審査要旨 | | 歯は脊椎動物が古くから持っている構造の一つで,上皮-間充織相互作用によって形成されるため,進化学的にも発生学的にも興味が持たれている器官である.歯の形態学・組織学的な研究は,現生種・化石種の両方について前世紀より行われており,多くの研究者により個体発生と系統進化の関係が議論されてきた.しかし従来の歯の研究は主に哺乳類などの高等脊椎動物を対象としたものが多く,脊椎動物の中でも古い起源を持ち、歯の起源を探る上で重要なサメ類についての研究例は少ない。とくにサメ類の歯の化学組成・組織化学的・生化学的性質などに関しては、十分な検討ががされていなかった。 本論文は,サメ類における歯の形成と進化を明らかにする目的で、ネズミザメ目およびメジロザメ目に属する計3種を対象として、歯および皮歯(鱗)の無機鉱物の化学組成・元素分布,およびそれらの中の有機基質の分布様式,成熟歯および未成熟の組織に含まれる有機分子の性質などについて詳細な分析を行い,その結果を基に種間あるいは器官間で比較生化学・生鉱物学的な比較検討を試みたもので、極めて独創性の高い研究成果である.本論文では,サメ類の(1)象牙質の性質について,(2)エナメロイドの形成機構について,そして(3)歯と鱗の関係について、の相互に関連する3つの課題が、豊富なデータに基づき議論されている。 論文の前半部で申請者は象牙質の性質について考察している.一般に象牙質には構造的に大きく異なる2つのタイプ、すなわち一つの髄を持ち発達した象牙細管を有する真正象牙質と,多数に分岐した髄を持ち象牙細管が未発達な骨様象牙質の存在が知られている。従来の研究では,2タイプの形態学的な違いが、石灰化や有機基質形成と関連してどのようなメカニズムで生じるのか不明であった。申請者はこの問題に取り組み、EPMAを用いて様々な元素の分析を行い,真正象牙質と骨様象牙質の間でマグネシウムの含有量に顕著な違いがあることを明らかにするとともに,この元素量の違いが石灰化に伴うイオンの輸送様式の違いに起因するという新しい解釈を提示した.また,電気泳動法を用いて象牙質中のタンパク質の比較を試み,分子量および糖鎖の結合の有無において上記2タイプの象牙質の間に明瞭な違いがあることを明らかにした.申請者は、さらに骨様象牙質を有する歯の抽出物に対する抗体を用いた免疫測定,イムノブロット,および免疫組織化学的検討を試み、この2タイプの象牙質は異なる基質形成ブロセスを持つことを実証した。 次に,申請者はエナメロイドの形成機構について考察を加えている。従来、エナメロイドの形成は、上皮細胞由来説と間充織細胞由来説の2つに意見が分かれていた.このことは,上皮細胞によって形成される哺乳類のエナメル質と,魚類に発達するエナメロイドの間に進化的な繋がりがあるかどうかを解明する上で重要な問題である.従来の研究者は、細胞の形態変化という解剖学的所見に基づいて議論を行ってきたが、生理的条件をより直接的に示す化学的データに基づく検討はなされていなかった。そこで、申請者は後者の視点に立ち、無機元素の分布と濃度を指標として石灰化におけるイオン輸送を考慮に入れて,走査型電顕(SEM)による観察と組織化学的観察に基づき有機基質と諸細胞の関連を考察するとともに、基質タンパク質については間充織由来である象牙質の基質との比較を試みた.その結果,サメ類の3種間でナトリウム,カルシウム,マグネシウムの濃度と分布様式が極めてよく類似するという事実を明らかにした.さらに,ナトリウムやマグネシウムなどの微量な元素の濃度と分布が哺乳類のエナメル質についての分析結果とよく対応することを示し,エナメロイドにおいても石灰化におけるイオン輸送は,哺乳類のエナメル質と同様に上皮細胞によって行われていると結論づけた。 一方,SEMによる観察から,ネズミザメ目ホホジロザメのエナメロイド基質にメジロザメ目等には見られない胞状構造物(vacuole)を認めるとともに,この胞状構造物が象牙芽細胞からのくびれによって形成されること,また基質の構成要素である非コラーゲン線維も象牙芽細胞にまとわりついてことを示した.そして,エナメロイドと象牙質の抽出物に含まれる可溶性のタンパク質について比較することにより,両者に同じ主要成分が含まれていることを明らかにした.さらに,免疫測定やイムノブロットによる比較などから,エナメロイドの有機基質が象牙芽細胞(間充織)によって形成されることを明確にすることに成功した.これはエナメロイドが,上皮細胞由来の哺乳類のエナメル質とは本質的に異なっているということを意味しており,このことから有機基質形成に関しては,少なくともネズミザメ目のエナメロイドはエナメル質と進化的に繋がらないとの結論を導いた.加えて,申請者はネズミザメ目で見られたエナメロイドの特質は,ネズミザメ目が骨様象牙質という他と違うタイプの象牙質を持つことと関連があるとの解釈を示した.その根拠として,エナメロイドの基質形成の際に、他のサメ類に見られない胞状構造物が発達し,この胞状構造物が象牙芽細胞のくびれによって生じること,また象牙質のタイプ間におけるマグネシウム量の違いが,同じく象牙芽細胞のくびれによって生じる小胞(多量のマグネシウムを含むことが知られる)の違いによって説明され得るなど,いずれも象牙芽細胞の挙動にそれらの特異性の原因を求められる可能性があることを挙げている. 論文の後半では、歯と鱗の関係についての研究成果がまとめられている。歯は鱗が口腔に入ることによって出現したとする説は古くからあるが,それは構造的な同一性のみを根拠にしており,石灰化および基質形成についての比較は従来ほとんど行われていなかった.そこで申請者は、ネズミザメ目の種の同一個体の歯と鱗を用いて、,無機元素の比較と免疫組織化学的方法による有機基質の比較を試みた.その結果,鱗の石灰化の機構は歯のそれと一致することや,歯と鱗の双方の器官において有機基質に共通性が高いという新事実を明らかにした.すなわち、本研究は,歯と鱗が共通の進化的起源を持つという旧来の解釈を物質化学的側面から裏付けたと言える。申請者はさらに、歯と鱗者がある部分の発生機構を共有していることを示唆するとともに,歯の進化と鱗の進化をリンクして考察する必要性を強調している。 本論文は、従来細胞組織学・形態学的側面からの研究が主体であったサメの歯の器官形成と石灰化の問題を、生化学・生鉱物学・免疫組織化学などの物質科学的側面から詳細に比較検討して、多くの新しい進化学的知見を得ることに成功した点で、国際的に高く評価される。ただ、今回扱った材料は3種と少ないため、サメ類の歯の進化を解明する上ではまだ十分とは言えない。本論文で得られた結論をさらに補強し発展するためには、今後化石種を含めた多くの分類群について、古生物学・細胞組織学・生鉱物学的・生化学・分子生物学的手法を駆使した詳しい比較検討が望まれる。しかし、申請者が本論文で導入した方法と概念は,歯の発生と進化についての新しい領域を開拓し,硬組織形成論と脊椎動物学の発展に関して一つの規範を示したと言える.よって,審査委員全員は申請者が博士(理学)の学位を受けるに十分な傑出した論文を提出したと判断した. |