しかし、濡れによる阻害ではRuBisCoの分解があったが二酸化炭素欠乏処理ではRuBisCoの活性低下にとどまり、分解は見られなかった。このことは、濡れによる阻害の直接的な原因が二酸化炭素欠乏だけでは説明されないことを示している。二酸化炭素欠乏によって低下したRuBisCoの活性化率低下が分解につながるのかどうかという問題は、その分野でも意見の分かれる難しい問題で本論文の範囲を超えているが、全般的に、しっかりとした目的意識のもとに実験を組み立てる独創性と、得られた結果からの考察の緻密さは群を抜いていると評価できる。

 なお、本論文第一章は寺島一郎氏との、第二章の前半は寺島一郎氏と臼田秀明氏との、また後半と第三章は園池公毅氏と渡邊昭との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 よって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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